と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

生涯学習ごっこで勘違いをしてしまったことのトップは・・・トホホ

2016年06月21日 21時55分15秒 | 生涯学習ごっこで勘違い

学ぶこと・・・・を検索すると

 

 

「***に学ぶ***」という検索語で試しにGoogleでやってみた。いくらでも出てくる。こんなにもボキ達は学ぶことが大好きなんですなぁ・・・。すばらしい。でもそれを活かす場面はどれくらいあるのかねぇとも思う。学びすぎて死蔵してしまってもしょうがないから。

ボキは学んでいないから、そんな死蔵なんて不安はないけど。まずはチャレンジしていくしかないから。

わはははっははははっははははは。

 

↓ いくらでも出てきますよ。「***に学ぶ***」の結果は。



マンガ『MAJOR』に学ぶ、『努力』という言葉の定義――大事なことは全部

シャーロック・ホームズの思考術に学ぶこと

禅に学ぶくらしの整え方 (オレンジページムック) | 吉村昇洋 

スタッフ全員逃亡。牛たん「ねぎし」の失敗に学ぶ、お金より大切なもの 

自転車の街・コペンハーゲンに学ぶ、みんなが快適になる取組み。 

「ほぼ日」に学ぶ、個の生かし方と組織のスケール 

女は40歳からがもっとも美しい。フランス、イタリアに学ぶ結婚しない生き方 

ケースに学ぶ|メンタルヘルス|厚生労働省 

舛添氏を反面教師に学ぶ「謝罪も伝え方が9割」 - ダイヤモンド・オンライン 

エンジニア版“しくじり先生”に学ぶ、失敗を糧に成長する人、しない人 ... 

マグロ漁船に学ぶ イライラしない職場の作り方 |働き方・社会貢献 

成功者に学ぶ 心をつかむ言葉術 

伝説のイノベーター、W・ディズニーとS・ジョブズに学ぶ5つの教訓 

漫画『キングダム』のビジネス書に学ぶ「現代」という乱世のリーダーシップ論



※これ以上はコピーいたしません。

 

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勉強も結婚も長続きしてこそである

2016年01月15日 08時37分28秒 | 生涯学習ごっこで勘違い

長続きすることのポイントは、デカルトに通じるかも

 

 

勉強というのは、長続きしてこそ勉強である。まったくそう思う。厭きたら捨てる、やらない、もう金輪際こんなのやるかと怒ってばかりいたら、おしまいである。

ちなみに、結婚生活と一緒である。

わははははっははっはははっはははっはは。

自戒して書いているんだが。

まったく、まったく。

もっともアレか。

結婚をしたことがない人にはわからないか。つまり、長続きしてこそ・・・というのがキーワードである。これである。これ。

さっきまで、NHKのラジオ英語講座を二本聞いていたから、そんなことを書きたくなったのだよーん。

マジに。

それを録音しながら聞いていたから、長続きもしているんだけど。録音している以上、また聞く。つまり、身の回りから離さないことである。ICレコーダーというのがあるからである。これがテレビ講座だと、持ち運びができない。だからいつでも身の回りにあるわけではない。

しかし、最近はKindleで実現可能になっているから、テレビの録画も楽しんでいるけど。

でも、映像はよくない。見入ってしまうからである。つまり「ながら視聴」ができない。それ一本になってしまうからだ。

こいつは二宮尊徳のような「ながら読書」の精神に反する。

毎日、毎日どうでもいいようなことばかり書いているなぁ。

他にやることもないからだが。

まったくまったく。

まだ社会に対して、興味があるからいいのか。これで。なんにも興味がなくなってしまったら、惚けるな。惚ける。

考えているというのでもない。さりとて感覚でもって書いているのでもない。さらに、見たままを書いているわけでもない。

もっともデカルトは、感覚も信用していないし、考えの方も信用していない。むしろ、入力よりも出力の方を信用している。「自分が考えている」という意識が最後に残ったというのが、正解であろう。

デカルトは、①なにかを考える、②考えることを意識する、③そこに実在感が生じる・・・という三題噺を主張したのだ。

それが惚け防止になるのだ。

プラス「わかった」という快感である。

わかったという経験は、さらに繰り返しを要求してくる。自分にである。だから、勉強するのである。わかったという快感をもう一度味わいたいからである。またまた同じ経験をしたくなるわけである。これが、学問と発見につながるのである。だから、学者という商売がなくならないのだ。

学者にはとうていなれそうもなかったが、こういう思考システムはわかるような気がする。

惚け防止のシステムというのも、これである。これ。

今日も天気がいい。

散歩日和である。

図書館にも行く。

Gymにも行く。

ヨルバイトにも行く。

塾である。

楽しみである。楽しみ。

他人にはどうでもいいことであろうけど。

私のことであるから。

じゃぁねぇ。

Bye-bye

 

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あらゆる機会が生涯学習であって

2016年01月06日 07時25分19秒 | 生涯学習ごっこで勘違い

今日は、午前中古文書講座に行く。むろん教えてもらいにいく。生徒だからである。だいぶ読めるようになってきたし、学習法が確立してきたからでもある。

 

 

専門のホンばかり読んでいると、基地外になっちまう。

あまり専門のホンも所有していないし、専門と言ってもなにが専門で、どれが専門以外であるかとなるとだいぶ怪しいから、そんなことは言わない。

そんなことよりも、楽しく読書していればいいのである。

木村治美センセの「自分をつくる生涯学習」という著書にも書いてあるが、生涯学習はなにも範囲を限定して考える必要はないのであって、気負うとろくなことはない。

あらゆる機会が生涯学習であって、なにも通信教育で大学に入って勉強することだけが生涯学習ではないからである。

カルチャーセンターでもいいではないか。

気負ったらアカン。

そういう意味で、専門書を読み、メモやノートをとっているとあまりにも目的化しすぎてしまっていけない。

さらにそのメモでもって、論文を書いてみたいとなると病気になってしまう。

論文にすると、必ず批判されるからである。褒める人なんでありゃしない。体験上。

しかも、こっちは素人である。素人だから、書いた論文にアラが見える。自分でも見えるんだから、話にならない。

でも、それでもチャレンジすることが大事だ。

論文にしてみてはじめてわかることがあるからである。

それは、知の体系というものがわかるようになるからである。くだらない私の論文でも、鬼来迎なんていう房総の一部地域でしか演じられていない民俗芸能であってもそうなのである。膨大な知の体系が組み込まれていることが、やればやるほどわかるようになってくる。

これが唯一の収穫であったのだ。

それで自己満足しているのだが、それでもよかったと思っている。

こんな程度の素人だ。

おもしろおかしくやっているだけである。

それが楽しみなんだから、それでいいのだ。

社会に害悪を垂れ流しているわけではあるまいし。

 

だから、楽しみで読書しているのも、これで良いのである。楽しいからである。

ジジイから楽しみを奪っちゃならない。

孫と遊んでいるのと一緒である。

 

今日は、午前中古文書講座に行く。むろん教えてもらいにいく。生徒だからである。だいぶ読めるようになってきたし、学習法が確立してきたからでもある。

崩し字を家にある複合機でコピーして、それをノートに貼り付けて、辞書を片手に読解していくのである。ノートだから、傍線方式で赤ペンでドンドン書き込んでいく。

古典文法も思い出したりして、実に楽しい。高等学校の古典の授業は実に厳しいものであったから、そのおかげで今がある。進学校に学んだということを感謝しているのだ。だから塾でも、古典ができる。まことにありがたいことである。

ありがたくて、ありがたくてナミダが出て参りますよん。

 

(^_^)ノ””””

 

 

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継続の力学・・・・なんちゃって

2016年01月04日 08時56分44秒 | 生涯学習ごっこで勘違い

一年で何十億も儲けた人よりは、30年・40年継続して仕事をしてきた方から学ぶことが多い。継続しているからである。

 

 

宝くじに当たった人から学ぶより、継続的に成功している方から学ぶべきであろうと思う。

瞬間的に成功した方からは、一時の運のよさしか学ぶことができない。しかし、継続的に成功している方は違っている。

努力が違う。他人と違っているから成功したのであろう。うらやましがっている必要はない。自分も継続的にやってみればいいのである。実践である。実践。だから生涯学習的に言えば、学校でクラスメイトに恵まれることが大事なのである。ありがたいことではないか。

友人知人がなにを考えているか、どんな論文を書いてみたいと思っているのかというようなことが大事であるとしみじみ思う。

いろいろなヒントが得られるし。

瞬間的に成功した宝くじ当たった派というのは、当然、私には無関係である。なにしろ当たったことがないからである。

むしろ人生を棒に振る可能性もあるだろうから。億単位の金がふところに飛び込んできて、とうとう地元にいられなくなって東京に出ていったにわか金持ちを知っているからである。隣の市におられた自営の方である。

そりゃそうだろう。

強請たかりの類いがいろいろいるだろうから。

そんなことよりも、一年で何十億も儲けた人よりは、30年・40年継続して仕事をしてきた方から学ぶことが多い。継続しているからである。

継続している方々は、「ぶれない」「迷わない」のである。ぶれないから、継続できるのである。迷わないから、継続できるのである。

継続している方々から学ぶことによって、継続的に稼ぐこともできる。なにしろ、継続していれば財産になる。

迷わないからである。

ぶれないからである。

 

こういうのが生涯学習のコツであるとしみじみ思うからである。

 

さ、午前中のwalkingに行く。

こっちも継続しているからだ。

瞬間的にwalkingやっていたって、なんにもなりゃしない。

継続してやってきたから、健康が回復してきたのである。

ありがたいことである。

地道にやるしかない。

誰のためでもない。

オノレのためであるからだ。

 

Bye-bye

 

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話をしてくれと言われたら、尻込みしていないでチャレンジ!

2016年01月04日 08時22分50秒 | 生涯学習ごっこで勘違い

話をすれば、自分が変わる。勉強するからである。

 

 

あらかじめ失敗を予測して、慎重に行動していると結局なんにもできないのではないのか。

そう思う時がある。

このことは、特に若い人への応援歌として申し上げたいくらいである。もっともあれか。拙ブログには若い人は来てくださらないか。当然であろう。タイトルがよくない。「おじ~いちゃん日記」であるからだ。タイトルだけで、スルーされちゃうだろうから。

(^0^)

しかし、あえて申し上げたい。

予測のつかないことにチャレンジすることによって、オノレのこころの中にある壁を乗り越えることができる。

怖じ気づくというのも無くなる。

やってみればいいのである。

誰かが、あ~たを必要としてくれていたら、積極的にやってみればいい。本当にそう思う。思うから、こうやって打鍵している。

チャンスを逃すことはない。

チャンスは向こうからやってくるのである。

チャンスがやってきたら、そこからおおいに勉強することである。勉強すれば、自分のものになる。財産になる。さらに発展していくのである。

このことは、実感している。定年退職してから、まさにその連続である。

去年、千葉市で鬼来迎の講演をさせていただいた時から、変化したように思う。二時間ほど講演させていただいたが、あれからずいぶん変わった。自分自身がである。

話をすれば、自分が変わる。

勉強するからである。

だから材料はなんでもいいから、興味のあるものを見つけて、継続していくことである。

継続しないと、ものにならない。

そして、継続している方々に学ぶことである。

「生涯学習」というキーワードでインターネットを検索すると、全国津々浦々に生涯学習をやっている先達、碩学がたくさんおられるのがわかる。

わかるから、それをお気に入りにしておいて、常にチェックしていくことである。それでもって、ずいぶん勉強になった。楽しんだ。

職業を持っていたときから、通信教育系大学・大学院で学んでいたから刺激にもなった。夏休みのスクーリングでも知人ができたからありがたいものであった。

だから母校がたくさんある。笑ってしまうほどである。

講演したときも、私の講師紹介で学部時代の母校を紹介していただいたが、話をしている間に訂正したっけ。それで、生涯学習のことに話題がそれてしまったけど。あれはあれで、聞いている方々には刺激になったらしい。

そんなもんである。そんなもん。

だいたいがありきたりの生き方をしてこなかったし。さらに、他人に自慢できるほどの学歴もないし、勉強もしてこなかったし。

所詮、素人の手慰みである。

(^_^)3 フムフム。

 

あ、だからいいんだろうな。

素人がこうやって打鍵しているから、ある一定の方々が来訪してくださるのだと思っている。むろん、拙ブログにである。

ありがたいことである。

 

Bye-bye

 

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長続きするためには、妄想が必要であると思うのだが

2016年01月03日 22時49分42秒 | 生涯学習ごっこで勘違い

妄想の果てにあるものは(^0^)

 

 

生涯学習の先達を見ていると、長続きしている理由というのがわかるような気がしてきた。

なにしろこっちのジー様は、生涯学習と言っても「ごっこ」であるから、先達が必要なのだ。だから、全国の生涯学習情報にはしつこくつきまとっている。

で、あることに気がついた。

それは、目的がないから生涯学習が永続きするのだということである。資格試験とか、なにかになってやろうとかという世間的な目的というもんがない。あえて言えば、「妄想」くらいはあるというべきか。

たとえば、語学ができたら、モテルだろうなぁという妄想ならよくわかる。中国語が話せたら、中国美人と会話ができるかもしれないというのもわかる。

だから、アタシャいつまでたっても中国語が話せないのである。そういう妄想がないからだ。それに身の回りに中国美人がいないときている。チャンスがない。

わはっはははっはははである。

まずはやってみるべきであって、目的なんか後から考えればいいだけだ。

そう思っている。

生涯学習を続けると、妄想はドンドン拡大していく。

知らないことが増えて、さらに知りたいという妄想がである。だから楽しいのであって、勉強してある程度理解できたからと言って、「なんだこんなもんか」というのは良くない。中途半端で理解できたような気になって、中断してしまうからである。

もっとある。

あれこれ考える前に、まずやってみることである。

不肖、私は、あれこれ考えないで、どうでもいいようなつまらないことから打鍵し始める。それでもって、書きながら考えていくのである。つまりそれは自分のメモのためでもある。

受験勉強だって、あれこれといろんな参考書に手を出すよりも、まずは一冊選んだ参考書を何度も繰り返してやってみることにしている。ボロボロになるまでだ。Kindleもそうだ。あるいは、ICレコーダもそうだ。故障して買い換えてしまうくらいに使い込むのである。修理しているより安上がりである。修理代の方が高いからである。それにそんな時間もない。

それよりも、実践実践また実践である。

学術書も繰り返し読むことで、先が見えてくるからだ。

さらにある。

定年退職したら、あまり見栄を張って難しい本にチャレンジしたりしないことである。分厚い本を買ってきて、まったく読まないでいたら金がもったいない。そんなんだったら、古本店に売った方がまだよろしい。

見栄で読書しないことである。

もういいではないか。

見栄を張らなくても。

 

ワタシャ、黄色のダーマトグラフを持って、読みながらラインを引いているときが至福の時である。これがもっとも好ましい過ごし方でもある。

 

22:48である。

 

孫が帰ってしまったから、とたんに夜やることがなくなってしまった。

せいぜい、読書でもしてましょうやと思った次第である。

 

(^_^)ノ””””

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「長生きをしたければ、勉強しないといけない」というのは、マジである

2015年12月24日 22時37分48秒 | 生涯学習ごっこで勘違い

健康を損ねてまでもやる話ではなかったけれども、「健康法としての勉強」だと思っているのは、今でもそうだから・・・マジに。

 

 

健康になるためには、勉強しなくてはならない。そう思う。マジにそう思う。

なぜなら、年齢を重ねたときに、死ぬか生きるかということになった場合に、一番重要なのは頭を使っているかどうかということであるからだ。実際に病気を抱えていたらそれはそれで病気治しに専念するしかないが。

つまり「健康法としての勉強」なのである。世界の常識に「長生きをしたければ、勉強しないといけない」というのになってほしいと思っているくらいである。

生き残るために勉強しているのではない。あるいは、出世のために勉強しているのではない。

定年後の勉強は、受験勉強とはまるっきり違っている。当たり前である。これからなにかになってやろうとする若者と勝負しようとしたって、所詮目的が違っているからだ。それに勝負にならない。若い優れた頭脳と勝負しちゃいけない。かなうわけがない。

定年後は、受験勉強のように単にただ知識をたくさん持っている人間がエライのではない。つまり、インプット型の人間ではない。もっと言えば、「勉強部屋・書斎型の人」ではない。

逆に、することがなくて、ただひたすらニコニコしているだけの好々爺でもない。

これからは、ジジイになっても(むろんバー様になっても)、アグレッシブな人間が要求されるのである。それでこそ定年になっても、楽しい人生が(余生が)送れるというものである。

知識があればいいというだけの人は、インターネットにはかなわない。インターネットのような膨大な知識のデータベースと勝負しても、そりゃ勝ち目がない。

そんな誰でも持っているような知識よりも、考え方の面白さとか、いかに人を引きつけるかということ、アウトプットができるかどうかということが必須であるとさえ私は思っている。

だから、自分の知識の枠組みや、ものさし、ケイケンから一歩も出ないようでは、楽しくない。どーもジジイになると頑固になって、そういうものにこだわる老人がたくさんいるからである。ましてや、周囲にオノレの価値観や信条を押しつけて、得々としている輩もずいぶんいるからだ。

定年後はインプットとアウトプットの関係が逆になるべきである。受験勉強時代は、インプット最優先で、しかも締め切りがあった。受験日というやつである。しかし、定年後はない。あるとすれば自分の葬式かもしれない。インプットよりも、アウトプット優先で知識を吐きだす方がずっといい。吐き出すためには、努力しなくてはならないからだ。勉強しなくてはならないからだ。

定年後こそ、一時はやったゆとり教育的発想が大事であって、次から次へと発展学習をしていけばいいのである。

60歳を過ぎると、そこそこ勉強している方々は多い。受験勉強の延長で、好きなことに邁進して、それこそカルチャーセンターレベルになる人は多い。しかし、それは必ず飽きる。講師の言っていることが、いつも同じことしか言っていないと言って、歴史講座にもある時から来ない人がそれである。

並のレベルの勉強ではなくて、アウトプット型だと、それこそ大学や大学院に入って学び直しをするのもいい。研究発表の場も無限にあるからだ。学会で勝負してみるのもいい。

学会の懇親会で親しくなってしまうのもいい。激しくやりあうこともあるが、これまた楽し。

社会人を受け入れてくれる大学、大学院はたくさんあるからだ。通信教育もかなり充実している。放送大学をはじめとして。定年後の楽しみはスクーリング、というのもなかなか一興である。修士を取った武蔵野大学大学院では、88歳の同級生がいた。お会いするのが楽しみだった。彼は仏教学を専攻なさっていたっけ。

大学院の修士レベルなら、研究計画書と英語の力さえあれば十分戦っていける。

さらに人生ケイケンがある。社会ジンには。だから、自分が「何を知っているか」を十分見極めて、これから何をやってみたいのかを分析することである。

「コンサルタント系」をやってみたいとか、「こころの専門家とか身体の健康」等をやってみたいとか、「文化・宗教・歴史系」とか、「映画等の芸術系」とかいろいろとあるだろうと思う。

私の場合は、宗教や文学、歴史系である。とりわけ、今更宗教に入って特別な修行をするわけにもいかないから、アウトプットすることでもって、関連分野に興味を持ってきたのである。

そのために、大学や大学院を選ぶ場合は、けっして旧態依然たる大学を選んではならない。学生数や受験生の多さのみを誇る大学は若者向きである。就職に有利だとかなんとかということのみを宣伝している大学も、定年後の勉強には適さない。

名前で定年後の大学を選んではならない。

相性のあう教授がいるかどうかである。その一点である。しかも実際に授業をやっているのかどうかもチェックすべきである。中には、名前だけの教授もいるかもしれないからである。さらに、一方的に大教室でしゃべるだけの教授でもいかがなものか。

要するに大学院レベルの少人数授業でもって、指導していただけるかどうかが勝負の分かれ道である。

自分の研究テーマで選ぶべきである。それも5年から10年かかると思っていたほうがいい。

そしてそれなりの資金も考えていたほうがいい。定年後は、生活するカネと勉強するカネと一緒に考えて行くべきである。

それをである。

いつも暇だからと言って、海外旅行や、ジョギングばっかりにカネを使っていると完全に「惚ける」のである。

遊興の余生を送っていると、人間として魅力がなくなってしまう。

そりゃ、そういうのが好きな人にはいいジジイなんだろうけど、ちょいといかがなものかと思うのだ。

そんなことをやっているより、大学院に入って、アウトプットしやすい環境に身を置くことによって、バリバリできるジジイになることができる。

最後にくるのが、健康である。

あまりにも勉強しすぎて、健康を損ねないことである。もっとも、こりゃぁ~他人のことは言えないな。

私はそれでもって挫折したからで。

 

最後のオチは秀逸ですな。

 

わはははっははっははっははっはははは。

 

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たった一度の人生を変える勉強をしよう~藤原和博氏

2015年12月21日 22時05分29秒 | 生涯学習ごっこで勘違い

この動画なかなか面白いですねぇ~。

いろいろ参考になりました。

(^-^)/

 

 

たった一度の人生を変える勉強をしよう~藤原和博氏

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絞って資料を(参考書や問題集)を読むべきか、そうではないのか・・・

2015年12月19日 21時28分53秒 | 生涯学習ごっこで勘違い

受験用の勉強と生涯学習の違いであろうと思っているのだが

 

 

受験業界では、いろいろな参考書や問題集を売る。当然であろう。そういうことでもって利潤を追求しているからである。

しかしである。

あまりにも、あちこち受験参考書や問題集を彷徨していると結局一冊あたりの読破回数が不足してあぶはちとらずになってしまう。

また、この冬休み直前の時期は、そういう受験の出版社が鵜の目鷹の目でもって、若い中高生を誘惑している。

のせられた中高生こそいい迷惑である。

事実、この時期は「直前***対策」とか「センター試験緊急対策」とかの、実に誘惑に満ちた宣伝が世の中を支配してくる。

ある意味、受験生の不安をあおって、なんらなかの経済活動に結びつけようというわけである。

ま、それも仕方なしであろう。

それでも私は、これまでやってきた参考書、問題集を高速でもう一度、復習してみることをお勧めしている。

よほどの天才なら、なんでもできるのだろうが、ほどほどの俊秀は回数を増やして、基礎力をつけることがいいと思っている。さらに、過去問である。これもやった方がいいと思っているから、自分でもセンター試験の過去問をやってきたのである。

つまり塾の生徒に教えている以上、自分でもやらなきゃ話にならないからである。

高校受験に至っては、さらに重要なことである。

しかしである。

生涯学習は別である。

これは受験のためにやっているのではないからである。

もっと言えば、論文なり、レポートを書く機会が多いから、参考文献の数は半端ではなくなる。

その一々に全部目を通していたら、永遠に書けないから、ここで家庭用の簡易コピーを活用している。

部分コピーをして、論文なり、レポートなりに書いていくのである。むろん、丸写しではダメである。そんなのは、先生方にすぐばれる。

ただし、全部が全部オリジナルとなると非常に困難である。

あくまでも先行研究として、その先行している碩学たちに言及していくのである。だから膨大な量になる。

ここらあたりが、受験用の勉強と生涯学習の違いであろうと思っている。

ま、私ごときがエラそうに言うことではないのだがねぇ~。

そんなことをふと思ったので、自分のために書き残しておきまする。

 

(ToT)/~~~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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怒りは生涯学習の敵なり・・・マジに(*゜∀゜*)

2015年12月19日 12時57分43秒 | 生涯学習ごっこで勘違い

「生涯現役、生涯修行、生涯勉強」である・・・一介の庶民は

 

 

怒りは人を台無しにする。生涯学習をやっていると、まったくそう思う。何故か。怒りは、冷静さを欠くからである。冷静さは生涯学習の敵である。やりたいことがあるから、生涯学習をやっているんであって、そのやりたいことの邪魔をしているのが怒りである。ホントにそう思う。

鬼になってはいけない。

頭に血が上り、拳をふるわせている。煮えたぎったり、その反対に冷え切ったり、一瞬のうちに嵐のような激動を表現してしまう。怒ると。

相手を罵倒し、ののしり、破壊し戦う。徹底的に戦う。そして否定する。ムシする。すべてを。

相手からバカにされたり、かろんじられてしまったりするとやはり怒りがこみ上げてくる。

どれも生涯学習の敵である。

明鏡止水ということばがある。

剣道で使う用語だそうだが、なかなか気に入っている。ちなみにgoo辞書によると、「邪念がなく、澄み切って落ち着いた心の形容。▽『明鏡』は一点の曇りもない鏡のこと。『止水』は止まって、静かにたたえている水のこと。『鏡』は「けい」とも読む」とある。良い言葉である。座右の銘にしたいくらいである。無理だろうけど。

私は、当然のことだがこの明鏡止水のような心境にはなれないからである。当たり前である。そんなレベルの高い人間ではないからだ。

そもそも私の心は、いつでも波打っているからだ。冗談でも悟っているなんていえないのだ。

怒りは、作用と反作用があって、結局自分自身にかえってくるのだ。だから怖い。白目をむいて、前後を見失った行為は必ず後悔のたねになる。

怒りのままに行動すれば、破壊につながる。

避けるべきである。

少なくとも生涯学習には邪魔である。邪魔以外のなにものでもない。

なぜなら、怒りには「比較対象」のこころがあるからである。他人とオレを比較して、どっちが優れているだの、あっちはあふぉ~だとか、オレはだらしない、こんなに劣等生だとは思わなかっただのというくらべっこの心理が働いているからだ。

なんとまぁ、くだらないことであろうか。

そもそも成果主義で凝り固まっているからそうなる。成果なんか、死んだらなんの意味もない。ましてや、私のような平々凡々、ただの一介の庶民に成果なんか無い。そりゃ、ノーベル賞を取ったスーパーエリートなら成果云々とは言えるだろう。しかし、私にはそんな発言をする資格はない。それくらいはわきまえているつもりである。マジに。

なにを言われても、黙って、ひたすら生涯学習に取り組むしかない。

そうなのだ。

「生涯現役、生涯修行、生涯勉強」であるからだ。

それには、怒っている暇なんぞないのである。

これまた「コツ」ですなぁ。

生涯学習の。

 

(^-^)/

 

 

 

 

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健康学というか、オノレの体調管理もまた立派な「生涯学習」なのだ

2015年12月18日 17時59分10秒 | 生涯学習ごっこで勘違い

今日のwalkingの距離は、9.3キロ。歩数で10390歩。これからヨルバイトの塾がある。こっちもタノシミだなぁ~。マジに。

 

 

再検査結果は、実に順調。順調、順調、順調の介で。一安心。

来月は一回飛ばして、2月に再検査をすることにした。さらに、大腸内視鏡も2月にやる。実は、クリスマスの日に、わざと人間ドックを入れてあるので。クリスマスの日は人間ドックも空いているのだ。二日間。ラッキーである。

それから孫たちが遊びに来るのだが、ちょっと一日遅れでクリスマス・プレゼントはあげることにしている。毎年のことである。クリスマスに、人間ドックでいなくなっちまうのは。もの好きなジイジであることよん。

巷で、にわかキリスト教の信者もどきがたくさんいるから、かえって狙い目である。

クリスマスの日は、胃カメラの内視鏡もある。こっちもタノシミである。どっか具合が悪かったら、なんでも治療できる大病院である。

死ぬときはこの大病院で、と決めているからお世話になりっぱなしである。

ま、なんでもないというのが一番である。しかし、去年の11月まではなんでもなかったのに、足がむくんでいるからと気軽に出かけたら、即入院であったから油断はできない。

健康なんてあてにならない。それまではどこも具合の悪いところ無しでもって、毎日無敵の論文書きをしていたのだから。

だから、健康学というか、オノレの体調管理もまた立派な「生涯学習」なのだと思うことにした。まったくそうだ。これほど大切な生涯学習はないと思っている。今は。

学校では保健体育である。これは実に大事な勉強であったのだが、気がつくのが遅かった。

文武両道とはいうが、文や武の片一方ばかりやっていたら、人間が偏向してしまう。

文武は一貫してこその「文武両道」である。両方できなければアカンのでっせ。

まったく。

今日は、我が茅屋の障子紙を張り替えていたので、gymに行けなかった。

行けなかったが、歩いては、きた。

距離は、トータル9.3キロ。

歩数で10390歩。

もっともこの歩数は、速歩でないとカウントしてくれないから、実際はもっと歩いている。12465歩だった。たらたら歩いていての歩数は。

これからヨルバイトの塾がある。

こっちもタノシミである。一番気晴らしになるからだ。中高生と一緒に、国数英とやるのだから、たまらないタノシミである。

ある意味酒場でオダをあげているバカなおとうさんよりも、健康的である。マジにそう思う。

 

さ、17:56である。

これくらいにしよう。

また明日。

 

 

 

 

 

 

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人前で話すことがうまい人は、どこか違っていると思うのだが

2015年12月18日 09時02分45秒 | 生涯学習ごっこで勘違い

コツもネタもいくらでもあるのが、人前で話すことがうまい方の特徴であろう

 

人前で話すことがうまい人がたくさんおられる。なぜそういう方々がおられるのかと思うことがたくさんある。

現役時代は、それが仕事であったし(生徒の前で話すことが多かったから)、今のバイト生活でもクチサキ一つでささやかな報酬を得ている。

それでも、なぜ人前で話すことがうまい、下手が出てくるのだろうかと思うのである。

一番聞かせる話は、メモをみない方である。さらにパワポを使わない方である。

原稿の棒読みを聞かせられるこっちの身にもなってほしいと思うくらいである。講師にむかって、「あんた!」「その原稿を(メモ)見せてくれ!」と言いたくなる人の話は、有料なら金を返してくれといいたくなっちまうくらいである。

そりゃぁ、ネタは大切である。話のネタも用意しないで話をしていたら、ただの雑談でしかない。そんなのは、人前でするような話ではない。すっこんでいろと言われてしまうだけである。

話の上手な人というのは、態度からして違う。

私はそういう人の話を、聞くのではなく、「見て」いる。これがなかなか勉強になる。

たとえば、この間聞いていた医師の健康講座では、医師の先生が聴衆の両端を見ながら話をされていた。これはこれは。さすがである。下を向いていない。パワポも操作している時は見たが、それも実に簡単なパワポで字もでかい。

見ている方がジジイやババアであるから、そういう配慮もあったんだろうけど。

さらに内容が病気の話である。

だからドクター自身がリラックスされていた。集中しながら、リラックスして話をされていると、爺婆たちは安心して聞くことができる。

ありがたいもんである。

だから、こういう話のうまい方を自分のデータベースにしておいて、オノレの引き出しを増やしていくことである。そう思っている。

これからも、そういう話をさせていただける場面があるかもしれない。

しれないではなくて、積極的にそういう機会を作っていくつもりである。

ネタはいくらでもある。たとえば、鬼来迎一本で90分10回くらいはできる。教育の話だけでも、それくらいやってきたからである。

 

これも生涯学習の「コツ」である。

 

話の依頼がなかったら、自分から開拓していくべきである。そう思っている。若干ながら、そうしたメールもいただくので。

 

もっとも、あれか。

 

九十九里浜の沖合にむかって、「オレは、えらいんだぞ~」って言っていても、海にかき消されてしまうだけだけど。

 

わははははっはははっはははっはははは。

 

Bye-bye

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あんまりイライラしていると、生涯学習のジャマになります

2015年12月12日 18時58分36秒 | 生涯学習ごっこで勘違い

自己評価をあまり高く持っていると、辛い人生しか待っていないのだよん

 

 

ブログを書くことで、イライラしているのが修正できるのだそうな。

精神科医の和田秀樹先生の古本「今日からイライラがなくなる本」(三笠書房)をちらちら風呂の中で見ていたらそう書いてあった。ちなみに、和田先生は受験業界のカリスマである。いろいろ参考にさせてもらっているから、時々買っては、塾の生徒に還元しているのだ。

なかなか面白いことが書かれていたから、ちょっとここに短文でもってメモしておく。

さらに、思ったことがある。

それは「自己愛」のことである。

アタシャ、年齢を重ねるとともに、自己愛が少なくなってきたと思うのだ。自己評価がそもそも人生のスタートから低いから、他人にナメラレテも平気でいられる。

それになんか不幸なことが起きても、他人のせいにしない。

退学した大学院のことでも、大学のせいにしたことはないし、ましてや先生方のせいにしたこともない。まったくない。

自分がバカで、基地外であったから、学業劣等であったからと書いてきたが、まったくそのとおりである。本心からそう思っているのだ。だからハラの立つようなことはまったくないのである。

不思議なくらいに、自己評価が高くないのである。

当たり前でアル。

こんなバカが、なにを血迷って評価を高くしてくれとどのツラ下げて言うことができるだろうかと思っているからである。

成果もへったくれもない。

そもそもそんなのは、私のアタマにない。あたりまえである。アメリカ型の成果主義には、毒されてきていないからである。

さらにある。

それは「白黒きっちりしないとアカン」という二分法の考え方にないからでもある。

あるいは、イエスかノーかというような思考法をとらないのである。

ともかく二つにわけて考えないのである。

やるとすれば、最良の場合と最悪の場合はあらかじめ想定しつつものを考えることはある。準備だけはおさおさ怠らないのである。

だから大きな失敗をしなかったのであろう。

もっとある。

イライラしているより、笑って過ごした方がずっといい。なにに良いか。

精神衛生上である。

笑って過ごしていれば、他人とオノレを比較することもないのだ。

比較しているとせつないではないか。

ある美男と私が、顔の美醜でもって、比較していたらたまったもんではない。

そんな無駄なことはしないことだ。

顔の美醜でもって話題にされたら、笑い飛ばすことである。

むろん、カミの毛があるかないかという話題もそうである。もうこっちには無いんだから、いまさらジタバタしないことである。

すっきりしていて、実に居心地がいいとふざけていればいいだけである。

禿げたジジイが、素敵な大都会のバーで美しい女性を口説けるわけがないではないか。

志村けんではあるまいし。

 

わははっははっははっはは。

 

これもまた生涯学習ごっこをやっているバカで基地外ジジイの生きる「コツ」でございまするよん。

じゃぁ、これにて今日は退散です。

 

また明日!

  

 

 

 

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「かしこい」か「かしこくないか」という基準で生涯学習を考えていいのかねぇ~

2015年12月12日 09時13分37秒 | 生涯学習ごっこで勘違い

保育園のおゆうぎ会は、赤ちゃんが、だんだんと人間になっていく途中の儀式なのだなぁ~。オイラの生涯学習も、そうなのかもしれないけど。。。

 

 

昨日、孫の保育園で行われたおゆうぎ会で、おさな子たちを見ていた。そして思った。なにを思ったか。

それは、「あの子はかしこそうだ」とか「将来成績優秀でしょう」とか、ちまたのおかぁさんたちの台詞である。

よく聞くではないか。そういうのを。

すべての人間に対する価値判断が、「かしこい」か「かしこくないか」という基準で世の中が進展しているような気がするのだがいかがか。

たぶん当たっているだろう。そういうように言われていることは、である。事の正否は別としてである。

しかし、「3歳で神童、20歳過ぎたらただの人」という台詞もあって、殆どの人間はこっちに属する。むろんと~ま君もそうである。さらに、私は3歳で神童なんて言われたこともない。今じゃ、20歳をとっくに過ぎて、還暦も過ぎてしまったタダのジジイでしかない。

私は、小学校の知能テストでは、最低の得点で、小学校教師であった亡母を嘆かせたものである。しかも、言葉の発達が遅かった。あまりしゃべれなかったのである。そういう人間が、国語教師になったのだから、笑ってしまう。

それに、評価は人間の価値を示していない。そんなもんより、オノレの生き方である。

だからあまりにも知的発達だけをてんびんにかけていると、人生を間違うことになる。

そんなことより「健康」である。

健康だったら、男一匹なんでもやって生きていくことができる。

健康なら、オノレの努力次第で、知的活動もできるし、向上していくことができる。

あまりにも知的活動重視で、健康を損ねていたらアカン。これは自戒である。

生涯学習もほどほどにしないと、私のように健康を損ねることになるからだ。

生涯学習で多くの方々が取り組んでいる大学通信教育で、レポートを出せないで、ノイローゼになっていたら洒落にならない。

ましてや、学位論文が書けない、それでも学位がほしいとなって、山月記の李徴のように基地外になっていたら惨めでアル。それに、大学といったって、それこそ星の数ほどある。レベルがそれぞれ違っている。どれを最上とするかということは、オノレの考え次第である。

なんども書いているが、生涯学習でもって第二の人生を考えたり、再就職をするというのは、それは生涯学習ではない。

第二の人生のために、あるいは再就職をねらうんだったら、それは生涯学習ではなくて、正式な「進路のための学習」である。

そのことだけは間違ってはアカンと思っている。私は。ま、異論はあるだろうが、私はそう思っているというだけである。

たいしたことではないのだが。

生涯学習というのは、一種の遊戯である。そう感じている。なにを今更そんなことをやって意味があるのか?とからかわれることがたくさんあったが、遊戯ならわかるではないか。

そうなのだ。

趣味である。趣味。遊戯。

保育園のおゆうぎ会と一緒である。

もっとも、保育園のおゆうぎ会は、それなりに真剣であった。おさな子たちと、先生たちが。

感動して帰ってきたですよ。

マジに。

人間が、人間らしくなっていくのは、まさに「教育」や「学習」のおかげであるとしみじみ感じたからである。

けふは、昨日のおゆうぎ会に往復6時間かかったのと、自分で高速道路を運転していったので疲れた。しかもヨルバイトの塾にちゃんと行ったのである。

これも危ない話である。

来年のおゆうぎ会は、一泊泊まってきまひょ。

無理は禁物だから。

さ、これからwalkingである。

県立図書館まで歩いていく。

そして、午後は、gymである。

それこそ、ジイジのおゆうぎ会である。

 

わはははっはははっははっはははっはは。

 

(@^^)/~~~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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999,999歩も歩いたのでごじゃりまする・・・・嬉しいなぁ

2015年12月10日 17時14分40秒 | 生涯学習ごっこで勘違い

ちょっと小さいけど、この数値が何を意味しているかというと、今年の2月から今日まで歩いた歩数。

999,999歩。(2015/12/10午後現在)

始めたころに、2・3回リセットしたことがあるから、実際はこれ以上。

健康学、トレーニングというのも、生涯学習ごっこの基本中の基本だと思っているので、この特別な万歩計は私にとって「お宝」でごじゃります。

記念にアップして自戒とします。

健康を損ねることなく、順調にジジイになっていきたいものであります。(もうなっているけど)

マジに。

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/