「忍土」を生きて、闘って
紅白歌合戦を見ていたら、飽きてきた。
知らない歌手がいっぱいである。
私の娘とその子どもたちは(つまり孫)、それに古女房ドノは一生懸命見ている。
つまらないので、書庫に帰った。そして、この一年を振り返ってみた。
忍土というのが一番当たっていたなぁ~と思っていた。孫1号と一緒に風呂に入って身体を洗ってやったり、アタマを洗ってやっていた。
そして自分自身のことを考えていた。
孫1号が風呂を出ていってからは。
「忍土」であったなぁと思う。しみじみ思う。
ちなみに、「忍土」とは、仏教用語である。
コトバンクにこう書いてある。
忍土 にんど .
世界大百科事典内の忍土の言及
【娑婆】より
…このように,娑婆はもともと原語の理解や翻訳語が異なっていたため,中国仏教ではさらにさまざまな意味に転化して用いられている。また,もっともひろく〈堪忍〉の意味に用いられ,忍界(にんかい),忍土(にんど)などとも呼ばれ,この世は人間があらゆる悪事や苦しみを耐えしのばねばならない迷いの世界,つまりいとうべき,捨てさるべき世界と考えられた。しかし,一方,悟りの立場から見ればこの迷いの世界はそのまま仏の悟りの世界にほかならないとして,禅宗では〈娑婆即寂光土(しやばそくじやくこうど)〉といい,迷界のほかに仏界なしと主張した。…
これをもって、この一年の締めとしたい。
そういうことである。
幾多の試練もやってきたっけ。病気になっちまったこと、現在かなり体調が良くなったとはいえ、回復途上であるということ、さらに大学院中退(3年次)という実に厳しい試練もあった。
この一年は。
ようやく耐えてきた。
それが実感である。
しかし、そもそもこの世が「忍土」であるならば、コトバンクに書いてあるように「この迷いの世界はそのまま仏の悟りの世界にほかならない」のである。このことの自覚なしに、生きることはできない。
つまり、忍土は我々に要求している。今この現在をどれだけ一生懸命生きているかということをである。私は、それが身にしみてよく理解できたと思う。この一年で。
忍土からは逃げることもできない。
試練とは闘うしかない。
病気も、挫折ともである。
そうやって闘ってきたからこそ、この一年がすばらしい体験であったと感じることができるのである。
明日からの新年もまたすばらしい体験でありたいものである。
また来年もお会いしましょう。
このブログで。