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と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

また楽しみが増えましたな。慈しみながら、老境を生きていくしかないので。この本を友として。

2016年10月16日 08時01分58秒 | 在野研究ごっこ

 

アンチエイジングを気取る必要もないと気がついてからである。アンチエイジングのために生涯学習をやろうとすると苦しい。無理があるからである。

 

 

「ユリシーズ」の古本をyahooオークションで注文した。新潮社のである。かなり古いが、なに、読めればそれでいい。さらに、自分の本だと書き込みが自由自在である。これがいい。でないとあらすじも記憶できなくなっているのだから。惚けてきて。文庫だと四冊くらいあったのだが、こっちの新潮社の方は単行本で二冊。たったの1000円である。コンビニ払いを選択したから、これから朝食後walkingを兼ねて支払ってくる。今週中には来るだろう。自宅に。

なんだ?・・・1000円払うのも四苦八苦か・・・と言われそうだ。まさにそうである。四苦八苦なのである。まったくしょうも無い。定年退職してから、まったく四苦八苦の連続である。ゼニと縁が切れてしまったからである。

わはっはははっははっはははっははは。

ま、それならそれで生きる道はある。自分の内面を見つめてこれからは生きていきたい。世間の名利ともまったく無関係だったし、そんなもんと関わりたくはねぇのである。正直言えば、新刊本が買えるくらいのゼニは欲しいが、ないものはないから諦めるしかない。

アルコールと、香水クサイお店とは縁を切ったから、出ていくゼニはなくなった。全部テメェの小遣いから支払っているから、無駄金はもったいなくてもったいなくて(^0^)。

なんで「ユリシーズ」か。

徒然草を教えていただいている退学した某大学生涯学習センターで、教授の先生が講義中ふとおっしゃられたからである。ユリシーズは、増賀上人と吉田兼好に通じるものがあるって。ボキは、すぐ反応した。エリック・ホッファーと通じるもの、あるいはモンテーニュ「随想録」と通じるものがあるのかもしれないとひらめいたのである。

それで、「ユリシーズ」を読んでいなかったことに気がついてしまった。だからyahooオークションで買ったのである。

つまり「老境を慈しむ」というボキの基本姿勢からである。今年になってから、ずいぶんこちら側にシフトしてきたのである。考え方がである。

無理に、アンチエイジングを気取る必要もないと気がついてからである。アンチエイジングのために生涯学習をやろうとすると苦しい。無理があるからである。なんでもそうだ。Gymでも、70代なのに無理している御仁もかなりいるからである。全力でランニングをしている爺婆もたくさんいるからである。そんなに無理をすることはないのだ。無理は、破綻を生み出す。自然に生きていればいいのだ。ボキは健康学に関してはそう考えているから。

さらにある。エリック・ホッファーに在野で研究するというか(ボキ如きが研究と言ったらおこがましいけど)、ともかくこのまんまやっていけばいいと学んだからである。「老境を楽しめばいい」のである。無理して若返る必要もない。ボキの見事なるスキンヘッドにアデランスをかぶる必要も無い。むしろみっともない。暑いだろうし。おっとこの話はこれ以上書かない。あちこち差し障りがあるだろうから。

ごめんね・・・。

お後がよろしいようで。

 

 

Bye-bye!

 

 

 

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吉原に非常に興味があって、しばらくは退屈しないですなぁ(^0^)

2016年10月11日 13時53分07秒 | 在野研究ごっこ

この画像の書籍を今日のお昼頃に注文した。Amazonである。明日には来るらしい。楽しみである。書籍データは今回はブログに載せない。だって、まだボキの手元に来ていないからである。

江戸時代の歴史を知らないということと、特に脇田晴子先生の論文から、女性差別問題をピックアップした「女性芸能の源流」というのは、おもしろそうである。こちらは県立図書館にもなかったからである。注文したのは。

さらに、吉原は今月の26日に日帰りバスツーアーで東京に行ってくる。専門ガイド付きの格安ツアーである。3999円だった。もう支払いを済ませたので、後は行くだけである。むろん、こんな物好きツアーには誰も一緒に行ってくれないだろうから、隠密である。つまり一人で行ってくる。今まで、あまり一人旅というのはやったことがないから(オートバイのツーリングは独行道だったけど)、こっちも楽しみである。

最終的には、中国単独旅行をしてみたいと思っているからである。むろん、中国の宗教劇「目連救母」を見てみたいのだ。しかも、泉州市のである。学位論文にしたいと思ってコツコツ書いていた内容である。しかし、ここはなかなかツアーにもないから、苦労しているのじゃ。

それに中国語はまるっきり話せないし。参っているのだ。

その予行演習みたいなものであ。単独行のである。

ボキの小遣いの中から単独旅行をしているのだから、古女房ドノも文句は言わない。それならど~ぞ御勝手にである。むしろ家にいない方がいいだろうから、積極的に外に出ることにしている。その方が、健康にもいい。

ゴミのようなダメ論文もどきを書いているよりも、ずっといい。

ボキの場合は、論文もどきをやり始めたら、時間のたつのを忘れてしまうからアカンのである。じっとしていたら、病気になっちまうからである。

他にも、午前中に吉原関係の書籍を読んでいた。しかも、キーワードだけをメモしながらである。小さいノート(100円で売っているやつ)に、メモしながらである。あまり詳細にはノートしない。やってもすぐ忘れてしまうからである。

サブノート学習法というのは、小学校からずっとやってきたからもういいのだ。もう固定化された学習法であるから。大事なのは、記憶に残すことである。どーも、ジジイになってからはそれが危うい。特に、年代・年表。

郷土史を趣味でやっている以上、苦手にしたくはない分野である。スラスラ出てくるようでないと。

それには興味のある分野から始めるに限る。

今日もあまり天気がよくない。

これからgymに行って、健康学を実践してくる。

それだと、もっと長生きできるような気がするから(^0^)。

 

じゃぁねぇ・・・・・・・。

 

Bye-bye!

 

 

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女性の差別ということにかなり興味関心があるので

2016年10月02日 09時55分18秒 | 在野研究ごっこ

 

藝能史の観点から見ると、女性抜きには語れないのだ。マジに。能の「百萬」もそうだったし。それでもってのめり込んだから・・・・。

 

 

県立図書館に行って、脇田晴子先生が亡くなられたのを知った。特設コーナーがあったから、この書籍を借りだしてきた。

藝能史に特段の光を与えてくれた女性たちを扱っているすぐれたご研究である。

ちなみにWiKiでは以下のように紹介されている。

 

脇田 晴子(わきた はるこ、1934年3月9日 - 2016年9月27日[1][2] )は、日本の歴史学者滋賀県立大学名誉教授文学博士京都大学、1969年)(学位論文「中世商工業座の構造」)。兵庫県西宮市生まれ。父は俳人の麻野恵三(微笑子)、夫は歴史学者の脇田修。子は経済学者の脇田成

略歴[ソースを編集]

1956年 神戸大学文学部史学科卒業

1963年 京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学

1967年 京都橘女子大学文学部助教授

1981年 京都橘女子大学文学部教授

1984年 鳴門教育大学学校教育学部教授

1990年 大阪外国語大学教授

1995年 滋賀県立大学人間文化学部教授

2004年 城西国際大学大学院人文科学研究科客員教授

2007年 石川県立歴史博物館館長

 

今、佐伯泰英の時代劇小説を息抜きにしながら、脇田先生のこの書籍を読ませていただいている。そうなのである。同時並行処理だ。これ、塾の指導をしながら思いついた指導法なのだが、ボキ自身にも役に立つ。つまり、数学で空間図形が不得意な塾生には、ノートを二冊用意させてそれはそれで演習をやらせる。後は、頁順に演習をやっていくのである。ま、どうでもいいような話であるが。

なんで脇田先生の本も読んでいるのか。同時並行の傍ら。

ボキもまたこういう話に興味関心があるからである。特に、女性達の数奇な運命というものにである。実は吉原の遊女達にも興味関心がある。今、それらを探っているところである。なぜ、身を落とさざるを得なかったのかというその一点に限ってである。好きで、遊女になったのではなかろうから。それも、歴史的には浅い。江戸時代だからである。

そもそも、今でこそ天下の大都会東京なんて威張っているけど、あそこは元々なんにもナカッタところである。

房総半島の方がはるかに開けていたのだ(^_^)。

もっと言えば神奈川県。鎌倉があったしなぁ。

よくご自分の血統を自慢する方がいる。しかし、よ~~~く聞いていると歴史が浅い。どっかから流れてきた方々が血統自慢をされるようである。落人の伝承も、ボキは怪しいとにらんでいるのだが、大同小異である。

さらにある。学歴自慢をされる方々である。母校自慢である。地元の進学校を出たからと言って、堂々と自慢をなされる。おかしくてたまらない。進学率とかもろもろの点でも眉唾であるからだ。これはボキもまた流れモンであるから、冷静に判断できるっちゅうもんであるから。

わはははっははっはははっはは。

あ、これ以上は書かない方がよろしいようである。所詮、ボキは流れモンであるからだ。

お後がよろしいようで。

 

Bye-bye!

 

 


「日本中世被差別民の研究」 詳細情報

  タイトルコード

1000001300316

書誌種別

図書

書名

日本中世被差別民の研究 

書名ヨミ

ニホン チュウセイ ヒサベツミン ノ ケンキュウ

言語区分

日本語

著者名

脇田 晴子/著

著者名ヨミ

ワキタ ハルコ

出版地

東京

出版者

岩波書店

出版年月

2002.10

本体価格

¥12500

ISBN

4-00-024213-X

数量

396,12p

大きさ

22cm

分類記号

361.86

件名

問題-歴史

内容紹介

差別はなぜ残っているのか。現在の差別の淵源として中世の被差別民は、長い歴史過程のなかでどうして出来てきたのか。女性差別の淵源と根はおなじという立場から、中世の被差別民の歴史についての研究をまとめる。

著者紹介

1934年兵庫県生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。滋賀県立大学人間文化学部教授。文学博士。著書に「日本中世都市論」「日本中世女性史の研究」「中世に生きる女たち」など。

 

 

 

 

 

 

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京極夏彦先生の書斎である・・・憧れますなぁ (T-T)

2016年09月22日 13時52分24秒 | 在野研究ごっこ

 

京極夏彦先生の書斎。

憧れますなぁ。

こういう家に住んで、これだけの蔵書に囲まれて。

シアワセな先生ですよん。

マジに、うらやましいです。

ボキの家なんか、犬小屋でおますな。

わははっはははっははっはははっはは。

 

 

 

 

 

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本当に素人である。なんにも知らない。だから、オノレがイヤになっちまうですなぁ・・・(>_<)ゞ

2016年09月21日 08時09分36秒 | 在野研究ごっこ

この書籍は、郷土史をやる方々で、とりわけ近世史をやる方々の基本書である。

 

 

著者は、ボキのお世話になっている郷土史の会の前会長である。ボキは、この会も新参者であるから、前会長の講演をちょっとだけお聞きしただけに過ぎない。まったくの素人である。そこらあたりに、生涯学習ごっこをやっているジジイの限界がある。ところが、前会長はこの三月にお亡くなりになった。もっともっとお話をお聞きしたかった。しかし、こっちは新参者である。その機会もあまりなかった。残念である。

こんなことは書かない方がいいだろうと一瞬思ったが、郷土史もボキは生涯学習ごっこだと思っているので書いている。それに郷土史の会の自称広報担当であると思っているから。拙ブログは郷土史の会の先生方(大学教授、学芸員の先生方等々)も存在を知ってくださっているから、もう手遅れである。だから逃げも隠れもしない。やっちまったものはしょうがねぇのである(^_^)。

しかし、昨日の編集会議でまたまた、痛感したのである。どこまで行っても「バカ」「素人」だなぁと思うのである。編集会議では、前会長の論文目録をExcelで一部分だけ作成することになったから(ボキが)、そのあまりの論文の多さと内容に圧倒されてきた。できるかな。なにしろcomputerも苦手であるから。

さすがに論文博士になられた前会長は違う。課程博士とは違っている。量と内容のレベルが違う。これじゃぁ、ボキ如きバカ・基地外の類いが、学位をねらうなんてぇことは最初から無理だったのだと痛感した。昨日の会議でも、家に帰ってきてからも。

で、早速Amazonから前会長の著書を二冊買った。たくさんあるのだが、高くて買えない。さらに、県立図書館からも借用する。学術書であるから当然ある。高いのは、借りるしかない。ノートを取りながら拝読させていただく。正座はしないけど。

だからボキは裏方で、土台を支えている大衆に過ぎないのである。それをである。どこでどう勘違いしたか、まるでいっぱしの専門家気取りでいたら笑われる。それこそ無明である。そもそもボランティアでやっているだけであるから。

つまり、在野の素人郷土史愛好家(家とはとても言えないけど)として、エリック・ホッファーを真似しているただのジジイでしかないのだ。そこのところを意識していないと、余生を誤る。

出発点に自己否定を置いおかないと、余生は苦しくなる一方である。だから、ボキはエラそうに他人にクチをきかない。きかないどころか、誰もボキを相手にしてくれない(^_^)。あ、笑っている場合ではないな。マジである、マジ。

これから老人大学に行くけど、こっちは自己否定のかけらもない方も少数ながらいる。自慢噺を聞かされるのが常である。オレは、あたしはエライんだとのたもうのである。のべつまくなしである。うんざりする。そんなにエラかったら、他人が、社会が放っておかないだろうにと思うのだが、ご自分が一番そのことを知らない。

それにボキの現役時代のことも聞いてくる。ボキは相手にしない。「そりゃ、別人ですよん」とふざけて言っている。まともに相手にしていたらくたびれるではないか。現役時代になにをやっていようと、そんなの爺婆になったらな~~~~んも関係ないんだよん。

マジにそう思っているのだ。

 

じゃぁ、そろそろ行ってきまぁ~す。(あ、その前に古文書講座だった)

 

Bye-bye!

 

 

「旗本領郷村の研究」 詳細情報

 

 

タイトルコード 1000000073485
書誌種別 図書(郷土)
書名 旗本領郷村の研究 
書名ヨミ ハタモトリョウ ゴウソン ノ ケンキュウ
叢書名 近世史研究叢書
叢書番号 11
言語区分 日本語
著者名 川村 優/著
著者名ヨミ カワムラ マサル
出版地 東京
出版者 岩田書院
出版年月 2004.8
本体価格 ¥11800
ISBN 4-87294-328-7
数量 468p
大きさ 22cm
分類記号 210.5
件名 旗本
内容紹介 「旗本領の性格と旗本知行権」「旗本領郷村と組合村の動向」「旗本知行所支配の実態」の3章で構成。旗本領の実証研究の集大成。
著者紹介 1926年千葉県生まれ。千葉師範学校本科卒業後、千葉県庁に勤務。千葉県史編纂室長を経て、現在、千葉県郷土史研究連絡協議会会長。著書に「旗本知行所の支配構造」など。

 

 

 

 

 

 

 

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在野の視点から見ると中上健次もまるっきり違って読める

2016年09月17日 18時39分40秒 | 在野研究ごっこ

 

 

居住地のブックオフが移転して新規開店・・・・ありがたや、ありがたや




今日、中古本チェーンのブックオフが移転をして新しく開店したから、さっそく開店時間に行ってみた。そして買ったのが、この文庫本である。中上健次である。この「軽蔑」はまだ読んだことがなかったから、今日は朝からずっと読んでいた。

今日は孫がやってくるからと焦って読んでいた。まだ読了したわけではない。ないが、中上健次には相変わらず圧倒されている。

力強いのである。すべてが。

枯木灘にぶちのめされて、ボキは生きる意欲を持ち始めたからだ。中上健次の世界には、インテリのいいかげんな弱さというもんがないから好きなのである。たいしたもんである。中上健次がである。エリック・ホッファーのごときである。中上健次もエリック・ホッファーのことが大好きだったそうである。さもありなん。似たような世界を構築しているから。

つまり在野の人間だということである。

これである。これ。

Academicな世界とは無縁の人種というのがいるのである。

ボキもそうである。

肉体労働をしながら、小説を書いてきた中上健次も、エリック・ホッファーも、ボキも同じような体臭を持っているではないか。完全なプロレタリアである。ボキたちは。

しかも、猥雑さと人間の持つワルの部分というものが中上健次の世界にはある。誰だって持っているワルの部分である。争えない血というもの、あるいは欲望というもの、世間とか人間社会へのアレルギー、社会の底辺で生きているオノレという存在。全部ボキに当てはまる。

ニンゲンナンテ、そもそも救いようのない存在でしかない。悪党である。ワルの見本。

そうである。

誰だって、聖人君子ぶって、他者批判なんかできるわけがないっていうもんである。

オノレだけが、エラくて、聖人君子だってか・・・・・・・・そんなアホな。そんなことが言えるのは、ガッコのセンセくらいなもんじゃ。

わははっはははっはははっははっはは。

今日は孫がいる。

楽しみにしていたのじゃ。

連休だから来てくれたのである。

ありがたいもんじゃ。

さ、これからまた孫と一緒に遊ぶ。

そして、寝る。

早く寝てしまうのじゃ。

(^_^)。

 

Bye-bye!

 

 

 

 

 

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在野の宗教者からスタートしたのが空海ではなかったのかと思うと・・・楽しいではないか

2016年09月16日 11時22分45秒 | 在野研究ごっこ

 

ふと思った。在野にあって宗教研究をスタートしたのが空海ではなかったかと。

 

 

むろん、中国から帰ってきてからの、空海はとんでもないエリート街道まっしぐらの人生であったことは間違いがない。巨大宗教集団を構築したのも彼だったし、今なお日本における影響力は大きい。

高野山に行ってみても、巨大寺院と大学、高野山そのものを核とした行政組織まである。あるどころか、まさに生活の核である。宗教組織が。

ボキは信仰というものをモタナイから、好き勝手なことが言えるのであるが、ちょっとは注意しながら宗教関係のことは書いているつもりである。信仰をゆがんでとらえている可能性もあるからである。むろん、信徒の方々にはお叱りを受けるかもしれないとは思っている。いるけど、どうしても書かなくちゃならないときは、書く。

在野にあるという視点から、すべてのことを見直してしまったのである。エリック・ホッファーである。最近である。だからまたまたやることがたくさん出来てきた。

つまり、在野の立場から、これまでのささやかなボキの読書経歴を整理しているのである。つまり、なんかのためにする読書、なんかになりたいという欲望、ゴミ論文を排泄物のように書き続けていた還暦以後の無明時代を捨て去ってしまったからである。

嗤い話のようである。

ボキ如きが、論文を書いて学者や研究者のまねごとをして意味があるわけもない。最初からナカッタのである。それに気がついたのが、エリック・ホッファーとの出会いであった。

論文を書くために、還暦すぎて入学した大学院での勉強を最優先するために、あらゆる定年後の再就職のお誘いをお断りして、専念してきたのである。それが全部崩れてしまったのである。

だから、アルバイトでやっている塾のセンセも週にフタコマしかやっていないのである。昨日、塾の教室長にもっとやってくれませんかと言われて、目が覚めた。そうなのである。もう最優先事項が消えているのに、あいかわらず働かないジジイをやっているということである。それに気がついたのである。働かない最大の理由は健康問題にあったけど、どうやらそれはクリアーしたようだから。マジに。だったら、労働者として生きなくちゃアカンですな。ホッファーのようにだ。塾なんて、少しの拘束時間しかないではないか。拒否する理由がないっすねぇ。

ま、そんなことはどうでもいい。

それより、司馬遼太郎の「空海の風景」である。

司馬遼太郎も、また空海を信仰していたわけではないだろう。ただし、空海のことは好きだったに違いない。

だから、この「空海の風景」の文庫本はムチュウになって読んだ。傍線がたくさんひいてある。司馬遼太郎らしい視点から、書かれている。つまり足で稼ぐ書きっぷりである。実際に見て、それをご自分の中に取り入れて、ボキのような血迷っている大衆のためにわかりやすく書いてくださっている。

だから「風景」という文字が書名に入っているのである。

こういう書き方なら、信仰問題とは別に空海に興味関心を持ってもゆるされるだろうと思う。面白いから、面白い。空海さんに興味を持って、調べてみたいというのがである。

ちょっと空海に興味があるとなると、さっそく勧誘されてしまう可能性もあるだろうから。宗教が勧誘というシステムをとるのは、ある意味当然であろうから。でないと組織が維持できないだろうからである。キリスト教会も献金というシステムがなければ、存続はできないだろう。否、あらゆる宗教団体がそうである。寄付金から、献金から成り立っている。それが信仰者には喜びになるのだろう。

でもボキはそれがイヤなのである。カネとからんだ信仰というのはかなり疑問がある。ずっとそう思ってきたから、信仰がないのである。特定の宗教団体に属していないからである。

もうひとつここに紹介したNHKの「空海の風景を旅する」の本のように、もうちょっと気楽に空海に接してみたいのである。信仰がないからである。信仰がないのだから、空海に関わる土地を旅しても許されるだろうと思う。

気楽な旅行者の視点である。

今年イタリアに行って、キリストを信仰していないのに、壮大な教会にも出入りしてみた。まるっきりの旅行者の視点である。バイブルもあちこちと読みあさったから、いろいろ知っていたのであるが、それでも単なる旅行者でしかなかった。

それでいい。それで。

ただの大衆である。ボキは。

死ぬまでボキはこうやって血迷っているのであろう。

つまらない一生だったのかもしれない。

真面目に信仰を求めてきたわけではないからである。

救われないんだろうなぁと思う。

それでも仕方なし。

それでもボキは死ぬまでは生きているんじゃから。

 

Bye-bye!

 

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字が小さい方(挿絵もなくて)がゆっくり読めるというもんじゃなぁ。

2016年09月15日 07時21分43秒 | 在野研究ごっこ

 

モンテーニュ「随想録」をヤフオクで入手せり。これをゆっくり読むことにしているのだが

 

 

昨日ヤフーオークションで入手したこの本を郵便局に取りに行った。自宅に配達していただいたのであるが、あいにくボキはwalkingに出かけていた。いなかったのである。だから、電話して取りに行った。

さっそく、色鉛筆を片手に塗り始めた(^_^)。

つまり、読み始めた。

最初の頁からではない。

そんなことをしていたら、このぶ厚い本を読むことは不可能である。ボキのようなジジイはとくにそうである。やる気が失せるというもんじゃ。

だから、好き勝手に彼方此方と頁をめくっているのである。

辞書的に、あるいはバイブル的にである。

あ、バイブルはそうでもなかったな。最初から読み始めた。特に、遠距離通勤していた時代はそうだった。いろいろなバイブルを持っていたから、楽しかったよん。

モンテーニュもそうですなぁ。

可能な限りゆっくり読んでいきたい。事実、やっているけど。

それが老いたるものの心構えである。

そして、老境を慈しみたい。

大事な時間帯である。

そうである。これから死んでいくのであるから。だから過ぎていく時間が惜しいのである。つまり、生涯学習ごっこから本格的に生涯学習に進展していきたい。大学を出るとか、学位をとるとかいうレベルにはもうない。最初からない。当たり前である。能力もないからである。なんにもないではないか。ボキには。ゼニもなければ、カミの毛もない。

わははっははははっははっはは。

それに、徒然草である。

これとの対比をしながら、老年期を過ごしていきたい。

ボキが自分勝手に師匠と呼ばせていただいているM先生の著書がこれである。全巻持っている。中世古典文学では、日本を代表する学者である。

この文庫本もしみじみ味わいながら、モンテーニュも読みながら、老境を慈しみたい。

それこそ自分勝手にである。

やりたいようにやればいいだけである。

だって、もう時間が残されていないからである。

最後は死ぬだけなのだから。

100%。

わはははっははっはは。

笑っている場合ではないけれども。

 

Bye-bye!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

タイトルコード 1000000398880
書誌種別 図書
書名 世界の大思想 5
書名ヨミ セカイ ノ ダイシソウ
各巻書名 モンテーニュ
版表示 新装版
言語区分 日本語
出版地 東京
出版者 河出書房新社
出版年月 1982
本体価格 ¥1500
数量 521p
大きさ 20cm
分類記号 080

 

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若者には未来があるが、老人には過去しかない・・「老境を慈しむ」の心境は尊いものだった

2016年09月14日 14時21分35秒 | 在野研究ごっこ

 

岩田誠一著 「老境を慈しむ モンテーニュと徒然草の老年観」 浪速社 

 

 

上記の書籍をずっと読んでいた。朝からである。朝も歩いて、お昼ちょっと前にも歩いたけど。合計で7000歩である。そして、家にすっとんで帰ってまたこの本を広げて読んでいた。

身につまされるからである。

最近、エリック・ホッファーから学んだことであるが、モンテーニュを読んでいるからである。

それに、徒然草もである。徒然草の方は、M先生が碩学として著名である。そうなのである。中退した某大学大学院で3年間ご指導をいただいたからである。もっとも、ボキ如き、学業劣等・不健康爺では師匠と呼ばせていただくわけにはいかない。いかないが、来月10月の7日から生涯学習講座で徒然草の公開講座を拝聴させていただくから(全12回ちなみに有料)、こっちの方も楽しみにしている。でも、その徒然草とモンテーニュが比較研究の対象になっているとは、知らなかった。

したがって、今朝からずっとこの上記の本を熟読して、ノートをとっていた。だから、拙ブログのアップが遅くなったのだが。

ま、そんなことはどうでもいい。

県立図書館から借りてきた本だから、直接メモができない。

Amazonから買いたいなぁと思った本になってしまった。しかし、今月はちと厳しい。たくさん今月も買いすぎたからである。

来月回しにしようと思う。

でも、それでもこの本が欲しくなってしまった。

そうなのだ。

まさに、ボキのことを書いているからである。

老年をどう受け止めるかということが書かれているからである。

午前中、古女房ドノが不在であったから、ずっと読んでいた。それこそ真剣に読んでいた。

あ、ここにも、あそこにもボキのことが書かれている、ああああああああ、(*_*) マイッタとつぶやきながら読んでいた。

家に誰もいないからいいようなものの、他人が聞いていたら、アホカイナと笑われてしまうだろう。

それほど、身につまされるのである。

なにがというと、老人は老人なりに確かに未来はなくなっていくし、時間も余裕がなくなっていく。確かにそうである。

しかしである。

それはそれなりに、人為的に修正も効くのである。あくまでも人為的である。自然のままに放っておいたら、そりゃダンダンとジジイになってそれで終わりである。あくまでも人為的に、そこにオノレの意志を介在させて修正をしていくことである。

モンテーニュ研究者の関根秀雄先生も言われるように、「諦念の気品」というものを持ちたいものである。年取ったからと言って哀しい諦念を持つのでは無くて、晴れやかな受諾を持つべきであろうとボキも思う。

受諾である。受け入れるのである。反逆しているのではない。今更である。今更、アンチエイジングを気取って、アデランスをかぶったり、モテようとしてみっともない服装をしたり、酒場に出入りしたりしてなんになろうぞ!

そう思うのである。

モンテーニュも、徒然草もそれなりの年輪がないとなかなか理解できないものであったと、しみじみ思う。

速読主義では歯が立たない古典である。両者とも。論文を書くために読むような本ではナイ。マジにそう思う。

生き方と直結しているのである。

これまでの生き方もそうであるし、これからもそうである。

「私の技術は生きることであった。生きるとは吟味することである」というモンテーニュの文章は、まさに「吟味」できるような社会的経験を踏んできたから書くことができる文章である。

またまた良書を示唆していただいたものである。

これから、郵便局にヤフーオークションで買ったモンテーニュの本を受け取りに行く。歩いていて、行き違いになったからである。

それからgymに行ってくる。

現在7000歩であるから、あと少しである。

まさに受諾の人生でありますなぁ~~~。

Bye-bye!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

タイトルコード 1000000146743
書誌種別 図書
書名 老境を慈しむ 
書名ヨミ ロウキョウ オ イツクシム
  モンテーニュと徒然草の老年観
言語区分 日本語
著者名 岩田 誠一/著
著者名ヨミ イワタ セイイチ
出版地 大阪
出版者 浪速社
出版年月 2006.5
本体価格 ¥2500
ISBN 4-88854-427-1
数量 301p
大きさ 20cm
分類記号 367.7
件名 高齢者   随想録   徒然草
個人件名 Montaigne,Michel Eyquem de
内容紹介 老年期の心構えを軸に、「エセー」と「徒然草」の中の珠玉のような言葉を拾い出し、老境の考察に応じた項目に整理して解釈を加える。「甲南カルチャーセンター」ほかでの読書会に使用したレジメをもとに書籍化。
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生涯学習ごっこで大学院に通っていたけど、そこで生活するためのボキの15の自戒

2016年09月12日 08時18分20秒 | 在野研究ごっこ

大学院生活を送る上での注意点というのがあるんだけど、これって在野でゴミ論文書いている場合も該当するかも(^_^)

 

 

1 常に最悪に備えよ

大きな悲劇が大学院には待っているかも知れない。研究がうまくいかなかったり、指導される先生と人間関係が破綻したり、いろいろある。ボキのように病気になるのもいるからである。

2 誰もあなたのことなんか気にかけない

学生を気にかける教授もいればそうでないのもいる。でもたいていは気にかけないのだと思っていること。

(1)早い時期に自分の課題に自分で責任をもつ。

(2)誰かの助力が欲しければ、その人のところに行くこと。待っていたらアカン。

3 自分の研究がなぜ重要なのか分かっていないといけない

4 常に自分で「今何をしているのか」を問いながら、忍耐強く続けること。

5 心を鍛えることが最大の防御

(1)    博士の学位には通過儀礼のような性質があり、「よい」博士論文とはなにかを自分で決めないといけない。論文はいくらでもよくすることができるので、可能な限りの修正をするとすれば、それを永遠にやり続けることになる。

6 自分を卑下することからは何も生まれない。

7 大学院は、自分を成長させるための道具のひとつに過ぎない。より良い状況があれば、しばらく大学院を離れるということもあり得る。そうする三つの理由がある。

(1)    まず、あなたが大学院でできるどんなことよりもずっと実りとやりがいがあり、大学院を中断しないといけないほど時間がかかることへ挑戦するチャンスがめぐってくることがある

(2)    次に、いつでも中断できると考えることで、大学院生として本当に独立した個人でいられる。大学院だけがすべてだと考えてしまうと、精神的に不安定になったり、やや絶望的になったり、不安になったりして、ベストを尽くせなくなってしまうことが起りうる。

(3)   最後に、物事が本当にうまくいかなくなったとき、大学院にとどまっていると、ただ自分を傷つけ他人の能力を否定することになる。

8 考えることを学ぶためには、二つのことが必要である。一つは長い時間であり、もう一つは、自分よりもしっかり考えることのできる人とできるだけ一対一で話し合うことである。

9 その年に考えたことや読んだことをまとめることで、自分がなにかを成し遂げたということを実感できる。ゴミ論文もけっこう有効である。

10 自分が時間を有意義に使ったことを具体的に示すことで、自分が自立できていることを示せる。

11 他人に助けてもらえるようになる。

12 研究計画書を書く練習になる。研究者はみな計画書を書いている。

(1)質問あるいは仮説の形で、研究目的を短く示す。

(2)なぜそれが重要なのか、研究分野の全体的な体系のどの部分に当たるのかを記述する。

(3)計画を具体化するような文献のレビュー

(4)課題を、一連の小さな課題として記述する。それぞれのステージで、対立仮説を棄却するための実験、観察、分析を計画する。それを整理して、小さく分解する。大きな課題を、一連の小さな課題にすることで、常に次に何をすべきかが分かり、仕事を始めるときのエネルギーも低くできる。

13 全体の計画を台無しにするような起りうる重大な問題をリストアップせよ。そしてそれが実際に起ったとき、次にすべきこともリストアップせよ。

14 二つか三つの計画を立てておいて、同時に始めてみて、どれが最も成功する見込みが高いかを見てみるのは悪いことではない。

15 結果を発表する日を決めて、そこから逆算してスケジュールを立て、どのように時間を使うか決める。

結論

大学院は、ボキ自身を読む人から、書く人に変える機会を提供する。これは実に大きな変化だ。もちろん、それは機会であるばかりではなく、挑戦でもある。

 

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「安息日の前に」・・・・今、ボキは安息日だらけである(^0^)

2016年09月11日 11時03分41秒 | 在野研究ごっこ

モンテーニュの言葉に下記のようなものがある。

>「自分を実際より低く言うことは馬鹿であって、謙遜ではない。実力以下で満足するのは、アリストテレスによれば、怯懦であり小心である」(モンテーニュ)

しかしである。

ボキのように自分を低く言うことがあっても(それはしばしばである)、実際にこれ以上落ちようがナイくらいレベルが低くて、どうしようもないという場合にはどうすんのかと思った。そもそもバカはバカである。ボキが良い例である。謙遜して言っているのではない。しみじみそう思う。大いなる自己否定からきているのだ。マジに。

逆に言えば、だからこそ勉強しているのである。自分勝手に。家計を顧みずに。年金生活だから、貧乏である。ゴルフもやれないし、やったこともない。いかがわしい酒場にも行かない。行くカネがないし、第一ボキはアルコールと香水のにおいをかぐと卒倒してしまうようになったからである。どーも嘘くさいとかってのボキを知っている方々はそうのたもう。むろん否定はしない。社会の裏も表も熟知してきたからである。素直じゃないしねぇ。ひねくれているし。

そういうわけである(なにがそういうわけかよくわからないけど)。

で、エリック・ホッファーのこの本である。「安息日の前に」である。なかなかである。相変わらずである。

またまた大図書館で読んでいる。

そしてパソコンで感想を打ち込みながら、息をしている。

なぜこれほどまでに、エリック・ホッファーのことが気になるのだろうか。それは彼が、沖仲仕の哲学者であるからだ。

言わば肉体派である。

肉体派女優の話ではない。

正真正銘、彼は肉体労働者であり、静かな哲人でもある。書斎派ではない。インテリでもないのにインテリを気取るバカでもない。決して、庶民をアホ扱いしない人である。

この写真の机上にあるのは、カードホルダーらしきもの、ルーズリーフノートらしきもの、普通のノート等々が見えている。たぶんそうだろうと思っているんだが。

1974年~の日記が核となっているのが、「安息日の前に」である。そうなのだ。書名どおり、彼はこの書籍が生前最後の出版になった。残念だが。

しかし、実に楽しい。老いを自覚したエリック・ホッファーが、老いても判断力だけは衰えていないということから始まっている日記である。記憶力はあやしいとも書いてある。素直である。いい加減な自称インテリとは違っている。

読ませる。

一気に引き込まれる。

文章力である。

話題は多岐にわたる。当然である。完全な日記であるからだ。論文ではないからである。その一つ一つを取り上げて、拙ブログで紹介するような愚はやらない。そうである。ボキそのものが愚であるからだ。

しかし、それでも印象に残った記事がある。1975年5月16日の日記である。アメリカという国が多くの社会的不適応者が建国したという部分である。これは、これは。言われればそうである。革命の連続でもって建国した国々もそうであろう。欧州、中国、その他もろもろ。

印象的な文章もある。それは、資本主義は非知識人が創始して、共産主義は知識人が作ったものという指摘である。なるほどである。

物事の本質をついている。

こういう目を持ちたいものである。

ボキは、所詮最低の人間であるけれども、考え方においては自由自在に生きていきたいからである。

今日はモンテーニュの随想録が来る。Amazonからローソンに送られてくるだろう。モンテーニュ全集の本である。タノシミにしている。来たら、12色の色鉛筆でカラフルにするつもりである。

読んで読んでボロボロにするつもりである。

昨日も千葉市にいたので、往復運転していったから疲れてしまった。

で、昨日はよく寝た。

まだ昼寝をしていないのである。だからよく寝たのだ。

午後からはGymに行く。

昨日は7000歩くらいしか歩いていないので。

今日は、11:49の段階で4356歩。

順調である。

密かにある論文書きにもチャレンジし始めたけど。こっちはまだまだ秘密。

(^0^)

 

bye-bye!

 

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生涯学習必携本じゃなぁ・・・・・・フフフ

2016年09月10日 07時11分38秒 | 在野研究ごっこ

勉強なんか勝手にやれ。やってやってやりまくれ

 

 

今日も大都会千葉市に九十九里浜からエンヤドット、エンヤドットと舟をこいで(?)行くのだが、昨日は千葉市のブックオフでモンテーニュの「随想録」を買うことができなかった。置いていなかったからだ。で、今朝Amazonに発注した。古本である。モンテーニュ全集のである。送料込みで992円であった。明日の日曜日にいつも使っているローソンに来る予定。楽しみである。これで図書館から借りていたのが、ボキのものになる。書き込み自由である。我が本になる。

実は文庫本では持っていたのである。計五冊。しかし、シロアリにやられた。だから泣く泣く捨てたのである。先月。

ちなみに、シロアリ業者はよくよく選んた方がいい。よけいなものまで売りつけるから。ボキは、茅屋の施工業者に頼んだ。一番信頼がおけるから。

ま、そんなことはどうでもいい。

モンテーニュである。モンテーニュ。

エリック・ホッファーを教えていただいた荒木優太氏の本から、モンテーニュの本はただ単なる知識の手段本ではないということを知った。生涯学習の必携本でもあると今更ながら思った。

荒木氏の「これからのエリック・ホッファーのために 在野研究者の生と心得」(東京書籍)は、エリック・ホッファーもそうだったが、モンテーニュをどう読むかということでも必携である。生涯学習者であるのなら、そういう意味でも必携本である。

在野でけっこう。ネコ灰だらけである(^_^)。

荒木優太氏の同書の帯に「勉強なんか勝手にやれ。やってやってやりまくれ」とあるのは、先日の拙ブログでも紹介した。まさにこれである。勝手にやっているから生涯学習なんである。それでいいではないか。

誰のためでもない。

勝手にやっているんだから、遠慮は無用。古女房ドノには要注意であるが(^_^)。

そして、「やってやってやりまくれ」である。それを徹底していくべきである。

なんでもいい。対象は。「奥の細道原付バイク紀行」でもいい(これ・・今のところ一番やってみたいことであるが)。誰かのためにやっているんではないからである。自分のためである。趣味である。楽しいからやっているだけである。

文句をつけられても、ムシ・ムシ。

どーせ死ぬのだ。ボキも、アータも。死ぬまでの間である。死ぬまで複雑な人間関係に翻弄されて、あーだ・こーだとくだらない他者評価にふりまわされたくない。信頼できる一握りの友人と、本があればそれで結構である。

だからボキはシアワセだと思うのである。複雑な人間関係もくだらない他者評価もねぇのだ。だれにも評価されていないし、だからこそこんなトイレの落書きみたいなつまらねぇブログをやっていられるのだ。

しかも、最も大事なことだが、友人と本には恵まれているからである。

昨日行った植草学園大学での公開講座では、おおいに笑ってきた。

尊敬する安藤則夫教授である。年取ってからの生き方を教えていただいてきた。

「ユーモアの勧め 金をかけずに人生を楽しもう」という演題である。二時間があっという間に過ぎた。

笑いとユーモアはクスリ要らずである。

まさに、ボキはそれを実践しているではないか。

 

わはははっはははっはははははっははっははははっは。

 

今日も千葉市に行く。これからである。郷土史の関係である。千葉市民会館である。大学教授の講演がある。楽しみである。ボキは事務局員だから、その準備で早く出かけるけど。

終わってから古文書講座もある。夕方5時まで。

まさに「勉強なんか勝手にやれ。やってやってやりまくれ」を実践してますなぁ~~~~~。

 

Bye-bye!

 

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楽天的で、読書熱心。ホッファーのようなおじーぃちゃんはどこにでもいるけど。

2016年09月08日 09時42分57秒 | 在野研究ごっこ

この写真は有名なホッファーの図書館での読書スタイルである。



なかなか素敵である。

こういふおじーぃちゃんはどこにでもいる。ボキの足繁く通っている県立図書館でも数多くいる。定年後なにもすることがなくて、図書館に居眠りをしに来ている方も多い。視聴覚コーナーなんか大勢いる。ヘッドフォンをつけて、そして、居眠りをしているのだ。心地よい音楽でも聴いていたら、そりゃ眠っちまうですな。マジに。

ボキも時々やっているからで、他人のこたぁなんも言えねぇですよん。

でも、ホッファーのように生きていきたい。

そう思ったら作家の中上健次も、同じ事を書いていた。

「ホッファーのように生きつづけたい」って。

さらに、

「モンテーニュのような普通の人間の普通の声を、文章で読みたい」とあったのだ。

確かに、ホッファーのような人間は世の中にいっぱいいる。ホッファーは、まず生きているし、働いているからである。こいつは本当である。働いている人間ばかりである。世の中は。あたりめぇである。収入がないと喰っていけないからである。

その点が、一部の自称インテリとは違うのである。

ボキもインテリではないから、働いてきた。辛くて激しい肉体労働の結果、今の年金生活がある。学部時代の新聞配達は、ホッファーのやった沖仲仕よりも辛かったではないか。経験上。それからずっと柔道を指導してきたけど。柔道もおおいなる肉体労働の結果である。しかし、4段でしかない(^_^)。定年後は、細々とバイトをやりながら、書籍購入に充てている。それが唯一の楽しみであるからだ。バイトの方ではナイ。書籍購入の方である。

バイトも永続性はない。いつでもクビを切られる。それが非正規雇用の悲しさである。仕方がない。こっちもいつまでも続けているわけにもいかない。雇用条件が違ってきたら、まっさきに馘首である。

だからなんにもあわてることはない。

そもそもが年金で生きているのだから、それなりに暮らしていけばいいだけである。そして、図書館で好きな本をたくさん読み、ノートにメモして、駄文を書いていく。これしかできないのである。

昨日、中退した某大学大学院の師匠(ボキだけそう思っているんだけれども)から、在学中に執筆した論文リストを知らせてほしいとあったので、お送りした。それで気がついたのだが、なんと11本ある。

目標の50本執筆まであと39本。

わははっはははっははっはははっははっはは。

目標は近い。

毎年、3本書いたとして、あと13年。

まだまだくたばるわけにはいかないようですなぁ~~~~。

査読に落ちたら、拙ブログにアップしちまえばいいだけである。

それしかない。

ハラを括って生きていくことですな。

9:38である。

今朝からかなり歩いている。

起きてすぐに、3000歩。

今、トイレのウオッシュレットの電池を買ってきたけど、コンビニまで歩いたら6000歩を超した。

今日のgymでは、卓球の世界大会予選というのがあって、4日間ほどランニングコースが使えないから歩いたのである。

夜は塾のバイトがあるし、うかうかしていられないのである。

健康学もまたボキのテーマであるから。

 

Bye-bye!

 

 

 

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図書館で読書するエリック・ホッファーに学ぶ・・・独学でもやっている人はやっているのだ

2016年09月07日 06時28分48秒 | 在野研究ごっこ

沖仲仕をしながら、独学の哲学者になったエリック・ホッファーの図書館でのワンシーンである。

 

 

こういうのがいい。実にいい。彼はしかも、片手にノートとペンを持っている。メモもしながらである。

それにしても大きな図書館である。ボキが昨日行っていた県立図書館も大きいが、問題はこういう学習スタイルをとっているということである。まさに、生涯学習そのものである。

やる人はやっているのである。

そのことにボキはショックを受けたのだ。そうなのである。ボキはやっていないからである。某大学大学院を中退してから、なんにも論文らしきものを書いていない。書いてもいないけど、ロクなものを読んでいない。素人レベルの古文書程度である。ファンタジーとか、京極夏彦とか、若干の推理小説とか、民俗学の基本書、浄土真宗の経典等々でしかない。本格的な読書をやっていない。まったく雑読である。雑読。

言い訳すると、じっとして読書をしているとまたまたエコノミークラス症候群になるからである。

だからこの一年半は、健康学をマスターすべく、いろいろと実践していたのである。健康学も生涯学習だとボキは思っているのだけれども。ま、それも治療のかいあって、数値的には落ち着いてきた。呑まなくてもいいクスリも出てきた。安心・油断はしていないけれども。アルコールもヤメタし。なにしろ体重管理も病気になる前とは、格段の差でもって自分で自分を管理しているのである。人間ここまで変わるものかと、びっくりしているのだ。

しかし、読書体験に絞って考えると、方向性を間違えたと言わざるを得ない。独学に近くなっているからである。独学というより、メチャクチャになっている。エリック・ホッファーのような天才とは違うからである。そのことははっきりわきまえないとアカン。しかしながら、今更大学等々に復帰するわけにもいかない。一旦退学した以上なにを血迷うているのだろうと思うからである。退学したのであるから、それに徹することである。

一度決心したことは曲げちゃいけない。

独学でも、立派に在野でもって学び続けたエリック・ホッファーのような先人がいるではないか。マジにそう思う。

今日は、これから古文書講座に行って、それから午後は老人大学。夜は、中国語講座である。

いろいろと行くところがあって楽しいもんじゃ。

老後の楽しみである。楽しみ。

それだけだが。。。。。。

 

わははっははっははっははっはははっは。

 

Bye-bye!

 

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在野で徹底することがボキの意識の中になかったからである。それまで迷っていたのは。

2016年09月06日 08時32分15秒 | 在野研究ごっこ

(沖仲仕のエリック・ホッファー 仕事の合間に読書をする)

 

ボキは社会的不適応者だったのかも知れないと、エリック・ホッファーに気づかされた


 

 

エリック・ホッファーに関して、立花隆さんのコメントがあって、はっとなった。

>めっぽう面白い。彼の人生そのものが、これほど数奇な人生があろうかと思わせるほどに波乱に富んでいるが、それ以上に面白いのが、彼がいろんなところで出会った、数々の特異な社会的不適応者たちの語る自分の人生である。    

                       立花 隆

核心をついている。「数々の特異な社会的不適応者たちの語る自分の人生である」の部分である。

こいつはボキにも当てはまるからである。エリック・ホッファーその人もまさに社会的不適応者ではなかったのか。そう思う。沖仲仕をやりながらの読書体験というのは、なかなかできない。こういう特異体験こそが、孤独を招来し、自己を鍛えるというものである。

彼には、他者依存がない。

エリック・ホッファーその人も孤独であったし、家庭的な幸福というものを求めなかった人なんだろうと思っている。今のところは。まだ全貌をつかんだわけではないから。これからエリック・ホッファーのように大図書館に通って、彼のことを調べるつもりだから。

しかしである。しかし、彼のような姿勢は非常にこころ惹かれる。

他人のせいにしないからである。

組織とか、会社とか、大学とか、学会とかのせいにしない。

静かにオノレを見つめているのだろう。

つまらない計算がない。打算がない。陰湿に裏でうまく立ち回って、結果として出世しようとか、ゼニ儲けしようというようなモンがない。

こういう生き方は他人をうらやむようなこともないのだろう。嫉妬心もないのだろう。

同級生が出世していってもこころ穏やかにしていられるという心境である。

ボキは、正反対であった。今もそうかもしれない。高校の同窓会に行きたくなかったというのが、それを物語る。ボキの高校は、いわゆる地方の進学校である。だから、同級生で功成り名を遂げた同級生がたくさんいる。医者も多い。大学教授もかなりいる。有名な俳人までいる。

ボキはただの田舎教師で終わった男である。だから同窓会に行くと惨めになると思っていたのである。つい最近までは。

退学した某大学大学院もそう。病気になってしまったから、退学したのであるが、どうにもこうにも二度と行きたくないと思っていた。それが変化してしまった。その退学した某大学生涯学習センターから、公開講座の案内をいただいたのである。

その案内に指導していただいた教授の徒然草の講座が載っていたのである。全12回。

エリック・ホッファーとの出会いがなければ、その講座にも申し込まなかったに違いない。

ところが、ボキは申し込んでしまった。

ふっきれたからである。

在野の研究者でありたい、エリック・ホッファーのように沖仲仕の哲学者とまでは言わないが(なれるわけもないけど)、ある意味目標ができたと思ったからである。

在野で徹底することがボキの意識の中になかったからである。それまで迷っていたのは。

ある意味、生涯学習でもって博士になりたいというのがそもそも不遜であったのだ。大間違いの元である。元凶といういうやつである。

そんな学位を取得したいというような野望よりも、論文を50本書いてみるくらいの徹底した追求心がなければ学位を取得してはならないとしみじみ思ったからである。

「数々の特異な社会的不適応者たちの語る自分の人生である」という立花隆氏の表現は、まさにボキ自身のことである。社会的不適応を起こしていたからこそ、ボキは生涯学習ごっこにのめり込んで行ったのであろうし、素人なのに、郷土史とか古文書とかに興味を持ってしまったのであろう(どっちも低レベルだが)。そう思う。

そもそも、大学学部時代もそうだった。労働をしながら大学に通ったのである。新聞配達である。朝、2時30分から起きて、朝刊を配り、夕刊もあり、集金もあった。これはある意味、沖仲仕よりもきつかった。朝刊と夕刊の間に、金持ちで遊び人の大学学部のクラスメイトたちと一緒に勉強していたのである。

つまり労働をしていたのだから、エリック・ホッファーのいうようにボキは大衆であって、知識人ではなかったのである。それが今でも続いているってぇわけだ。

そうなのである。大衆なのである。ボキは。迷いっぱなしの。

なんだか吹っ切れたねぇ~~~。

だから退学した某大学にも堂々と生涯学習センターに行けるというもんじゃ。

ご指導いただいた先生とも、わだかまりなくお会いすることができる。

吹っ切れたからである。

楽しみで勉強できるからである。

ついでに、中国語講座も申し込んだが。

こっちもお笑い草である。

ものにならないからである。

それでよし、それで。

迷える大衆の喜びなんだから。

 

わははっははっはははっははっはははは。

 

さ、今日は大図書館に100頁もあるノートを一冊持って、読書じゃ、読書。

 

Bye-bye!

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/