・他者からの視点でどう思われているかという問題設定は、実に興味深い。
・明治維新は、黒船がやってきて成立したわけである。それ以来我が国はどうやってきたのかということを考えることがある。
・これを愚生の高校時代は、日本の視点から考えさせられたような気がする。いろいろな矛盾を抱えて江戸末期をご先祖さまたちは過ごしていた、というような教えをいただいたような気がする。
・逆にアメリカの視点から見たらどうだったのだろうか。なぜアメリカはあの広大な太平洋をわたってまで、アジアの東端の我が国にやってきたのか。それを考えると実に興味深い。歴史的には、いろいろ教えていただいた。それはそれでいい。(アメリカは、開国以来アメリカ大陸東端から西へ西へと移動してきて、ついには太平洋を渡って日本まできたとしか見えないのだが)
・今回は、視点である。アメリカの視点でどう見えたのか。日本が。
・あるいは、それまでつき合っていた東アジアの国々から見たら、明治維新はどう見えていたのだろうかということである。
・鎖国の問題だって、徳川幕府が鎖国を決意したときに、ほかの国はどうだったのかということになると、いろいろ学説があってこれまた興味深いことになるらしい。らしいというのは、愚生にとってはしろ~との分野であるからである。
・こんな問題設定をしていろいろ調べると実に楽しいものである。ただし、本当に真理かどうかとなるとこれは師匠を必要とする分野になる。先生方に聞いてほしいことである。
・学問的真実と、勝手に仮説を設定してみることとは違うからである。
・自分の所属している国とか、組織というものは、「・・・・にとって私たちは何者なのか」というものであるそうである。
・へーゲルという偉い学者が言ったのが、自己意識について語ったように「私たち」は、常に「誰か」にとっての「私たち」なのである。他者からの視点を考えないで、自分はなにかという視点はあり得ないのだそうだ。
・なぜ、こんな書き出しをしたかというと、県立銚子は、「・・・・にとって県立銚子は何者なのか」という問いにどう答えるのかということである。
・実はこれは難しい。それは設置者がおられるからである。おわかりだろうけれども。
・だからこのことの結論を書くことはできない。しかし、考えることはできる。むしろ、考えなくてはいけないことであると思う。
・「・・・・」に当てはまる語句はいくらでもある。中学生、生徒、在校生、保護者の方々、教職員等々であろう。
・その場合、絶対に避けなくてはならないのが、否定的な語句である。あらかじめその存在を否定する思考方法からスタートしてはならない。
・書き出しに戻る。
・「アメリカにとって日本は何者か」「日本にとってアメリカは何者か」という問いが設定できるからである。
・ほかにもたくさん問いを設定することができる。
・「生徒にとって」「教師にとって」「妻にとって」「従業員にとって」「エリートにとって」・・・・実に便利な手法である。
・こうやって考えていくわけである。そうすると見えてくるものがある。むろん見えるものは人それぞれである。それでいいのである。
・ポイントが一つある。それはメリットとかデメリットで考えないことである。
・また固定的に考えないことである。
・そして他者とコミュニケーションをとってみることである。自分の考えが妥当性があるかどうかそれでわかるからである。
・それがなかなかできない方が多い。自己の才能にのめり込んでいるからである。
・愚生は誰にでも学ぶというスタンスでいるから、才能にのめり込むことはない。(もっとも才能自体ありませんな~)
・他者の意見をどれだけ聞くことができるかどうか、これなのである。全面的に屈服することではない。取捨選択しながら聞いていればいいのである。聞くことと、やるかどうかということとはまた別の問題である。
・また次回に・・・・ふ~ここまで書くのに1時間もかかった。でも、考えるにはいいツールですね、ブログって。
男は才能と美醜にこだわる? blog.goo.ne.jp/kencho943/e/e7…
23:22 from web
大衆日報の写真は明日記事にアップします。
23:23 from web
今日もデジカメを学校に持っていきませんでしたから。
23:24 from web
日常のことはこちらのTwitterに書いて、緊急時の時は、やはりTwitterでやります。ブログも同時にですけれど。
23:24 from web
どちらか一つが有効ならそれでいいと思っています。
23:25 from web
明後日の後期試験(高校の)がんばってくださいね。
23:26 from web
むろん3年生も。国公立の後期試験頑張って!
by kencho943 on Twitter
・今日の大衆日報朝刊に、県銚ニュース28号について紹介していただいた。さっそく、ポケットマネーで30部購入して各中学校にお送りした。近くの学校であったら明日入手可能である。
・さらに、日本語暗唱教室の記事が一面で紹介されていた。こちらに幸運にも愚生のことがちょっとではあるが紹介していただいた。
・ほんとうにありがたいものである。
・日々の学校行事や生徒の学校生活をも紹介させていただいているが、それのみではないのが、本校の広報である。
・県立銚子には何かが埋まっているということを最近言いはじめている。それは生徒の側の問題設定を求めているつもりである。つまり、生徒それぞれの頑張りがなくてはならないのである。
・のほほんとしていて、実力がつくのではない。努力が前提となる。
・中世の欧州世界を席巻したブルジョアは、生活の心配がなかったからのほほんとしていても、生きていけた。だから文化が非常に発達していったという指摘をされる書籍がある。ある意味真実をついているだろう。全面的に肯定するわけにもいかないが。
・このあたりの社会科学的な発言は控える。在職中はである。
・今日はジムが休業だったので、夕食後拙宅で自己流の運動をやった。小津安二郎の映画「父ありき」をコンピュータで見ながら、踏み台昇降的な運動をやるのである。高さ20センチくらいの台を使って上り下りする。スロートレーニングとも言われていて、ダイエットにきく。15分やる。これで18キロ落としたことがある。本当である。
・否、そんなことではない。
・この小津映画もまたすばらしいのだ。旧制中学校の数学教師。例によって笠智衆さんが父親役をやっている。珍しいことに髭をはやしている。
・父一人、息子一人(佐野周二)のつつましい生活である。親子の関係を描いていて、「晩春」の場合は娘版であったが、これもまた親子関係を描く点ではすばらしいものがある。
・しかし、今回は別の観点から注目してみた。
・それはこの映画が教育の方法と技術という観点で分析可能であると考えたからである。
・笠智衆さんが、黒板を前にして数学の授業を行っている。珍しいことである。数学の図形の問題を解いて見せている。とつとつと語っている。語り口はなかなかのものである。
・この映像を見て、現代の大学生はなんと思うだろうと思った。特に、教職課程をとっているような学生はなにを考えるだろうかとふと思ったのである。
・さらに、息子の方は仙台にある旧制帝国大学の理工系で学ぶ。そして、大学の世話で秋田県の工業学校の先生になって赴任していく。
・工業学校での理科の授業であろうか。息子の方の授業風景も出てくるのである。
・これは実におもしろかった。手法の優劣については、こちらも職業教師であるからいろいろ言いたいことはあるが、これは映画である。だから、それもまた避けよう。
・そして思った。また大学生である。学校の教師になりたいと思う若者がこれをどうレポートするのか、ということである。
・楽しいであろうと思う。
・主人公(笠智衆)の父親は、漢学の先生であったようだ。金沢藩お抱えの漢学者であろう。DVDのせりふだと、よく聞こえない。しかし、こういう文化的雰囲気というのはいいものである。
・だから地域の教育力が大事なのである。おとなたちの、文化力がである。これは絶対に軽視してはならないことである。
・しかし、小津監督は好きだなぁと思う。漱石の作品に出てきそうな青年がたくさん登場するのだ。旧制の帝国大学を好んで使う。そういえば「晩春」の主人公の大学教授も帝大の教授であった。
・印象に残るのが、工業学校の教師をしている息子が、父親と一緒に生活したいからという理由で、秋田の学校を退職したいと父親にすがるシーンである。
・それを説得する主人公(笠智衆)のせりふがすばらしい。まるっきり、教師心得である。淡々と言っているから余計に説得力がある。現代ドラマのような、オーバーアクション、つまり妙な声高や興奮がないからである。
・優れた作り手にかかると実に見事になる。
・この教師心得もまた教師志願者に聞いてみたいことの一つである。どう答えてくださるだろうか。そんな場所があればである。
・無理な話はこれ以上しないようにしよう。
・今日はもう一つおもしろい本を読んだ。それは、男というのは、あくまでも才能があると思いこみ、オノレの美醜にこだわっているという内容であった。
・だから女性は、男の才能や美しいと思いこんでいる顔をけなしてはならないというのである。
・大笑いをした。現実味を帯びているからである。
・さらに強烈なパンチを浴びた。それは、男というのは、「あなたは、才能もないし、顔もトイレのスリッパのようだけど、人間的器量の大きな、しかも優しさにあふれている人」だと賞賛しても決して男は反応しないのだそうである。
・最近、実に若い人々と話をすることがあった。断っておくが教員ではない。
・全部が全部、仕事でオレはいかに有能であるか、仕事が順調にいっているかということしか言わないのだ。愚生はそれはそれで大いに結構なことであると考えているから賞賛した。すると、にこっとするのである。(決してにやにやではないのだ。ここがおもしろいのだ)
・また明日!
東京マラソンとレヴィ=ストロース blog.goo.ne.jp/kencho943/e/d7…
by kencho943 on Twitter
・好漢ここにありである。そしてなぜ彼が共感を持って見られるのかということを考えた。それは、彼が高校の事務職員としてきちんと仕事をしながら、いわゆる市民ランナーとしてがんばっているからである。
・微妙な立ち位置であると思う。相当苦しいのではないかとも思う。
・いわば二足の草鞋をはいているようなものだからだ。働きながら通信教育で学んでいるようなものである。
・だから声援したくなるのである。たいした青年である。もっとも同じ教育関係者であるからかもしれない。
・レヴィ=ストロースの「悲しき熱帯Ⅱ」(中公クラシックス)を今日購入した。スポーツジムに行く前に、ショッピングセンターの内部にある書店である。実は前からほしかった。斜めに眺め、手にとって眺め、深いためいきをついて眺めていた。ほしいのだが、ついていけるだろうかという不安があったからである。買ったはいいけど理解できないのではないかという不安である。
・なぜほしかったのかというと、写真が豊富にあって、なかなか楽しめるからである。なんだそんな程度かと笑われるかもしれない。それともう一つ。本校の事務職員がストロースのファンであったからである。つまり、川内選手とこれでつながったのである。愚生は付録であるが。
・彼はインディオ社会の実地調査をした人類学者として紹介されるのだろうが、哲学教師をリセでやったことでも知られるように、実は西洋の知的社会で大きな影響をもたらしている。59年コレージュ・ド・フランス社会人類学講座の初代教授とも紹介されている。
・実は構造主義を知る上では必須の基本書である。これまで入門書を数冊じっくりと読んできたので、そろそろ本物にあたってみたくなったというわけである。訳書である。なんとか読めるかもしれない。
・専門書というのは、基本的な知識をすでに持っているという人々を相手に書かれているから、本当に初学者には不親切である。理解できないのだ。わからない?・・そりゃおまえさんが悪いというようなものである。
・入門書というのは、基本を知らない、あるいはこれから基本的事項を学習していこうとしている人を相手にしている。だから実にありがたいのである。
・見栄をはることはない。書庫の書籍は自分が楽しむのであって、他人に見せるために買っているのではない。これは本当にそうである。
・碩学の川田順造先生が、和訳に12年もかかったと言われているとおり、ほんとうにこういう先生の深い学恩でもって、初学者の愚生でも楽しめるということに感謝である。ほんとうにありがたいことである。
・目次を見ると、もっと楽しい。
・第6部に「ボロロ族」第7部に「ナンビクワラ族」第8部に「トゥピ・カワイブ族」とあって、特に興味をもったのが、第6部の「生者と死者」、第7部の「男、女、首長」である。
・なぜ興味を持つのか。死生学をかじってきたという故もあるけれども、これまでの知的体験ともまた違った感じがあるからである。
・それは、われわれ人類のことがいちいち腑に落ちるというか、これまでずっと疑問に思っていたことが明確に指摘されているからである。
・ストロース先生の受け売りでしかないのだけれども、親族のことや、結婚観といったもの、近親でのタブー等々について実に慧眼で書かれていると感じるからである。たいしたものであると日々ため息ばかりついているからである。
・学者という方々の生き方のすさまじさに触れて、ああこんな世界に一秒でもいたら愚生なんぞは・・・と思ってしまうからである。
・もっとも、愚生ごときものが、学問の世界についてコメントしていたら、わらわれっちまうですけどね。
・なんだかそういう意味で、凄さを感じるのである。
・それはマラソンの川内選手についても同様なことを感じるのである。
・二足の草鞋であるから、純粋なプロとは言えないし、そんなことを言ったら失礼になる。
・徹底ぶりに、凄みを感じると言ったらいいだろうか。
・仕事もやる、マラソンもやる。しかも半端な努力ぶりではないからである。
・そういう真摯なる姿に感じるものがあるのではないのかと思うのである。
・応援してます。川内選手。今日のテレビを見ていたら、ありゃぁ愚生と同じヘアスタイルになっていると驚いたからであります。
・頑張れ、頑張れ。
・また次回に!
・今日は、銚子の文化会館でNPOのBeCOM様主催の「日本語暗唱教室の大会」であった。これは小学生の日本語の暗唱を(資料は古典等)を発表するもの。代表のN氏がひょんなことで、愚生のブログの存在を知るところとなり、これまでお手伝いをさせていただいた。これも今年で最後になる。
・よくまぁ愚生のようなものでも使っていただいたものである。
・お礼奉公ではないが、審査をさせていただいた。楽しいことかぎりなし。基本的に、小学生が好きなんだろうと思う。(あっちは怖いおじぃさんとしか思っていないだろうけど)
・審査だから、タブレットのコンピュータを机の上に置いて、点数をつけていた。持ち込みである。
・教育成果は数字ではなかなかはかれないというのが持論だが、(評価は違う)今回は印象批評ということでやらせていただいた。仕方がない。でないと、差がつかない。
・中に、すごい小学生がいた。小学校の一年生である。なんと「桐壷」を暗唱したのである。おそれ入った。実に天才的子役スターを見ているような気になった。
・桐壷?とのたもう方に説明申し上げよう。源氏物語である。そうである。古典の作品中、まったく愚生の理解を超えた世界が展開されている超難解の古典である。
・世の中に源氏物語さえなければ、おそらく愚生はもっとも適性のない国語教師の道を歩むことはなかっただろうと思うくらい「ちょ~なんかい」なのである。
・つまり、まったくわからない世界が源氏物語にはあるからである。だって、愚生の顔を一度でも見たことのある方は、瞬間にわかる。源氏物語の世界には、まったく縁のないのがこの男であろうということをである。
・しかし、知らないということは恐ろしいものである。知らないから、教えていただこう、自分で勉強してみようと思うのが愚生の悪い癖である。
・語句も難解であるから、辞書も数冊買って常時勉強していた。それが悪かった。
・とうとうのめり込んでしまったのである。それが、愚生と源氏物語の出会いであった。(こういうのは時々いるものです。受験勉強をほったらかして哲学や文学をやっている自称余裕人というのが)
・しかも、恩師が源氏物語の構想論を研究されていて、NHKで講義までやっておられた。鍛えられた。実に鍛えられた。感謝と共に先生のご尊顔を思い出す。
・こういう学問的世界をいとも簡単に小学校の一年生が、たんたんと実にたんたんと原文を暗唱して、愚生の前で発表するわけである。
・思わず涙が出た。ほんとうである。まるで孫のようなおさなごが、あんなに苦労して読解をしていた源氏物語を暗唱しているのである。これを感動と言わずして、なにを感動というのであろうか。
・かわいいのである。その発表の仕方もである。表現が実に良かった。
・最後に講評をせよと言われたので、させていただいた。
・たった三つだが、話をさせていただいた。
・一つ目は「地域の教育力」ということである。銚子には大学がある。銚子を「学問の町」として意識しようではないかということである。しかも、BeCOM様のような貴重な実践もある。これである。こういう地道な実践をくぐりぬけている地域は強い。ほかの町にはないではないか。すばらしい実践である。
・二つ目は、暗唱といっても、ただ単に情報を収集して再生しているだけではいけませんよと申し上げた。デジタル時代だからよけいそう思う。再生の天才が、学校秀才である。それでは知っていることしか学ぼうとはしないではないか。あらかじめ知っていることしか勉強しないのでは、知らないことへのチャレンジをしなくなる可能性がある。それではいけませんよと申し上げたつもりだが、だんだん熱が入って、愚生の悪い癖で難解なる語句を用い始めた。
・あっと気がついて(つまり相手は小学生ですよということを)修正しつつ、ごもごもと東北弁ではなし始めた。
・ところが最後の三つ目。大失敗。「主体と他者」ということばを使ってしまった。実態を把握していないという実に悪い例である。
・その後、分かりやすく説明したのであるが、どうも保護者向けの話になってしまったか。
・主体はわれわれ。他者は文化的資本と言い換えてもいいだろう。
・ま、そのまま言ったわけではないが。どんな秀才でも、所詮言ったり書いたりしていることは、他者が書いたことの文化的資本の受け売りでしかないからである。
・もっとも学校は、その文化的資本を学びにくるところである。勝手に学んでいたのでは、独善的になる。方法も師匠に教わることである。是正もしていただくことである。
・そのためには、師匠にすべてを教わるのではなく、自分自身に問題設定がなくてはならない。なにを教えていただきたいのかということを、自分自身が自覚していなくてはならない。
・これは結構重要なことである。
・退職したらこんなことも言えなくなる。書けなくなる。参った、参った。
・あと少ししかこのブログも存在しない。だから最近は字数が極端に増えている。言い残したことがないか、書き残したことがないかということである。
・字数が多くなるのは、愚生の最大の欠点である。いかん、いかん。もっとじっくり書けばいいのだが。つまり論文型ではないのだ。これは改めなければならない。4月から猛ダッシュで論文書き三昧となるからである。修士論文の時も、随分恩師にご迷惑をおかけした。長すぎるのである。なんでもかんでも書けばいいというのではいかがなものかである。(とほほ)
・もっとも、このように「あるひとつの物語を思いつくということもまた相当重要」なのである。書きながら、考える。これである。
・また次回に!
・自分だけにある適性とか、自分にぴったりの仕事とかを捜していくことを、自分探しの旅をするのだと称して、一生涯追求する方がおられます。
・これはなにも今日後期試験志願の日であったから、思いついた話題ではありません。
・自分とぴったりの仕事とか、友人とか、あるんでしょうか。完璧なと言う意味で。つまり、ほとほと人生は適性の点でミスマッチが多いと思うからであります。
・ミスマッチがあることを前提に、就職情報産業はあるのではないかと思うくらいであります。
・ということは、この話の前提として、この広い世界に、たった一つだけの自分の適性にぴったりあったたった一つの仕事が、学校が存在するという思い込みがあるわけです。
・ですから「自分にあったこれ以上ない適性の**」を求めて終わりの無い旅に出ることになるわけであります。
・わたくしたちは、間違う生き物であります。 完璧ではないからです。
・チェーホフが言っています。誰にでも、どのような環境であっても、結構楽しく生きていくことができるのが、そういう能力がそなわっているのが人間である、と。(『可愛い女』)
・わたくしは、国語教師ですが、こんなに適性のない科目はなかったと思っています。高校時代に教えていただいた先生方は、どなたも深く深く肯定されることです。そうです、国語が嫌いだったのです。できないから、勉強を始めてみたのです。知らないことが多いから、知るために勉強をするわけです。もうこれで一生を終えてしまいますが。
・さらに、旧制女学校の校長をやるということでも、適性がない。野獣のような風貌であるからであります。(とほほ)
・武道愛好者としても素質は限りなくゼロ。わたくしは、武道をやるような優れた体格には恵まれませんでしたし、ベンチプレスもMAXで120キロしか上がらなかった。さらに、小さい頃はすぐ風邪をひくような虚弱な子どもでありました。
・一番適性のないところを選択したら、それが職業になって結構楽しくやってきたのかもしれないというのが実感です。つまり「どんな仕事でも楽しくこなせて、どんな相手とも楽しく暮らせる」ということを、努力してやってきたのです。
・ですから胃がツンツンと痛くなるようなことを言われても、けっして気にしないし、そういう相手の発言を分析して論理矛盾をメモしたりして、楽しむ余裕ができるようになりました。
・そもそも絶対の立場とか、絶対の前提というのは存在しないわけであります。注意深くお聞きしていると、前提自体を一度再検討されたらいかがですかと申し上げたい位の方がおられる。
・自分個人の価値観は全部の人に普遍的に通用するわけではないからです。だから、教育は難しくなるのであります。もっと言えばそのために学習指導要領が必要となるわけであります。
・確かに人生にはミスマッチが多く、時にはそれが取り返しのつかないことになることもありましょう。それはそれで充分留意していただきたいことであります。全てを棒にふることはないからです。
・注意して生きていれば事故は起きません。このことだけは自覚していただきたいのです。
・それでも人に厳しくあたる人がいます。スリッパのそろえ方が悪いとか、歩き方が良くないとか、あるいは訛っていてよく発音が理解できないとか、ヘアスタイルが良くないとか(これって、全部わたくしのことですね=ヘアが無いのにそんなことを言われても)・・・そういう方がおられる。
・そういう方とまともにやり合わないことです。むしろこんなわたくしのことを思ってくださっているのだ、そう思うから注意してくださるのだと受け止め方を工夫していくことです。
・得意がって、論理性もなにも無いでたらめな自説を展開していると、どこでしっぺ返しをくらうかわかったものではありません。そもそも、自説なんていうものも構造主義的には存在しないからです。だって、書いたり話したりしているこのわたくし(主体)の、書くものや話すことは、過去において学んだことというその一点において「他者」の受け売りでしかないのですから。それが、「主体と他者」ということでもあります。
・それくらいの謙虚さはいくらなんでもわたくしでも持っているつもりであります。
・また次回に・・
・この写真は数日前に雪が降った時の県立銚子高校の玄関であります。だいぶ溶けていますが。
・この手の建物の写真はほとんどこのBlogでは紹介してきませんでした。しかし、時間がたったら、建て替えですから、消滅してしまいます。
・存在するものは、それが目に見えるだけに、無存在へと行ってしまいます。はかないものであります。だから、本校は建物ではなく、教育内容で勝負をしてきたのでありますが、それがどうしたという天の声も聞こえてきそうであります。
・いい校舎にしていきたいものであります。いろいろなお願いをしております。楽しみにしていてください。
・卒業生で、このふところの深い「扇の構え」をしている校舎を記念撮影に来てくださる方もおりました。ありがたいかぎりであります。こんなありがたいことはありません。
・つまり卒業をされた方々のこころの中に、この実にふところの深い校舎が鮮明に刻まれているということであります。
・建物で成功したという大学をいろいろと探ってみた時もありました。先日、本校同窓会の役員の方々には申し上げたのですが、全国には女子大学から共学にして大成功をおさめた大学がいくつかあります。M女子大学が共学となって、学部も増やし、驚異的な成長をしていることに最も興味を持ちました。いろいろと接触を図って、情報をいただきました。それが県立銚子のことを考える上で良かったなぁと思っておるところです。
・この写真は、千葉市の青葉の森文化ホールで行われる喜多流の能舞台の案内であります。昨日、海上公民館で偶然手に入れましたので、問い合わせたところ、まだ空席があるとのことでありました。
・真ん中の前から7番目が空いていました。即、チケットを予約しました。ありがたいものであります。
・代金はコンビニで振り込むのだそうです。そんなことも初体験でありました。ずいぶん便利な世の中になったんですねぇ。まったく浦島太郎です。携帯の使い方も知らないんですからね。メールも、よくわからないですし。
・ついでに言えば,能もよくわからないんです。素人です。文献なら多少読んでいますけれども。
・じゃぁなんで見に行くか。
・4月からの生涯学習で勉強していきたい分野であるからです。ま、ちょっと普通の能楽ファンとは違う視点からではありますが。楽しみ、楽しみ。
・これをやったからといって、なにかの利益になるかというとなにもならないでしょう。メリットとかデメリットとかという世界とは無関係に生きてきたものですから。
・そんなことよりも、身体知というか、シテとワキの身体のさばき方も見てみたい。身体知というのは、脳の働きと密接に結びついていますから。
・身体の運用があって、はじめて健康に結びつくし、知的能力というのは、身体がベースになっていると日頃から考えているからです。知徳体と言われます。わたくしは、この位置関係にはちょっと疑問に思っているのですが、これ以上は述べません。
・単なる文武両道などということを言うつもりはまったくありません。(文武両道はこれはけっこうなものです。真剣にやればです)
・そんなことを能舞台を前にして考えてきたいものであります。
・特に最近は、能役者の背中が気になります。シテは若干前屈みになりますから、背中がすっと伸びない。それをすっと見せるために、どうするのか。秘訣があるんだそうですが。
・和服は背中に家紋があります。これはいいものであります。すっとした姿になることができる。
・背中に目があるような武道家もいます。油断できない一番怖い存在です。そりゃそうでしょう。明治以前は腰に両刀を差していたんですからね。
・油断ならないと言えば、武道家に「素」で接しない方がよろしい。わたくしは武道も素人でありますから、いろいろと痛い目に遭っています。素人ですから、指をすっと出して、こういう時にはどうすればいいんですかね?と聞いたら、すっと指を捕まれて一喝!「折られたらどうするんだ」と叱られたことがありましたっけ。普段からのこころの構えというものが重要だということでありました。
・身体知が無いからです。おおいに反省しなくちゃなりません。考えることを放棄していると、こうなります。ある意味安全教育にも結びつくことであります。
・いろいろなことを県立銚子で学んでください。「県立銚子にはなにかが埋まっています」・・それを見つけに来てください。あなたの力で。
・また次回に。
・構造主義的には、このようなブログの記事を書くのは、わたくし個人が書いていると言うよりは、他者が書いているというべきなのだそうです。
・ちょっと驚いているのですが、そういうこともあり得るのかなぁと思いつつ、今日もこたつに入ってTablet Computerとにらめっこ。
・確かに構造主義の学者先生の言われるように、少なくともわたくしのブログの場合は、最初に言いたいことがあって、書き始めるのではないようです。
・これをあまり言い過ぎると国語教育の大家たちにしかられそうですから、このあたりにしておきますが、どうも真実のような気がしてなりません。
・有名作家が、自分の文章が試験に出て、その問題が送られてきて、「作者は何を言いたいのか」という設問にはたと困ったという笑い話は、構造主義者からみたら当然なのだそうです。これは実に楽しい推論であります。
・自分から離れていってしまうからでありましょう。文章自体が。
・今日は卒業式の式辞を再考しておりました。上記のような観点から考えたら、どうも気に入らない。しかも、また和歌から入った初稿を書いてしまったからです。ある意味、定型ですから、和歌から入るのは非常に楽であります。
・式辞というのは、ある要素があって、その要素がいくつかの点になって、構成されているわけです。体系とはちょっと違った配列でならんでいます。それを定型化するというのは、いかがなものか。
・つまりそういう定型化の中に安住している自分であってはならないわけであります。変化がなければならない。
・しかも教員生活で最終最後の卒業式の式辞であります。卒業生に対しても、定型化で応じるのは失礼になる。わたくし自身としても、そこには思い出を込めたい。そして、思いの丈を述べてみたい。
・これまでの入学式でも、卒業式でも注意深い生徒は、わたくしが原稿を棒読みしているのではないことに気がつかれたと思います。わたくしは、式辞原稿は作成しますが、式辞の用紙の上端から会場を見ながら発声しているのです。本当は、なにも持たないで、直接語りかけるのがいいのでしょうが、このあたりはアメリカとは違っていますから、それこそ世間並みにさせていただいています。
・世間並みという言葉は好きではないのですが、ま、仕方なし。
・あまり世間並みということばかりを気にしていると、横の、あるいは横並びということしか気にしなくなり、群衆となって走り続けてしまいます。それもまた大切なことなのですが、群衆となって走り続けることでその先が断崖絶壁であったらなんとしようということを考えないのでありましょうか。
・たまには横に走って危険性を遺棄するというのがいてもいいのかもしれません。そういう異端がいないと、生物学的には、種の安定が図られないのだそうですね。理科の先生に確かめましたから、間違いないのでしょう。
・世間学も、異端も全部視野に入れて、成長していってください。複眼的な思考ができるということが、ある意味で大切なことであります。
・俺は、私は個性的な人間だという人もたくさんいますが、個性というのもたった一つなのでありましょうか。わたくしは大いに疑問に思っているのです。昔からです。エレキギターをやっているから、バンドをやっているから、ダンスをやっているから、あるいは芸能人を目指しているから個性的に生きているんだと言っていた同級生がいましたっけ。それは同質の集団内では類型化ともよぶべき現象であって、実は特異性もなにもなかったのであります。自分だけで、個性的に生きていると思い違いをしていただけだったと、本人から聞いたことがありました。自分で納得したのですから、それはそれでいいんでしょう。他者であるわたくしの範疇外であります。
・個性というのはいろいろあって、それぞれ使い分けて生きていってもいいのではないのでしょうか。
・たとえばこのブログの記事だって、Aという個性を意識しながら書いているわけです。素のままの顔で書いているわけではありません。素のままで生きようとするからトラブルのです。根っからすばらしい人で、善人で、愛情あふれる方で・・・・・・・そういう個性をずっと永遠に持ち続けることができる人がいないのと同じです。
・愛を説く人、善行を説く人、親切を説く人・・・・・・いろいろおられます。そういう方々はそのような個性をご自分が持っておられるから、説かれるのではありません。「説く」という一面に限って、そういう個性を演じておられるのであります。絶対的な上位の価値観というのは、人間の行動とは一致していませんから。もしおられたら、そういう人は限りなく超越者に近づくことになります。
・道徳教育の困難さはここにあります。けれども、教育としてやるしかない。そこから工夫が始まります。
・おとなたちは、自分の限界に気がついている。しかし、若い方々はまだわかっていない。それが若さの特権でありましょう。だからこそ、努力できるのです。一心不乱に。また、それくらいの覇気がないと、いけません。
・がんばりましょう!
・また明日・・
「Twitterは身辺雑記、ブログは長文だから考えをまとめるのにいい。」・・こんなことを内田樹先生の著書から学んだ。さらに、「レポートのように書籍の読書メモもいいのだ」と知った。作者、文献名、年度、出版社名、引用ページというスタイルでブログに書いていくと後で検索にも役立つ。感謝
22:37 from web
ブログの一つの記事に最低でも3000字を書くと、レポートにもなる。読んだ書物の感想を書いてもこれはなかなかいい。
22:39 from web
身辺雑記でスタートしたブログが、広報活動となっていきました。もうすぐお役ご免となりますが。
22:42 from web
もっとも、広報活動のためと言いつつ、可能なかぎり学校生活の身辺雑記だけは巧妙に避けてきました。それは動画にまとめてきましたから。その辺がちょっと違っているのかもしれません。意図的という意味では。
22:43 from web
さらに避けたのが自慢話。大人げないですからね。
22:45 from web
経済用語で学校生活を紹介することも避けてきました。理由は退職後に申し上げましょう(^0^)/
22:48 from web
しかし、今日は家に帰ってからずっと小西甚一博士の日本文学史を読んでいて、感動しました。さすがに碩学。
22:52 from web
で、最初に戻りますが、小西甚一博士の感想と要点メモをブログに書いていたのです。え?記事に反映されていない?ごめんなさい。パスワードをかけてあるのです。まだ、公開できないカテゴリーに書きためているのです。それだけです。また明日!
by kencho943 on Twitter
こころ許した旧友と blog.goo.ne.jp/kencho943/e/4e…
23:43 from web
ブログの方は、カテゴリーを整理して一本にしました。撤退がいよいよ現実味を帯びてきました。
23:43 from web
致し方なし。
23:44 from web
新しいものにしていきます。
23:45 from web
これから学校は年度末まで、盆と正月が一緒に来たような多忙ぶりとなります。
23:46 from web
やるしかないですから、やるしかない。あまり悲愴な顔をしていても仕方がありませんが。
23:47 from web
お休みなさいませ。。。。。。
by kencho943 on Twitter
・今日はなんだか雪がちらほら降ってきたのですが、これはなかなか珍しいことでありました。銚子でそんなことがあるとは。。。。
・現在は旭市になっている海上町の海上中学校の教師をさせていただいていたときに、数回グランドが真っ白になったことがありましたっけ。そんなことを思い出しました。
・東北の片田舎で、雪と共に育ち、雪を相手に遊び、そんな生活を送ってきたのでたいへん懐かしくなりました。
・否、今日はそんなことではなくて、昨日の続き。小津安二郎のこと。彼の映画はたいへんすばらしく、この映画でもって、わたくしは「大人になるということを学習」させていただいたという思いがあるからです。つまり、大人の男というものは、どういうふうにクチをきき、先輩を立て、また家族との関係を維持していくかということを学んだのです。
・昨日取り上げた「晩春」に最も興味を持ったのですが、あれはあれでなかなかの存在感があります。本郷にある大学の教授という父周吉の設定ですから、当然これは旧制帝大のことをさしているわけです。小津監督は、他の作品にも相当数このような旧制高校や旧制帝大の知的インテリを登場させてきますが、なかなか好ましいことであります。そうです。もう現代の日本にあってはこうした高等遊民のような存在感ある人々はいないからです。
・ある意味、夏目漱石の作品群に出てくる若きインテリたちと共通するものがあります。漱石は、明治維新から相当時間を経て、どうやら逼塞した時代状況のなかでいろいろと考えている青年達を描いてきます。それが、県立銚子草創のころと一致しているのもまた一興であります。
・漱石が、なんで大学教授(旧制五高教授と東大講師)の職をなげうって朝日新聞に入社したのかということは、その知的状況の打破というか、先鞭をつけるというか、そういう問題意識にせかされて決断したのではないかと、わたくしはひそかに思ってまいりました。
・こんなふうなことを、夕食後書いてみようと思い立って、とりあえずパソコンの前に座って駄文を書き始めます。そうすると、自分の問題意識というか、問題設定が見えてくるのです。とりあえず書き始めることによって、自分のこころの中にある問題に答えてみようと思うわけです。
・最近よくそのことを書いています。だからブログが楽しくなってくるのですね。自分の考えを整理することができるわけですから、これは楽しいことであります。他にもいろいろ効用がありますが。
・しかし、広報活動として始めた以上、時間的な終わりはある。後はいつ決めるかだけであります。撤退をです。教員でなくなるからです。仕方なし。
・いつ映画をみるのだと言われる方がおられます。殆どDVDです。あるいは動画サイトです。都会に出かけて映画を見るというのはまったくなくなってしまいました。
・さらにわたくしの風貌は異相でありますから、人混みに出かけるのは嫌いなのであります。地下鉄でも普通の電車でも、大都会のあの混雑ぶりはなんでありましょうか。
・みんなセカセカと忙しそうにしておられる。東京に入学のために上京して来たときに、母の弟(当時池袋に住んでいた)と一緒に上野駅の階段を上っていったのですが、ついていけないほど早足なのでありました。なにを焦っているんだろうと、背後から思っていました。セカセカ歩いたって、どうせそんなに時間は違わんだろうにと思っていたのです。
・雪の世界に囲まれて生きて、ゆったりと時間は流れていっていたはずなのに、おじさんはどうしてこんなふうになっちまったんだろうかと思ったのでありました。急いだって、究極的にはみんなゴールは一つしかないのです。
・しかし、急がなくてはならないこともあります。それは、私的なことで準備しなくてはならない退職関係書類が山ほどあるのです。さっきまでそれをやっていました。飽きると、こうやって書庫のパソコンに向かって問題を設定し、考えるわけです。これがわたくしの趣味と言えば、言えるわけでありましょう。
・たまにはこころ許した旧友と、しみじみとした場所で杯を酌み交わす。わいわいと騒ぐのはあまり好きではありませんし、ささやかな旨い肴とためになる話を味わいながら、一時を過ごすのもまた一興であります。明日の晩、そういうひとときを過ごします。良質の日本酒の成り立ちを経営者から拝聴しながら。黒で統一した壁とカウンターは実にいい雰囲気であります。まさに大人の世界です。(飲酒は20歳過ぎてからですよ・・)
・その時にちらほらと雪が舞ってきたら、これもまた一興でありましょう。
・また次回に・・・・・・。