と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

離婚式はおごそかに・・

2014年05月31日 05時49分44秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

いろいろ個人的な事情はおありだろう・・

 

 

親密度というのを考えることがある。

ここのところずっと考えている「未練」というやつである。ぐだぐだといつまでも、断ち切れないというのが未練である。そこで離婚ということをさらに考えた。

昨日在籍大学から帰ってきたのだが、家に到着する前に、gymに寄ったのだ。中国語講座があったので、夕方も6時を過ぎたのだが、今週は目一杯講義を受けたり、別の大学で自分の授業をしたりしていたので疲れてしまったからである。そうなのだ。疲れた時は逆に身体を鍛えるに限る。そしてサウナである。だから、クルマで寄ったのである。

で、ウオーキングマシーンに乗って歩き始めた。むろんテレビをつけて。そしたら「離婚式」というのを発明した知恵者がいて、かなり繁盛しているのだということを紹介していたのだ。これはこれは、目の付け所がシャープですなと思いながら、半分呆れ、半分同情しながら見ていた。さらに、オレだってこの危険性がないわけではない、古いおつきあいの女房殿に捨てられないようにしなくちゃ、クワバラ・クワバラと一人でつぶやきながら見ていたのである。決して他人事ではない。さらに、離婚される方はそれぞれ事情というものを抱えているのだから、一概に一般化して良いだの悪いだのとはいえない。云っちゃならない問題である。しかしである。こういう商売が成り立つということに、まずはびっくりしたのである。

「裂人」というのもいた。結婚式に「仲人」というのがあるように、二人の間を裂く役割の人物である。「さこうど」と発音するのだそうだ。

離婚式は、おごそかに行われていた。

新婦ならぬ旧婦はナミダを流していた。

やっぱり「未練」があるのである。ここが日本人のいいところであり、欠点でもあるのである。なんでだろうと思った。甘えがあるからか?それとも西洋文化でいうところの愛が欠如していたからか?

一昨日「アナと雪の女王」を見たときも、デイズニーらしく、最後は「愛の物語」でしめくくっていた。しかし、あの物語には、裏側に恐怖がある。アナが、結局は騙されるのであるけれども、婚約者のナントカ王子というのと結婚をするというのが物語のBaseにあって、これも愛であるのかということを考えてしまったからだ。西洋文化の愛は、憎しみと同居しているような気がするのだけれども、いかがなものだろうか。

だから未練の無いドライな人間関係の方がいいのだということも、オレは言い切れないと考える。なんでもかんでもドライでいいのかと思うからである。

捨てたい、いなくなってほしいと感じる人間は確かにこの世の中にたくさんいる。オレなんかも、たくさんの方々にそう思われて生きてきたと思っている。タブン。ご迷惑をおかけしてきたからである。意識していなくても、意識しても、そういう場面設定はたくさんあったと思う。だから大切にしているのである。人間関係を。

基本として、そういうものが無いと、ドライな人間関係だけでは寂しいではないかと思うのだ。だからオレもまた「未練」たっぷりな人間なのだ。さばさばしていないのである。人間関係を引きずる典型的な「未練がましい」人間なのである。ただし、ある時点で未練を切ってしまう。オレの場合は。それは儀式をもってして、ある瞬間からこの人間関係は終わりにしなくちゃならないと思ったら、即実行する。

しかたの無いときはあるのである。

居酒屋で、一人ぽつねんと飲むのもいいだろう。素敵なバーでマスターとしみじみ語りあうのもいいだろう。そもそも、そんな体験はもうすることができないからだが。

アルコールが嫌いになったので。(どーも、ウソっぽいなぁ・・・)。

いや、違う。そんなものに使えるお金がないのである。生涯教育という趣味のために使っていたほうがいいからである。

 

 

しみったれた、年金生活者でありますから。

わはははっはははである。

 

じゃぁねぇ!

                                                                                                                         

                                                                               

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月30日(金)のつぶやき

2014年05月31日 05時35分45秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

@chizulabo” RT @hey_muu エロマンガ島はエロマンガなんて読んでる余裕など全くない島だったという事実 ->悲劇の島エロマンガ島 apa-apa.net/kok/news/kok19…

と~ま君さんがリツイート | RT

@hey_muu” RT @chizulabo 名前がなんだか。 pic.twitter.com/k2sYZ5iI8z

と~ま君さんがリツイート | RT

病(辞)める教員たち tmaita77.blogspot.com/2013/11/blog-p… 教員の疲労度が客観的にみて高いという話だけど,最近は病気離職率も増加している。2013年の『学校教員統計』のデータが間もなく出るが,どうなっているか。

と~ま君さんがリツイート | RT

【緊急速報】「アナと雪の女王」Amazon限定Blu-ray&DVDと、Blu-ray&DVD+3Dセットが予約開始⇒amzn.to/1k5BxnW
特集⇒amzn.to/1mtLqdr pic.twitter.com/g0WdQcwKwm

と~ま君さんがリツイート | RT

熊谷千葉市長 「働いている奥さんが好き」 | 日経DUAL dual.nikkei.co.jp/article.aspx?i…「子育て世帯を支援するというのは、単に子育て世代対策ではなくて、高齢者施策でもあり、さらには経済政策でもあるんだ」(市長)。その通りだ。

と~ま君さんがリツイート | RT

「学生の社会経験充実を」 有識者会議が報告書  :日本経済新聞 s.nikkei.com/1wqhMNa いいことだと思うけど,ますます大学って何だか分からなくなってきたよ。そこで教える教員に求められるのは博士号なんかじゃなく,社会人経験だな。

と~ま君さんがリツイート | RT

■「真の思いやりがあればたくさんの言葉はいらない。」【アラバホ族】

と~ま君さんがリツイート | RT

映画で泣けてしまったのだ

昨日の午後、「アナと雪の女王」を映画館で見てきた。

泣いたね、実にいい映画だった。なるほど、これでは「風立ちぬ」もかなわなかったわけだと... goo.gl/8gS82v


他に私をブロックやスパムしてる方がいたらスパム返しいたしますので一報下さい。
ヾ(???)ノ

と~ま君さんがリツイート | RT

■「自らを愛し、こころの赴くまま行動せよ。問題解決に尽力し、平和であれ。」【ラコタ族】

と~ま君さんがリツイート | RT

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アナと雪の女王を昨日見てきた

2014年05月30日 21時38分45秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

映画で泣けてしまったのだ

 

 

昨日の午後、「アナと雪の女王」を映画館で見てきた。

泣いたね、実にいい映画だった。なるほど、これでは「風立ちぬ」もかなわなかったわけだと正直思って帰ってきた。

女性の二面性ということであろうと思った。かわいい女性の面と、おどろおどろした女性の面と二つあるような気がした。呪術的な、女王である姉。彼女のような側面はどんな女性でも持っているだろうし、これは男でも持っている側面であるのかもしれないとも思った。そういう自分の内面にあるところの葛藤というものが、この映画のある意味主題なのではあるまいかとも。

氷運びのクリストフというのだっけかな?

アレがこの映画では陰の主人公のような気がするのだけれども。善良で、まっすぐで、自分を省みず、他者のために一生懸命生きる。まさに日本の庶民の生き方である。こういうのがオレは一番好きだ。しかし、生き方としては格好が悪い生き方であろうなぁとも思った。愚直。まさに愚直である。オロカでなければ、こんな、他者のために一生懸命生きることなんてできない。

しかも、未練もない。

今の生き方になんの未練もないのである。実にいい。爽やかな生き方である。未練がまったくないのは中国の人と韓国の人だとつい最近聞いたのだが、なるほどそれなら彼らのドライな生き方というのがよく理解できたからである。かえって爽やかである。留学生の生き方を見ていると。それでいいのである。好悪の感情で生きているのではないからである。

これは在籍大学で一番勉強になったことである。いつまでも人間関係でぐだぐだとやっていないからである。駄目なら駄目。きっぱりとしているからである。こいつは実にいい。爽やかである。

通行人と一緒で、ちょっとだけ会ったら、それっきりである。左右に別れるだけである。なんの引っかかりもない。これでいいのだと思った。

それで寂しいと思うならば、自己責任で寂しいと思っていればいいだけの話である。誰にも頼らず、自分一人で生きていくというのは、孤高である。孤高もオノレの責任で引き受けるのならば、こんなに爽やかなことはない。

ある意味、うらやましいことである。

孤高に生きるというのは、バイクを愛する人種に共通している。バイクはどこまで行っても、自分一人の乗りものである。全責任をオノレが負っている。怖いくらいに、自分一人で乗って居るマシーンである。

 

。。。。。。。。。。。。

 

この映画を見て、思った。

女性というのは、どこまでいっても孤独なのだろうなと。

だから子どもを産むのだろう。辟易するほど、恋愛に拘るのだろう。家族というものを構築したがるのだろうと思ったのである。

 

云い足りない部分はたくさんあるが、そういうことを感じたのである。

それだけである。

 

(^_-)-☆

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

去年の記事 かわゆい生徒たちだ

2014年05月30日 21時03分01秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
 
とーませんせは、他に仕事してるんっすかぁ?

サイキョーじいさん?   ヨルバイトをやってきた。塾である。チューボーと国数英であった。楽しいですなぁ。ホントにかわいい。高...
 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

去年の記事 愕然・・・・・

2014年05月30日 21時02分31秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
 
理論書というのは、相手を選んでいるのだったなぁ

おお、、、モーレツ   研究者というのは、自明のことを自明として、会話をしていかなくてはならない。つまり、知らないことがあっ...
 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月29日(木)のつぶやき

2014年05月30日 05時42分33秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

朝から実に快調

今朝からハイスピードである。順調に起きた。無駄に明るいということもあるが、快調に起きられるというのは楽しい。なにより心配しないことである。いつ病気になる... goo.gl/4e5IWx


水涸(か)れて落つる百合花 あゝ こころうつろなるかな - 臨終

と~ま君さんがリツイート | RT

毎回、講義終わった直後に復習しないと辛いかも。 @AKIMI2021: ☆第5章 復習
 (ナガ~~イよ^^;)まだ終わらない。。 『コンピュータのしくみ (放送大学教材)』 45分 stdy.pl/1kf2kJG #studyplus #放送大学

と~ま君さんがリツイート | RT

95歳で卒業された方もいます。 @CCB_0079: 放送大学にも興味あるけど、俺の知力じゃ手が届かなそうだ。あと歳的にも。 #放送大学

と~ま君さんがリツイート | RT

英単語暗記法!~効率的な英単語の覚え方~英語勉強法のコア goo.gl/Z5yGaE


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英単語暗記法!~効率的な英単語の覚え方~英語勉強法のコア

2014年05月29日 22時57分13秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

英単語暗記法!~効率的な英単語の覚え方~英語勉強法のコア

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

順調、快調、ハイスピードである

2014年05月29日 06時26分59秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

朝から実に快調

 

 

今朝からハイスピードである。順調に起きた。無駄に明るいということもあるが、快調に起きられるというのは楽しい。なにより心配しないことである。いつ病気になるのだろうかということを心配していたって、病気になるときはなる。くよくよ心配していたって駄目な時は、駄目である。考えてもみたまえ。今、90歳で生きておられる方々の時代には「人間ドック」なんてなかったからである。人間ドックを受けていなくても、90歳まで生きられるのである。笑い話のようだが、事実そうである。もっともそういう頑健な身体をお持ちであったから、高齢になるまで生きてくることができたわけである。

さらに、オレには気取りがない。もっと云えば、他者にどう見られているかという意識がない。気にしないからであろう。だから悩むわけがない。どう思われるかなんて気にしていたら、禿について苦悩してしまうだろう。そう、オレはまったく禿が気にならないのだ。見事に禿なのである。ま、一緒に歩く人が決まり悪いらしいが。特に、女房殿がそうである。みっともない禿と歩きたくないっていうわけだ。

わはははっははである。だから、オレは順調に生きてこられたのだなぁ。病気にかからなかったから。特段にこれには感謝しているのだよん。香水とアルコールの匂いの充満している店なんか、金輪際行かないから。(ウソだけど)あ、カラオケは行く。中国語の学習のためである。ああいう使い方があるとはねぇ~。知らなかったよ。テレサテンという美女が昔から好きであったし。彼女が亡くなったときには、世も末であると嘆き悲しんだものだったよ。

それに、他者があれこれ悪口を・・・と思っていたら、60過ぎて大学なんかいかねぇよん。(^0^)

若い男女に混じって一緒の教室で勉強していたら若返るけど、体調が悪くなるっていうことがない。あるわけもない。

仙人みたいに思われたら、かえってありがたいものである。他者の意識の中にないからである。こっちはだから自由自在に他者を観察し、考えることができる。漫才のネタ探しを無意識にやっているようなものである。

昨日、目蓮救母経のコピーをとったので、論文書きをやる。6:16だけれど、これから非常勤講師をさせていただいている大学に出かける。あちらの大学図書館でちょっと書いてくる。あちらの大学も若い方がたくさんいる。元気をもらってくる。理科系の大学だから、ちょっとオレとは感覚が違っているのだけれども。

つまり、オレのように主観で生きていないと思うのだ。タブン。理系の学問は厳しいものである。理詰めで、客観性がなければ、辛いものだろうなぁ。本人に。オレの高校は、数学がよくできた高校で、理学部とか工学部にかなり行く。山形大学だけでも70人くらいである。そのうち50人は工学部に行ったっけ。同級生の柔道部キャプテンもそうだったよん。同じ米沢市にあるから、通学に便利だったからである。どうでもいいような話ではある。

じゃ、これくらいにします。

 

気が向いたら、またこのブログに書き込みます。

さらば。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月28日(水)のつぶやき

2014年05月29日 06時01分13秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

気がついたら国家が崩壊していたという歴史は亜細亜にいくらでも

誰でも、今現在生きているこの社会のシステムというものを崩壊すると思って生きている人はいないだろう。気がつい... goo.gl/a8WBZz


■「白人が民主主義を発明したのではない。神が民主主義を発明したんだ。」【ラコタ族長老ノーブル・レッド・マン】

と~ま君さんがリツイート | RT

こんなことがあった模様。↓
法政大学文連が沖縄大学へ無断で勝手に押しかけ演説
教員や警察も集まってカオス状態
沖縄大学学生に帰れコールを浴びせられた
デモ隊「学生達の声を聞けーー!!」
沖大生「うるさいから帰れ!!!!」」
matome.naver.jp/odai/214004805…

と~ま君さんがリツイート | RT

アントニ・ガウディの作品群【スペイン】【文化遺産】 pic.twitter.com/KI3eOAbpgm

と~ま君さんがリツイート | RT

私も学会報告では読み原稿を作ったことはない。詳し目のレジュメを作れば読み原稿は要らないだろう。>RT

と~ま君さんがリツイート | RT

ただ、最近の学会のレジュメ詳し過ぎ。読み上げていてはとても時間内に終わらないぐらい。

と~ま君さんがリツイート | RT

でも、レジュメを元に論文を書くのは不思議と難しい。レジュメを元に口頭発表し、それを録音したものを聞いて論文を書き出すことが多い。

と~ま君さんがリツイート | RT

■「幸福がそこに、ありますように。成功がそこに、ありますように。健康がそこに、ありますように。満足がそこに、ありますように。」【ナバホの祝福の歌より】

と~ま君さんがリツイート | RT

午前中に集中講義を拝聴してから、論文のことである先生にご指導をいただいていた。
午後からは、論文を書いていた。院生室である。三年目となると知らない院生ばかりである。

ピッチを上げなくては... goo.gl/h7pE6M


未練がましいけどねぇ~

ウチの会社がね~

ウチの学校は・・・

ウチはお金がなくてねぇ

これまで何度も聞... blog.goo.ne.jp/tym943/e/ca629…


世の中、いろいろあふぉ~がいっぺぇおられるようで。
わははっははっははは。 fb.me/3cS3m7wPx


これまたいかがなものかと・・・・ fb.me/1jTlMWftH


これは、オレ、実践していたっすねぇ~ fb.me/1mkyxpirw


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウチと未練ということ(留学生に学んだ日本人像)

2014年05月28日 21時07分34秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

未練がましいけどねぇ~

 

 

ウチの会社がね~

ウチの学校は・・・

ウチはお金がなくてねぇ

これまで何度も聞いてきた語が「ウチ」である。

なんでこういう語を使うのであろうか。そんなことを思ったことは限りなくある。一丁前の紳士でも使う。私的関係で使う場合が多いと思う。そして、感情表現の多い場合でも使う。そういう機会が多いと思う。

ウチという語は、ソトの反対概念である。ソトというのは、社会性を伴う場合である。あるいは客観的に表現を必要とする場合に内在する観念であって、用いられる語が異なってくる。日本人はそういう使い分けの言語の名人である。

世間体というのが日本人の行動を左右するからである。日本人には世間体というのが「神」に等しい価値観の根源であるからである。他者に笑われないようにせよということが、本当に基盤にあると思わざるを得ないからだ。

あるいは人に迷惑をかけないようにせよとも教わってきた。親に。

それはそれで結構なことであった。

しかしである。ウチの概念というのに縛られていると、いろいろと問題が起きる。

それは、子ども時代の「ウチ概念」のもたらす欠点があるからである。

甘えということで、日本人の幼児達は、母親にそれこそウチ概念のオンパレードで育ってきているからである。家族の中で、子どもが親に接する態度というのは、ウチの概念の中で発揮されている行動である。まるっきりそうである。甘えに甘えて、育っていくのが日本人である。小さい子どもが、小学校に入って学校の先生に甘えているのも、家庭でそうやって育ってきているからである。

アメリカの子ども達は、日本の子ども達と比べて甘えの期間が短い。学校は家庭的な空間とは考えられないそうである。大学生ともなれば、親元から離れて独立を志向する。大学もよくしたもので学生寮が完備している。ウチから通学するのは少ないそうである。さらにアルバイトで学費を稼ぐ学生も多いから、経済的にも自立しようとする。

非常に興味深いことである。

 

事例を一つあげよう。

それは日本の母親の育児である。

日本の母親は会話よりも、なだめ、抱いて、感情豊かに育てる。なにもそれが悪いと云っているのではない。それはそれで結構である。問題にしたいのは、日本の母親は言語的手段にあまり出ないということなのである。育児の基本にそういうのがあるような気がする。

言語的手段にいくのがアメリカ型である。会話が成り立っている。母親と幼児の間に。

日本の幼児は、大体が受け身で、言語的な手段で母親に訴えずに、噛みついたり、非言語的な手段で親に訴える。これはオレの孫もそうだった。オレも噛みつかれた。(^0^)

日本の母親は常時自分の子に接している。抱っこが明らかに多い。用もないのに抱っこしている。ま、それはそれでいいだろう。しかし、できるだけ関係性を希薄にしているように見えるアメリカ型の子育てもまた興味がある。母乳の使用率も日本の方が高い。母乳で育てると健康になるという説もあるくらいである。

非常に東西で違った文化があるものである。

甘えということは、非言語的な関係性からきているのであろうが、日本人の特性を考える上で面白いものであると思う。

「未練」という語がある。

恋人が別れる。あるいは諦めきれないということで使われるのだろうか。時には、犯罪まで起きることがあって、これもまた日本人特有の現象なのではあるまいか。

なぜそんなことが起きるのであろうか。それは日本人というのは、ウチの論理に支配されていて、ソトにある存在、あるいはソトの人間というものに耐えきれないと思うのである。だから、日本人はどうしても、気配りをし、配慮をし、他者への思いやりを行う。これは日本人以外には見られない態度である。昨日親切にしてやったから、感謝の言葉がほしいと思うのが日本人で、だからこそ簡単なあいさつをおこなう。人間関係を破損したくないからである。

ところが、外国人はこういうのが無い。かなりドライである。東洋人でも例外なくドライである。

「未練」という語をもってしてもそうである。中国語に「未練」というのは無い。存在しない。あっても意味が違う。中国語では「まだ下手だ」というのが「未練」の意味であって、未練という感覚はレベルの差こそあれ、日本人の方が囚われ過ぎているような気がしてならない。アメリカ人も中国人も、韓国人も割合ドライである。「グッバイ」という語は本当にグッドな別れ方であるのだ。つまり「未練」ということは、別れに際して、日本人は儀式を必要としていて、けっこうぐたぐたと思い悩むのである。

昨日まで親しかった、あるいは友人と思ってきた人が、今日は冷酷だったと感じて思い悩むのが日本人である。これが、アメリカ人とか、中国人とか、韓国人だとあっけらかんである。昨日は昨日。今日は今日である。

なにもそれだけがいいと礼賛しているのではない。基層にあるのが、「自分は自分」「君の期待に添うために生きているのではない」というのが、日本人以外の文化にはあると感じるからである。

バイブルもそうである。旧約のロトの妻のことである。悪徳の町であるソドムとゴモラの町を振り返ってはならないと神に命じられていたのに、つい振り返ってしまって塩の柱となってしまったという話は、「自分の過去に未練を持つな」という端的な表現である。キリスト者は、神あるいはイエスとの関係性が基本にあるから、少なくとも人間との関係性においては「未練」というものが無いとオレは思っている。たしかに、キリスト者は、基盤がちがっているような気がする。だからある日突然信者がいなくなっても、教会に来なくなっても未練がましく追っかけては来ない。来なくてもいつでも迎える用意があるからであろう。バイブルにもそういうことが書いてある。

文化が違うのである。

日本人の好きな語に「ご縁」というのがある。これもまたアメリカ人とか、中国人とか、韓国人には無い語である。オレの一番好きな語であるが、留学生に聞いても知らないと云う。

ご縁は、人間の作意で変更することはできない。縁を人間関係とするのならば、宿命性、偶然性というご縁の持つ性質からは離反していく。人間の知を超えた関係性であって、コントロールできない関係性である。これはウチの理論である。生まれた時から、ウチの関係性で育っているから、成長したら、今更ソトの世界には行けなくなるからである。

日本人の信仰というか宗教というのが、このウチの論理でできている。祖先崇拝という思想である。ウチの祖先には、たとえ死んでもウチの中にいてほしいのである。それが霊的信仰と結びついて日本人特有の土着の信仰になっているでのはあるまいか。たいへんに面白い傾向があるものである。

留学生の多い大学で、3年間学んで気がついてしまったことの一つである。幸か不幸かわからんのだけれども。

オレも、案外ドライになってきたのかも~~~~~♬


わははっはははっはは。

 

(^_^)ノ""""


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

去年の記事 意識してきたこと

2014年05月28日 20時01分14秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
 
学会での活動をこの頃から
 終バスでしたちょっと夕方になって暗くてピントが・・・ 「未来から贈られたチャンスを受け止めて生きる」・・・いいなぁ。レヴィー・ストロースですよ。...
 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大事なのは、毎日確実に書くことである。workなのである。

2014年05月28日 16時27分28秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

午前中に集中講義を拝聴してから、論文のことである先生にご指導をいただいていた。
午後からは、論文を書いていた。院生室である。三年目となると知らない院生ばかりである。

ピッチを上げなくてはならない。今日でA4サイズで232枚になった。さ、これで今日は帰る。大事なのは、毎日確実に書くことである。workなのである。仕事。仕事だと思えば楽しい。ふふふふふふふふ。

16:24である。

これから家に帰ってgymに行く。昨日行けなかったので。

夜もまたご多忙である。

論文書きをするのである。

余生は、郷土史で生きていくつもりですと、今日の先生にも申し上げたからである。何かになろうなんておこがましいからだ。

マジである。真剣に生きていると楽しいもんですなぁ~。(ホントか?)

道楽で大学院に行っているんでしょ!と、女房ドノに叱られているけどね~。

 

 

わはははははっははは。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月27日(火)のつぶやき

2014年05月28日 05時35分05秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

能「百万」のチケットを送っていただいた

昨日、興福寺から手紙をいただいた。能の「百万」(国立能楽堂、7月19日11時30分開場)のチケットを送っていただいた。むろん有料... goo.gl/91r0qS


本物?「カッパの手足」公開 都城島津家に伝わるミイラ化した2本 6月22日まで公開しています(SankeiBiz編集部)sankeibiz.jp/compliance/new… #news #宮崎 #都城 #カッパ

と~ま君さんがリツイート | RT

魅惑のコスチューム:バレエ・リュス展の会場は六本木の国立新美術館です。先ほどのツイートで抜けてました。失礼しました。

と~ま君さんがリツイート | RT

子どもと目線を同じにして対等に話をして下さい。大人は皆、上から物を言い過ぎます。そして、世の中は生きる価値があると感じてもらえるように、大人が努力しましょう。

と~ま君さんがリツイート | RT

平和は、ことばを語ることが出来る能力として生起する。-全体性と無限-

と~ま君さんがリツイート | RT

親ロ派はロシア軍の介入を当てにしていたのだろうけど、ロシアはクリミアの割譲とNATOへの非加入が取り付けられればいいので、所詮は捨石だろう。 --- ウクライナ東部ドネツク、交戦で40人死亡=市長

と~ま君さんがリツイート | RT

若者が感じる「人生の自由」の国際比較。日本は窮屈だ…。 pic.twitter.com/WgW8m9mWg6

と~ま君さんがリツイート | RT

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

システムということ

2014年05月28日 05時34分06秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

気がついたら国家が崩壊していたという歴史は亜細亜にいくらでも

 

 

誰でも、今現在生きているこの社会のシステムというものを崩壊すると思って生きている人はいないだろう。気がついたら国家が崩壊していたという歴史は亜細亜にいくらでも見られる。国土は何千年もあったけれども、政体はその都度くるくる変わってきたという国家はたくさんあるからである。

しかし、どの国家にあっても、当該国民はしぶとく生きている。日本という国家は、世界でも希有な崩壊したことのない国である。シンガポールという国家と違って、水も食料も全面的にカネで買っている国家ではない。さらに、日本という国は世界ナンバーワンの債権国家であって、目に見えない資金が大衆の側に眠っている国家でもある。自然環境も豊かであって、これを金銭Baseに変換したら、2000兆円はくだらないだろうとされている。綺麗な空気もそうである。これだけ青空が綺麗な国はないだろう。

このシステムという言葉は不思議なもので、例えば、通学している大学が倒産するとは誰も思っていないのと同じで、日本国で流通している「円」が明日崩壊するとは誰も考えていないだろうと推測する。しかし、システムというのは実は危うい。人が作ったものだからだ。

大学の歴史だって、明治維新からである。たかだか100年ちょっとである。これが永久に続くとは誰も思っていないだろう。だから、ナニナニ大学出身と云っても、その大学の卒業証書が100年たったらただの紙くずになる可能性は非常に大きいと思うのである。永久に存在する組織はないからである。システムも同様である。永久にあるシステムはないからである。

大学倒産というのはあり得ない話ではない。倒産ではないが、法科大学院だって、募集停止の大学がだんだんとじわじわと出てきた。今日のインターネットでは看護師の資格を母国で取得して、日本で資格試験を受けて合格して、日本で働いている外国の看護師の方々が出てきたという記事があった。これもまた看護師が不足しているからといって、急遽それに対応したシステムを作った日本のある意味「スキマ」をねらった知恵者の対応である。見事なものであると思う。薬剤師もそうである。不足しているからと、システムを構築する。医師もそうだ。医師不足が唱えられると、即新しいシステムを作る。

だから、弁護士もそうだったのだろう。法科大学院を作った経過をじっと見ていると、ニーズという名目のもと、一気にシステムを作らざるを得なかったというものが見え隠れする。

簡単な算数の問題レベルである。

つまり、ニーズを満たしたら、あとは不要になってしまうという問題を見過ごしているのではあるまいかと思うからである。

ニーズというものに振り回されなかったのが福沢諭吉である。たいしたものである。世間は戦争をしているのに、平気で慶應義塾で授業をしていたのだから、ある意味「覚者」である。学校というものの本質を理解していたと思う。戦争であっても学問をやるという精神は、国家という変わり得るシステムとは異次元の世界で機能している精神である。流れてきた砲弾に当たって死ぬかも知れないという恐怖がない。そういう精神性は、恐ろしく強固である。こんな学校があろうか。

だから福沢は、明治維新の英雄の中では傑出していた人物であると思うのだ。他大学でも創立者として個人名が挙げられている大学は多いが、福沢ほどの大器はいない。残念ながら、他の方々は小粒である。ちょっと勉強ができたという程度でしかない。ま、そこまで云ったら叱られるが。(ごめんよ~)

 

昨日は、あちこち出かけてしまった。

駄文は書いていない。今日在籍大学で目一杯書いてくるつもりである。それがオレのシステムであるからである。「趣味」と言い換えてもいいくらいだ。

わははっははっはは。

 

じゃぁね~!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

興福寺から手紙をいただいた

2014年05月27日 08時03分25秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

能「百万」のチケットを送っていただいた

 

 

昨日、興福寺から手紙をいただいた。能の「百万」(国立能楽堂、7月19日11時30分開場)のチケットを送っていただいた。むろん有料である。「百万」はまだホンモノを見たことがなかったから、感激している。CDで音声だけは聞いたことがあった。我が子と生き別れてしまった母親の苦悩を物語った能である。ある意味、こういう話に弱いのであるが、それに目蓮救母伝説もまた似たような母子物語である。こういうのは、人類共通の好みなのではないのだろうか。「瞼の母」もそうである。母親には、弱いのである。特にGuyは。だから優しくされると、ころりと参ってしまうのだ。男なんて単純明快。馬鹿みたいなもんである。あ、馬鹿は余計か。そりゃぁ、おめぇだけだろうと云われるなぁ~。

昨日の講義で、先生が第一人称の「僕」を、第二人称でも使う例を云われていた。赤ちゃんのときに、母親が我が子に「僕ちゃん~~~~」とか使うのがその例である。しかし、女の子には使わない。何でだろうかということになった。おもしろいものである。そういえば、オレも息子には云ったことがあった。しかし、長女には第一人称で使ったことはなかった。「ぼくのおじょ~ちゃん」「わたしちゃ~ん」とか使うオヤジアはいないだろうから。

これもまた「百万」と一緒で、母と息子だから成り立つものなのであろうか。

「百万」の舞台になっている興福寺はオレの探究対象である。興福寺で教えている唯識学をやりたくて、迷路のようなこんな世界に迷いこんだのだ。そして、とうとう興福寺まで行って寺院の関係者に聞いてしまったのだ。結論は、基礎のところを学ぶのだって、出家して8年かかるとのことだった。やめとけということだろう。苦行である。一介の高校教師ふぜいではできそうもない相談だったよん。わははっははは。

だから謙虚にやっていくしかないのである。

退職してから肩書きがまったく無くなったので、気楽である。さらに、アルバイトでちょこちょこやっているが、ソンな肩書きは恥ずかしくて人に言えたものではない。だから、オレの名刺は、郷土史の会員という肩書きをトップに持ってきている。もう関係ないのである。以前何をしていたかなんて。つまり、現在なにをしているのかということが大事であって、孫の子守でもなんでもいいのである。むしろ孫の子守の方がオレは大事だと思っているのだ。誇りうることだと思っている。名刺に、「職業はおじ~いちゃん」と書いて配ったこともある。さすがに、これは友人に注意されたからやめた。

そんな程度である。

さ、今日も大学に行って、講義を受ける。全部で3時間である。ちょいとくたびれますなぁ。

夜は、塾である。

またねぇ~。

 

 

(^_-)-☆

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/