「老人になれば誰も単純で気短になる。」
吉川英治の言葉である。
愚生は、これを戒めとしている。毎日毎日腹を立てないで、生きていこうと思っている。波穏やかに、日々平安に過ごしたいものである。健康を害するほど仕事をするという場面も全くなくなってしまった。命を賭けてやることがないからである。こんな日本という国で定年退職をさせていただいたことに感謝である。
第二の人生なんてやれる国は、世界にそんなにあるわけではない。日本は実に恵まれているというわけだ。確かにそうであろう。
だからといって、コンビニやマクドナルドあたりで、若い店員さんを怒鳴りつけているってぇのはいかがなもんかと思う。あるいは、会社や銀行の受付のじょせーに偉そうにまるで下僕にでも物を言っているようなクチのききかたをする御仁がいる。
若い人でも手のひら返したように、そういう言葉を使うのがいるが、自分の程度の低さを自分で言っているようなもので、いただけない。あっち向いて敬語を使い、こっち向いてタメ口をきくって器用なことは、オロカナル愚生にはできないねぇ。まったく。まるで百面相ではないか、あれじゃぁ。いくつ顔があるんだかねぇ。
アタシャ、自分より年が若いからと言ってタメ口をきいたりしない。いつも敬語だ。年齢は関係ナイ。愚生と話をして、常体でクチを聞いたら、それは愚生がよほどこころを許した人間であるということの証である。
(^▽^)
脇道にそれた。
つまり言いたいことは、「すぐにキレてはならん」ということである。
コンビニあたりで、キレて、しつこく文句を言っているようではこの先短いと自戒すべきである。てめぇのバカさかげんを自覚すべきである。言えばわかるではないかとのたもう御仁もいる。そんなんで世間のトラブルが解決できるんだったら、トラブルは存在しない。
言ってもわからんのがたくさんいるから、問題が起きるのである。そういう意味では、愚生は悲観論者である。期待しない方がよろしい。むしろ用意周到に、相手を観察していたほうが面白い。こうやったら、ああ言ったら相手はこんな反応をしたということの方が楽しい。ノートにでもつけておくと、「ブログのいいネタ帳」にもなる。(これ、ホントにやっていたんです)
だから、キレて周囲に文句を言ってみたって、あんたはただのじじぃではないか。以前どんな仕事をしていたかなんて、誰も興味も関心もないのである。
以前の仕事をまだ抱えているんだろうなぁ。そういうヒトって。偉そうに。
老人になったからと言って、あまり物事を単純化しないほうがよろしい。相手の言っていることを、論理的に分析なさった方がもっといい。ふむふむと聞いていて、実は相手のアタマの程度を考えていると楽しい、楽しい。いわゆるお里が知れるというやつである。世間的にどんなにエライポジュションにいても、チョロチョロとそういうのが現れる人が必ずいるからである。
へぇ~~~~~と感じる場面もたくさんあるからである。
こんな立派な人が、そうなのかってことも多いからである。
じゃ、おめぇはどうなんだい?ってことになると、オレなんかスタートラインが最低から出ているからナンモ気にしない、気にならないんである。
ある意味、気楽症候群とでも言うのかなぁと思うことにしている。そもそもそんなモンだし。
それにキレることも無いからである。
そんなヒマがあったら、図書館で雑書でも読んでいたほうがよろしい。
昨日も、県立図書館で5冊古典の研究書を借りてきたし。今日大学に持っていって、またカードとりである。
あ、午後から修士論文の発表会があったっけ。院生は全員参加のことって書いてあったなぁ。ワスレテいましたよん。師匠に叱られるな。
今日は師匠の講義の日。楽しみである。たった1人の同級生と一緒に受けているから、厳しいものがあるけど。
それでも楽しみである。