と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

日々これ好日なり。楽しもうではないか。誰しも死んじゃうのであるから。

2018年03月31日 08時24分58秒 | とーま君の流儀2018

日々を楽しもうではないか。やり残すことのないように。死ぬときに、ああああああと思い出していたら悲劇であるから。執着くらいミットモないものはない。




昨日は、孫(五ヶ月)と一緒に過ごしていた。抱っこして、日向ぼっこをしながらである。かわゆいものである。こんな余生が待っているとはねぇ・・・ありがたいことである。

ジジイにはジジイなりのタノシミがある。孫との遊びもそうだ。

これをである。アンチエイジングとか自称して、オノレのことをジジイと言わせないとかバーチャンと言わせないのがいる。いつまでも若いままでいたいという執着のなせる業だ。まさしく悪業である。みっともない。いつまでも若いままでいられるわけがないではないか。アホカイナと思っている。死ぬのを忘れているからである。誰でも死んじまうのである。それを拒否している。拒否したって、死ぬときは死ぬのである。永遠の若さはないのである。

そういうヤカラに限って、他人との年齢の差を気にして、先輩風を吹かせる。まだ若いではないかとボキなんかに言うのである。バカバカしくてつきあっていられない。

アホとはつきあわないのがボキの主義である。時間コストがもったいない。

つきあわないのであるから、ハラも立たない。そんなヤカラからは学ぶものはなんにもない。ただ年をとってきたということだけが唯一の自慢噺でしかない。あるいは退職したのに、仕事自慢しているアホ。

いかにオレは、アタシは有能だったかという観点しか人間を見る事ができないのである。かわいそうだと思ってしまう。

再就職も良いが、定年前と違う仕事にチャレンジするのもこれまた面白い体験がたくさんできるのである。これは今のボキがそうだからである。

若い人がたくさんいるし、そういう方々に学ぶことができる。英語の達者な人もいるし、独居老人で海外旅行にばかり行っているのもいる。そういう方々と話をするのもホントウに勉強になる。

周囲の方々すべてが師匠なのである。

オノレ一人がエラそうにふんぞり返っていたら、人間のクズである。

そういう徹底した人間観を持った方がよろしい。

ま、ボキだけがそう思っているというだけなのかもしれないがねぇ(^0^)。

 

今日も天気が良い。朝から晴れている。

桜も見事に咲いている。

歩いて桜を見て一日を過ごすつもりである。

図書館にも行くけど。

パソコン抱えて。

 

やることがあるだけシアワセである。

死んだら、やりたいこともなくなっちまうではないか。あ!・・・あのことも、このこともやり残したというのでは、ますます慚愧の思いにとらわれる。

日々を楽しもうではないか。

 

わはっははははっはははっははははっははは。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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3月30日(金)のつぶやき

2018年03月31日 06時44分33秒 | とーま君の流儀2018
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年度末である。また新しい老後が始まる。タノシミである。

2018年03月30日 08時06分35秒 | とーま君の流儀2018

自由な老人とーま君は、心機一転またまた新年度からなにかをやりはじめますよん。まだナイショだけど(^0^)

 

 

年度末である。

NHKラジオ講座が今日で予定を終えた。英会話の遠山顕先生も去った。基礎英語3のダニエル・ツミタさんも去った。

今日は金曜日だから、来週の月曜日から新しい講座が始まる。講師の先生も含めて。

お世話になった。退職してから毎日聞いていたからである。おかげで英語に興味が持てた。海外旅行でも困る場面は減った。なんとかトラベル英語ならできそうな気がしてきた。しかし、奥が深い。語学「も」。

年度末である。

教職員人事異動も新聞に載っていた。もうほとんど知らない方々ばかりである。さっと目を通しただけであった。掲載されている方々にも人生の諸相があるのだろう。

退職した方々には、これから第二の人生が待っている。どう過ごされるのであろうか。

ボキは、再就職をしなかった。出来なかったというのが正解であった。ま、希望しても採用されなかっただろうけど(^0^)。

退職してすぐ某大学大学院に入学してしまったからである。まさに、生涯学習ごっこである。もっとも仕事をしながら、いろいろな生涯学習ごっこにチャレンジしていた。放送大学大学院もそうだったし、中央仏教学院もそうだった。

今となっては、感謝である。

しかし、完全リタイアは無い。そうしていきたい。閉じこもって、日がな一日家にいるってぇのはボキには無理である。昨日もオファーがあった。テレビで有名な家庭教師の***というところであった。これから考えるが、たぶんやらないだろう。

今やらせていただいているバイト二種類を現状維持でやっていくつもりである。

クモ*もやってみたかった。だって、かわいいではないか。小学生相手にやるというのは、憧れであった。孫を教えているようでまるで良寛和尚みたいであるから。こっちもオファーがあったのだが、今やらせていただいているバイト先とバッティングしてしまう。兼業は禁止である。

それだけなのである。

無一物から始まった仕事人であった。これからも無一物でジジイ生活を送っていくしかない。

無欲でやっていく。

自由に、きままに、やっていく。

カミの毛もないし、ゼニもない。学歴もない。あるのは「自由」のみ。

こういうのに憧れていたんだから、なんの後悔もない。

 

一昨日、中国語講座で年度末のさよなら会をした。中国人の先生を囲んで。これもまた退職後に始めた。まったくモノになっていない。こっちはトラベル中国語ですら使えない。チャレンジだけはしてきた。外国に行って中国人と感じたら、話しかけてきたからである。しかし。単語もすぐ忘れてしまう。アカン。

 

また新しい老後が始まる。

心機一転。

楽しいことかぎりなし。

なにしろ「自由」だけはあるからである。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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3月29日(木)のつぶやき

2018年03月30日 06時41分32秒 | とーま君の流儀2018
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戦ってばかりきたが、タイムコストを考えると、幽体離脱になっちまった方がかえって良いもんですなぁ。

2018年03月29日 07時57分20秒 | とーま君の流儀2018

不戦の誓いは、無駄をやらないことにつながる。アホには幽体離脱(自分を上から見てみる)で対処していれば良いのである。マジに。

 

 

不戦の極意とは、孫子に極まれり。

最近は、まさにこれである。「頭にきてもアホとは戦うな!」という本を読んでから(風呂の中で)、考え方を変えた。

これまで無駄な戦いをしてきたからである。攻められたら、イチイチ反応してきた。反応ばかりではない。屁理屈で完膚なきまでに叩いてきた。

当然恨んでいる人もいるだろう。こんなジジイであるから、悪業三昧だと言うのである。

瞬時に反応するから、戦いモードになっちまう。幽体離脱でいい。相手のパンチをかわして、後は観察していればいいのである。それを攻めてきたから即反応では、こっちがクタビレテしまう。たいした能力もねぇのに、喧嘩していたらアホである。どっちもである。

タイムコストを考えよということである。どれだけ時間の無駄をやってきたかと思うと慚愧の思いである。

そもそもがである。他者の時間は、自分の時間ではない。そんなくだらない他者のために、いろいろと悩み、対応策を考えたりしていたら、ホントウに時間の無駄である。そんな時間があったら、拙ブログの記事を書いたり、NHKの英会話・中国語の録音を聞いたりした方がずっと良い。また、最近再開したゴミ論文書きをするために資料を読み込むというのも良い。家人と楽しく過ごした方が良い。マンカイの桜を見て、西行を思うのも良い。実際、昨日居住地の桜を見に行ったけどねぇ。

時間こそが価値を生み出すのである。時間の価値を考え違いしてはならない。それこそもったいない。

時間だけは、平等に配分されているではないか。時間を盗まれないことである。エンデではないが、時間泥棒というのが確かに存在するからである。

だから関わらないことである。

幸い、ボキに関わってくる方は皆無である。迷惑メールも来ない。シャットアウトしているから(^0^)。

そうなのだ。メールと一緒で迷惑メールとしてシャットアウトしておけば良いのである。人間関係なんて。ウイルスなんだから。

わはははははははははははははははは。

 

孫子もぶ厚い書籍なら持っていた。しかし、持ち歩いてでも読むべしと思った。思ったから買った。Amazonである。まだ来ないけど。岩波文庫の大型版である。これならジジイになった目でも読める。

不戦と言えば、家康である。あるいは、小田原攻めのときの秀吉である。この二人は、知略で攻めた。たいしたものである。戦略がある。兵士の後補給という視点を持っていたし。なにしろ喰わなければ、兵士だって戦えないからである。武器もである。弾丸がなくなってしまったら、それでおしまいである。だから太平洋戦争は負けたのだ。

ま、それは今回関係ないのだが、重要なことは余計な戦いはしないということである。やらなくても良いことはやらないことである。

無駄なことはやらないことである。

 

以上を打鍵して、あっと思った。

ボキは無駄そのものではないか。生き方が。

ご迷惑をおかけしております。

 

ゴメンネ・・・・トホホ。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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3月28日(水)のつぶやき

2018年03月29日 06時53分28秒 | とーま君の流儀2018
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自由に生きたいですなぁ。しかも感情を動かされることなく。

2018年03月28日 07時58分21秒 | とーま君の流儀2018

これからのボキのモットーは、アタマに来てもアホとは戦うなである(^0^) 昨日の佐川氏がこれに当てはまるのではないのかと思ってしまったよん。

 

 

自由が欲しい。ジジイになってもそう思うのだから、今まで不自由な生活をしていたんだろう。しがらみにとらわれているからである。つまらないことである。

とりわけ、ワケのわからん人間に出くわすとハラが立つ。その程度の人間にハラを立てているオノレも嫌になっちまうから不思議なものである。

昨日は孫が保育園を卒園したので、お祝いに行っていた。日帰りで。

行き帰りのクルマの中で考えていたのが、「頭にきてもアホとは戦うな」という本のことである。田村耕太郎氏の著書である。この本は良い。

なぜか。

ボキが該当するからである。アホの方にも該当するし、アタマに来てしまうのもそうである。なにしろ全部該当する。

くだらないことでアタマに来ていたら、命を縮める。そう思っているのだが、なかなか出来ない。

世間のつまらんことで色々ハラを立てているから、ボキもどうしようもないジジイである。

マスコミにもハラを立てているし。

人間ばかりではないのである。

政治にもである。

ということは、ボキもまた世間に受け入れられていないからハラを立てているのだ。

情けないですなぁ

こんなもんで、感情を動かしているようではまだまだである。

証人喚問された佐川氏の答弁ぶりをクルマの中で聞いていて、感心したからである。

堂々たるもんである。完璧ではないか。野党のだらしなさも目立ったが、さすがに超エリートである。おっと、野党の方にもエリートはおられるけど。

佐川氏は、答えながら冷静に相手を分析していたのだろう。事の是非はともかく、ボキは感心した。見事な答弁であった。崩せない野党が大いに騒いだ割には、かえって佐川氏の優秀な頭脳が目立ってしまった。

デカイ声を出して、怒鳴っていた野党諸君は(_ _ )/ハンセイしたほうがいい。証人喚問をした野党の根拠と証拠はどこにあるのかと大いに疑問に思ってしまった。

ともかく、世の中感情的になってしまった方が負けるという実に模範的な事例であった。

だから、言葉は丁寧をモットーとすべきである。オノレを隠すことができるからである。デタラメな言葉を使って、デタラメなことばかり言っていたらアカン。要するにお里が知れる。

だからアホだと言われてしまう。

もっとも、ボキは自分自身にそう言っているんだけどねぇ。

 

正義の味方でもあるかのように行動しているとこうなる。オノレだけが正しくて、他人が全部悪いという視点からはなにも生み出さない。

生産性が低い。

上から目線だからである。オノレ以外は、全部アホだと思っているとこうなる。まるで野党諸君のようなものである。

 

この本に「倍返しはかえってアホ」というのがあるけど復讐をしてはならない。アホは、復讐したって理解できないからである。

 

そんなことを昨日は思った。クルマの中で。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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3月26日(月)のつぶやき

2018年03月27日 06時43分01秒 | とーま君の流儀2018
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したたかに生きている女性のことを、伊集院静の「あずま橋」で知ったのだけど

2018年03月26日 08時07分38秒 | とーま君の流儀2018

こっちも街の底辺で生きているしかない、しがないジジイですが・・・思うことはこれでもあるんで。

 

 

伊集院静の「あづま橋」という文庫本を昨日読了した。

相変わらず素敵な小説である。思い出に生きる女の転機を描いた表題作をはじめとして、男と女の邂逅を描く作品集である。

どの女も不幸な生き方をしている。明るく、軽薄でただただ日常を生きているというのはいない。陰影のある生き方をしている女ばかりである。

上手いなぁと思った。絵コンテのようなものが基盤にあって、それで書いているのかも知れないとも思った。まるで映画のようである。短編ばかりだから、余計にその上手さが伝わってくる。まさにプロである。

短文で、「・・・た」という簡潔な文体でもある。そこからイメージが浮かび上がってくるから不思議なものである。

結局、人間は一人で生きて、一人で死んでいくのだということをボキは感じた。途中で恋だの愛だのとやって、生きているのが我々庶民である。だから生きているってぇ感じで存在しているのではないのか。

それをやりきれないというなら、そうなんだろう。ボキのような軽薄ジジイが感じるようなことではないのかもしれない。しかし、人間の本質はそうなのではないのか。

孤独なのである。

しかし、女のしたたかさも描かれている。

はかないというようには描かれていない。生きるのは不器用ではあるが。さらにある。情念を持て余している。結局、街の底辺で生きることを余儀なくされてしまう。それでも、懍としている。懍として生きている。大したものである。

無常だとかそういうものではない。

ともかく強い。生き方がである。

 

この文庫を読了してから、周囲の人間たちにハラを立てたりしているボキ自身がみっともなくて嫌になっちまった。なにを今さらであるからだ。

ボキだって街の底辺で生きているバカジジイである。なんの自慢もできない。自慢材料もない。あるわけない。ただの庶民である。

しかもカミの毛もない。ゼニもない。学歴もない。家柄もよくない。風来坊である。身寄りもない。たった一人でこの地に流れ着いただけである。九十九里浜で生きてきただけである。仕事だけはあったが。それも定年で放り出されてしまった。

今も変わりがない。

行くところがない。やることもない。

仕方がないから、毎日図書館に行って暇つぶしに論文を書いているだけである。ゴミ論文である。こんなもん書いても収入には結びつかない。

生涯学習ごっこはゼニにならないのだ。

だからやっているんだけど。

 

わはっははっはははっはははっははははっはははは。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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3月25日(日)のつぶやき

2018年03月26日 05時52分30秒 | とーま君の流儀2018
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目つきが良く無いなぁ・・・・と思うこと多々あり。トホホ。

2018年03月25日 06時55分13秒 | とーま君の流儀2018

キツネ目の男・・・悪党の代名詞でありますなぁ。ボキがそうだから。

 

 

最近、女児の孫(五ヶ月)と一緒に写真に写ることが多い。孫はかわいい。まさにケガレを知らない。ジジイのボキにとっては、純真無垢である。しかも、ボキの孫である。こんなにかわいいのが、ボキの膝に乗ってくれているのだ。

しかし、ボキの顔ときたらどうだ。実にがっかりしてしまう。

まず、人相が最悪である。こんなんじゃぁナカッタのに。ボキはがっかりしてしまう。それだけ、世間に揉まれたと言えば、言えるのであろう。しかし、他者責任のせいにしていればそれで良しとも限らない。

あくまで比較の上で打鍵しているのだけど、女児の孫から見たらただのキタネェジジイでしかない。

オノレの心のみっともなさを孫に知らされたという思いである。

自己嫌悪に陥っている。こんな顔をしていたのだ、ボキは。しかも、LINEですぐさま送ってくれるからさらに嫌になっちまう。

見なければいいではないかと言われてしまう。でも、孫が主人公である。孫が見たいからそっとスマホから見てみる。

孫はかわいい。しかし、孫を抱っこしているボキの顔も目に入ってしまう。

がっかりしてしまう。ますます、がっかりしてしまう。

目つきが悪いのである。

悪党ズラをしている。

キツネの目をしている。細い。

こりゃぁ、防衛機制が働いているからこうなる。他人を信用していない目である。騙されないぞという目である。騙してやろうという人間ではないから、警戒心が強い目である。

いや~~な目である。

しかし、目はオノレの心を現している。明らかにオノレの潜在意識を現している。

 

最近、世間を騒がしているのが森友事件である。籠池氏やご夫人、さらに首相夫人の目を見ていると、どうしてもボキよりは良い目をしている。マスコミや、野党が騒いでいるほどいけないことをしているとは、思えない。なぜそう思うかというと、ボキとは主義主張が違っているからである。籠池氏の愛読書を知ってそう思ったのだ。ニューソートの信奉者ではないのか。首相夫人もどうもそんな気がしてならないのだが、その辺りは良く知らない。知らないから、これ以上は打鍵しない。

でも、他人に利用されているという面もあるのかも知れない。

警戒心が不足しているということも言えるのではあるまいかと新聞やテレビを見ていると思ってしまう。利用しているのは誰か。エリートである。そう思ってしまう。誰かがシナリオを書いている可能性がある。これもこれ以上は打鍵しない。根拠に乏しいからである。

 

世間で生きて居る以上、トラブルは多い。特に、高額の取引になると信じられないようなトラブルがある。相続もそうだろう。相続で目がくらんで、それまでの関係を断ってしまうことも多々ある。親しい関係であればあるほどそうなってしまう。

だったら、それまでの関係はナンだったのだろうかと思う。

結局、人間は一人で生まれて、一人で死んでいくのである。

そう人生を見切っていると気楽に生きていられる。

夫婦だって、離婚したらまったくの他人になっちまう。

ボキ?

ボキは、棄てられないように、おとなしく生きていきますよん。

 

わははっははははっはははっはははっはははっは。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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3月24日(土)のつぶやき

2018年03月25日 06時53分21秒 | とーま君の流儀2018
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よくまぁ毎日毎日打鍵ているヒマがあるもんですねぇ。ヒマだからやっているだけですが。

2018年03月24日 09時17分26秒 | とーま君の流儀2018

書かされているブログの記事・・・違いますかな?

 

 

よくまぁ毎日毎日打鍵することがあるもんじゃと思う。それも日常的な出来事の綴りにはなっていない。何歩歩いたとか、何キロ歩いたとか、何時に起きたとか、誰かとデートしたとか、どっかの美味い店に行ったとかまるで書いていない。もっともボキとデートしてくれる奇特な方は100%いないけどねぇ(^0^)。

出来事記録にはなっていないからである。

自分勝手なことを、自由気ままに打鍵しているだけである。こんなダメブログをやっていてなにが面白いのだろうと思う。

思うケド止められない。まったく日記である。去年の記事を見ては(_ _ )/ハンセイしているだけである。ボキは、十年日記というのをAmazonで買ってつけている。これが三年目に入っている。だから、出来事記録とか(_ _ )/ハンセイならそっちを見ていればいいのだ。

でも、今朝はふと思った。もしかして、書かされている?って。天から。(_ _ )/ハンセイ材料のために。

傲岸不遜、救いようのない凡夫、極悪非道のジジイである。それを見ている天が、ボキに迫っているのかもしれないと思った。

ダメジジイよ、少しは自分のことを振り返り、自省せよ!って。

天でなければ、神でも仏でもキリスト様でもなんでもいい。ともかくボキ以外の目があるってぇことを意識するだけでも良いことだよん。

評価されて生きることもまったくなくなってしまったから、気楽なもんである。

しかし、そこに大きな落とし穴があったのだ。言いたいことは言い放題、聞きたくないことは聞かない、臨時の難聴者になってしまった。

気楽に生きているからこうなっちまう。トラブルもなくなったかわりに、自分がトラブルの原因を作ってしまっている。

もうどうでもいいではないか。

テレビをつければ、判で押したように同じ事の繰り返し。政府転覆を狙った番組だらけ。結局ナニをしたいのだろうと疑問に思ってしまう。現政権を打倒してみたいというのだけは分かる。しかし、その後の展望もなにもない。これだとまた一年ごとに首相が替わるというみっともない継続性のない国になってしまう。

そもそもがである。反体制、反政府という方々はオノレこそが正しい、オレ以外の奴らはバカであり、アホであるという認識にいる。つまり、この世の中に受け入れられていないという自己認識から反体制専門になる。

亡父も亡母もそうだった。反体制専門の新聞を購読していた。亡父の場合は、シベリア抑留体験でなおさらあちらの国に対して特別な感情を持っていた。今ならよくわかるような気がする。

亡母もそうだった。師範学校出身なのに教育界から受け入れてもらえなかった。

そういう自己認識があると、他人がバカに見えて仕方なかったらしい。今になってそう思うのである。つまり世間に受け入れられなかったのである。

ボキもそうだ。ただのジジイである。世間に受け入れられていない。平々凡々。

でもそれで良いのである。それなりに、生きているではないか。微々たるバイト代と年金で生かされているのである。

ありがたいことである。

 

今日、ローソンにAmazonから本がくる。楽しみにしている。刑務所に入っていて、愛に目覚めたという外国の人の体験談が書かれた本である。ある講演会をスマホで聞いていたら、その講演会で取り上げられていた。名前を、スター・デーリーという。彼は、キリストの愛(神の愛)によって、一瞬にして生まれ変わり、刑務所内でキリストの愛を伝える伝道者となった(刑務所内での伝道の様子については『愛は刑よりも強し』に詳しい)と紹介されていた。

ボキも変わりたいものである。

もう無理か。

わははっははははっはははっははははっははははは。

 

さ、これから図書館に歩いて行ってくる。

変わろう変わろうと唱えながら。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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3月23日(金)のつぶやき

2018年03月24日 06時47分09秒 | とーま君の流儀2018
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選抜野球も始まるし、相撲も面白い。しかし、である。しかし・・・・。

2018年03月23日 08時15分42秒 | とーま君の流儀2018

一日中テレビを見ているわけにもいかないから

 

 

選抜野球が始まる。楽しみである。相撲も好きだが、これじゃぁ一日中テレビを見ていなくちゃならない。やることがないというのでは誰にも負けないが、これじゃぁ健康を損ねる。

だから、午前中は図書館に行ってくる。ついでに、図書館の脇にあるウオーキングコースを歩いてから、図書館のパソコン席に陣取る。論文を書いているのと、来月某中学校で交通安全講話をしなくちゃならないからパワーポイントを作っている。交通安全の方は、ほぼできたから、ちょっと放っておく。時間がたつとアラが目立つからである。

それから訂正する。

それでよし、それで。

論文も楽しい。材料はたくさんあるから、これを襖の切り貼りのように切ったり貼ったりしているのだ。そういう作業を通して、自分の思考のアラを探し出しては楽しんでいる。

所詮素人である。プロの目から見たら、なんちゅうことはないジジイである。だから、焦らない。焦ったってどうしようもないではないか。

誰にも評価されていないんだったら、好きなようにするしかないからである。気楽なことこのうえない。こんなに好き勝手に生きていていいのだろうかと思うことはあるが。

仕事がないから気楽に生きていられるのであろう。だから、自宅で家庭教師でもやろうかと思った。ゼニが欲しいからではない。そんなもんやっても小遣い稼ぎにもならない。家庭教師のチェーンをやっている会社に、webでの応募をしてみたら、電話がかかってきた。ちょっと話をしていた。そしたら、「稼ごうと思ったらやらない方が良い」と言われた。然りである。

年金を貰っているのだしなぁ。やることがない、行くところもないって悩んでいるよりは良いかと思ったから応募してみたのである。自宅でやれるからである。しかも、ボキの書庫で本に囲まれながら一対一で勉強を教えていたら楽しいだろうと思っていたからである。

しかし、止めた。

まさに、ゼニが欲しくてやるアルバイトではない。まさにそうである。

なにを今さらである。

年金だって貰っているのだし。

 

もうそろばん勘定なんか関係のない世界に生きているではないか。

今さらである。

稼ぎたかったら、他にいくらでもあるではないか。問題は生きがいである。ジジイになっても他のために役立つことをモットーとしていきたい。

それにしてもやることがないのは、アカンですなぁ。もっともどんなアルバイトをしていても、いつかやれなくなる時はやってくる。

時間がすべてを決めてしまう。

普段から、家事の手伝いをして、自分で生きられるように生活を改善していかなくちゃならない。

そう思っている。

不健康な生活からオサラバである。

マジに。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/