憧れの古都西安と弘法大師修行の修行された寺院に行って参りました。9月24日(日)スタート、9月27日(水)羽田に帰ってきました。
以下は、ウキからコピーして、Kindleに仕込んでいったボキのガイドブック(自作)です。いつもこんなものを作ってから出かけております。お笑いくださいませ。
西安市(せいあんし/シーアンし、簡体字: 西安市、拼音: Xī'ān、英語: Xi'an)は中華人民共和国陝西省の省都であり、古くは中国古代の諸王朝の都となった長安である。国家歴史文化名城に指定され、世界各国からの観光客も多い。経済的重要性から大幅な自主権をもつ副省級市にも指定されている。
歴史[編集]
「長安」も参照
西安の古称は長安であり、かつては西都、西京、大興、京兆、奉元等とも称された。古代より政治の中心地として西周から秦、漢から隋、唐の都城と十数の王朝の都として千年の歴史を有す古都である。
1369年(洪武2年)、明朝は元朝の奉元路を廃止し西安府を設置、これが西安の名称の初見である・明末の李自成の反乱に際しては、西安に入城した李自成は一時長安と改称したが、清朝により再び西安と改称され中華民国まで沿襲された。1928年、西安に初めて市制が施行され省轄市としての西安市が成立した。1948年には国民政府行政院轄市に改編、中華人民共和国成立後は陝甘寧辺区轄市、西北行政区轄市、中央直轄市、計画単列市と改編が続き、1954年に陝西省都、副省級市となり現在に至っている。
1900年の義和団の乱では西太后ら皇族が戦火の北京を逃れ西安に避難している。また1936年には国共合作による日本政府への対抗を目指す張学良が蒋介石を軟禁した西安事件の舞台となった都市でもある。
2004年、西北大学が日本人遣唐留学生井真成の墓誌を市内から発見して話題となったこともある。
西安市は1992年7月に開放都市に指定されて以来、ユーラシア大陸の連絡路として中国西部最大の都市となっている。
改革開放以前も西安は中国経済で重要な地位を占めてきたが、近年はその経済発展に翳りが見える。その原因としては西安の工業に占める重工業の割合が非常に高く、国防産業などの特殊工業に依拠しており、軽工業や技術開発力を軽視した工業政策の結果であり、近年は高新技術産業開発区、経済技術開発区、曲江新区、滻灞生態区、閻良国家航空高技術産業基地の「四区一基地」を設置し、先端技術の開発と産業転化を推進する経済政策が採用されている。
西安咸陽国際空港
市街地から北西へ40kmの距離の咸陽市域に民航総局が規定した七大ハブ空港の一つである西安咸陽国際空港が位置し、70の都市へ129路線(国際線は18都市25路線)が運行され中国国内において北京、広州、上海と共に四大空港に数えられている。現在第二期工事完成、95億9200万人民元を投資し、長さ3,800m、幅60mの第二滑走路と17万平米の新ターミナルビルが建設され完成,は年間利用者数2,600万人、ピーク時は1時間あたり9,616人、年間発着便数は24万9千便、ピーク時は1時間あたり72便、航空貨物は年間36万tの処理能力を計画している。
気候
西安市平原地域は温暖な温帯性の半湿性の季節風気候で、冷暖房が四季をはっきりとしている冬の寒さ、風が小さく、霧が立ち込め、雨が降る。春の暖かさ、乾燥、多風、気候の変化夏は暑さの雨,旱魃が目立つ,多くの雷雨で激しい雨が降る秋は涼しく,気温が急に下がると,秋ははっきりとしている年平均気温13 . 0℃~ 13 . 7℃、一番寒い1月平均気温- 1 . 2℃~ 0 . 0℃盛り、7月の平均気温が26 . 3℃~ 26 . 6℃、年極端な最低気温- 21.2℃(蓝田1991年12月28日)、年極端な最高気温43 . 4℃(長安1966年6月19日)。年間降水量522 . 4 ~ 719 . 5 mmは、北から南に増加する7月、9月は2つの顕著な雨のピーク月です年间の日照时の数1646 . 1 ~ 2114 . 9时间、年间の风の中心に违いがあり、西安市内は东北の风のために、周~戸県区は西风、高陵、临地风、长安は東南风、蓝田は西风となっています。気象灾害は、雨、雨、豪雨、洪水、水の中の水、水の中の水、雨の水、强い风、高温、雷、雾、スモッグ、スモッグ、寒さ、寒さ、寒さ、低温、低温です
☆ゴールデン フラワー ホテル (西安金花大酒店)のクチコミ
中国・西安の東端にあるこのホテル。
現在は「シャングリラ」名義は外れていますが、今も室内は広くきれいで、快適な空間。
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兵馬俑(へいばよう)は、古代中国で死者を埋葬する際に副葬された俑のうち、兵士及び馬をかたどったもの。狭義には陝西省西安市臨潼区の秦始皇帝陵兵馬俑坑出土のものを指す。
兵馬俑坑発掘の経緯
始皇帝陵(驪山陵)の存在は『史記』や『漢書』[1]など、古代中国の歴史書に記されていた。1962年に陝西省文物管理委員会が始皇帝陵園の調査を行い、78の遺跡を確認したのが始皇帝陵の考古調査の嚆矢であるが、兵馬俑の存在は知られていなかった(地域の住人の間では、以前から水を枯らす化け物として兵馬俑の存在は薄々知られていたとの報告もある)。1974年3月29日、臨潼県西揚村の住民6人が村の南に井戸を掘ろうとして土を掘っていた際に、住民のひとり楊志発氏によって兵馬俑の最初の破片が発見された。彼へのインタビューによれば、最初、鍬で土を掘り返していたところ、何か硬いものに当たったという。きっとなにか壺でも有って、昔ここに竈でもあったのだろうと何気なく掘り返していると、人間大の人形が出てきたという。その人形は左足はかけていたが、胴体は無傷で、その人形の脇には青銅の矢が置いてあった、とのことである(TBSのテレビ番組「世界遺産」の兵馬俑の回のインタビューにて)。当初、住民たちにはこの発見の価値は理解されず、発見を知らされた臨潼県文化館も現場の保護と陶俑の修復を命じたのみで上級部門への報告を怠った。2カ月後、たまたま新華社通信の記者の藺安穏が県文化館に立ち寄り、陶俑が秦代の俑であることを見抜いた。藺安穏の記事が共産党の内部報である『状況匯編』に掲載され、指導部の目に止まった。そこで国務院副総理の李先念が国家文物局に遺跡の保護を命じた。同年7月、陝西省が袁仲一を隊長とする考古隊を編成して、現地発掘を開始させた。1年間の発掘で、東西200メートル以上南北60メートル以上におよぶ兵馬俑坑1号坑の全容が明らかとなった。発見された俑は6000体に及んだ。1975年7月21日、新華社通信が秦始皇帝陵兵馬俑坑の発見を報じると、世界的な大ニュースとなった。1976年4月、1号坑の東端北側に兵馬俑坑2号坑が発見された。同年5月、1号坑の西端北側に兵馬俑坑3号坑が発見された。
始皇帝陵兵馬俑
始皇帝陵兵馬俑坑では、現在までに約8000体の俑が確認されている。兵士の俑にはどれ一つとして同じ顔をしたものはない[2]。また、かつては兵士の俑のそれぞれに顔料で彩色がされていたこともその後の発掘調査で判明した[3]。指揮官・騎兵・歩兵と異なる階級や役割を反映させた造形は、始皇帝麾下の軍団を写したものである。兵馬俑の軍団は東方を向いており、旧六国を威圧したものとみなされている。21世紀に入った現在でも、兵馬俑の調査・研究は継続されており、近年の調査では、来世へと旅立った始皇帝の為に造設されたこの遺跡は、身を守る軍隊だけでなく宮殿のレプリカや、文官や芸人等の俑も発掘されている。そのため、生前の始皇帝の生活そのものを来世に持って行こうとしたものである可能性が高いと考えられている。
武士俑(兵士俑、歩兵俑)
一般的な兵士をかたどったものであり、平均身長は約1.8メートル。軍団の主体を構成しており、兵馬俑坑から出土した数は最も多い。戦袍を着た兵士(戦袍武士俑)と鎧を着た兵士(鎧甲武士俑)に二分される。
御手俑(御者俑)
兵馬俑坑1号坑では、随所に4頭立ての陶製馬の引く木製の指揮用戦車がみられた。戦車の後方には3体の俑が並べ置かれたが、そのうち中央か左側に立つのが御者俑である。丈の長い下衣の袍の外側に鎧を着け、頭には頭巾や長冠を被っている。手綱を持つ両手を前に突き出している形状が特徴的である。銅車馬とともに出土した御者の俑は、鶡冠と呼ばれる山鳥の尾をかたどった冠を載せており、高い身分であったことが知られる。
立射俑
兵馬俑坑2号坑の東部で出土し、武器として強弩を所持していた。後述する跪射俑とともに弓弩兵の四方戦陣を構成しており、陣の外側に配置されている。
跪射俑
前述の立射俑と同様に、2号坑の東部で出土し、武器として弓を所持していた。跪射俑は左膝を曲げて立て、右膝を地につけた形状が特徴的である。下衣に戦袍を着て、外側に鎧を着け、頭頂の左側に髷を結っている。立射俑とともに弓弩兵の四方戦陣を構成しており、陣の内側に配置されている。
騎兵俑
将軍俑
兵馬俑としても数が少なく、出土したものは10件に満たない。戦袍を着た将軍と鎧を着た将軍の2種類がみられ、いずれも頭の髷の上に鶡冠を載せている。
軍吏俑
文官俑
裾の長い上衣を着て、頭に冠をつけ、腰には小刀と砥石をぶらさげて携帯している。小刀は竹簡を削って誤字を修正するためのものである。
百戯俑(力士俑)
でっぷりと肥った腹部と逞しい筋肉をもつ男性の俑。力比べに用いられた青銅の鼎とともに出土している。
楽士俑
足を伸ばして座り、足の上の何かを操作する男性の俑。船を漕ぐ人という説もある。青銅製の水鳥とともに出土した。
秦始皇帝陵及び兵馬俑(しんしこうていりょうおよびへいばよう)は、中国陝西省西安北東30kmの驪山北側(臨潼区)にある、秦始皇帝の陵(墓)とその周辺にある兵馬俑坑のユネスコの世界遺産(文化遺産)としての総称である。
概要
秦の始皇帝は中国史初の皇帝であったが、その強大な力を利用し大きな陵墓を建てた(人形を作り埋葬したのは二代皇帝胡亥という説もある)。これが秦始皇帝陵である。1974年に地元の住民により発見された。また兵馬俑坑は、この陵を取り巻くように配置されており、その規模は2万m2余におよぶ、きわめて大きなもので、3つの俑坑には戦車が100余台、陶馬が600体、武士俑は成人男性の等身大で8000体ちかくあり、みな東を向いている。
この兵馬俑の発見は特に、中国史の研究上、当時の衣服や武器・馬具等の様相や構成、また、始皇帝の思想などを知る上できわめて貴重なものである。兵馬俑坑は、現在発掘調査がなされ公開されている箇所だけでなく、その周囲にも広大な未発掘箇所をともなうが、発掘と同時に兵馬俑の表面に塗られた色彩が消える可能性があることなどの理由から、調査がなされていない。
史記は始皇帝の遺体安置場所近くに「水銀の川や海が作られた」と述べる。この記述は長い間、誇張された伝説と考えられていたが、1981年に行われた調査によるとこの周囲から水銀の蒸発が確認され、真実である可能性が高くなった。
西安博物院
小雁塔のある敷地内に西安博物院があります。2007年にできた新しい博物館です。せっかくここまで来たことだし、50元のチケットはここの入場料も含まれているのですから、入ってみました。
入ってすぐの大広間に古代西安の地図があります。1階にいては大きすぎて気づきにくい。2階に上がると、よくわかります。気づかず通り過ぎている人もいますし、立ち止まって詳しく観察している人もいます。
西安博物院1階床面には、古代都城マップ。それを踏みつけていく参観者たち(左上)。
《白線・赤字の説明はハシムによる注》
博物院の1階床一面が大きな古代都城のマップになっています。たまたま人通りが少ない隙を狙って2階から撮りました。
現在に残る城壁は明代城壁です。(この後、明代城壁に上って歩きます。)
唐代の城内はそれよりももっと広いものだったのがわかります。
その他、現在の西安郊外には、周の都:鎬京(こうけい)、秦の都:咸陽(かんよう)、漢の都:長安の城壁跡などがあったのも確認できます。
周(西周)(紀元前11世紀~紀元前770)の都・・・鎬京
秦(紀元前221~紀元前206)の都・・・咸陽
漢(前漢)(紀元前202~紀元後8)の都・・・長安
隋(581~618)の都・・・大興城
唐(618~907)の都・・・長安
小雁塔(薦福寺)・・・義浄ゆかりの寺
入り口 前の道路
【左】小雁塔の入り口です。左側の窓口で50元(約750円)で入場券を買います。小雁塔の入場券は敷地内にある西安博物院の入場券も兼ねています。小雁塔にだけ行くのでも西安博物院のチケットを買わなくてはならないようです。
チケットの値段が高いので文句を言っている欧米人がいました。その欧米人は「小雁塔にだけ行きたい、博物院には行かないので、チケットを買わずに中に入りたい」と言っていたようです。しかし、聞き入れてもらえませんでした。不機嫌な様子で帰っていきました。
私はせっかくタクシーに乗ってまでここまでやって来たのだから、買って入場しました。
【右】小雁塔前の道路です。西安の道路は広いのですが、車も多いため、あまり広さを感じません。ここはそれでも少し裏通りなのか、車の少ない瞬間を狙って撮ってみました。
小雁塔
敷地内は広い公園になっています。池越しに小雁塔を眺めます。
小雁塔は薦福寺というお寺の境内にあります。薦福寺は684年に建てられています。海を渡ってインドに行った義浄に関係するお寺です。義浄はインドで25年間滞在し、695年、サンスクリット語の経典を長安に持ち帰りました。(玄奘帰国の50年後のことです。前ページ参照)そして、この薦福寺を翻訳の拠点として使ったのです。
小雁塔は707~710年に建てられています。大雁塔の50年ほど後のことです。
大雁塔広場と大唐芙蓉園
大唐芙蓉園は古都、西安市の曲江新区に位置し、芙蓉園の西には大雁塔、北には海洋館、そして南には唐城壁があります。芙蓉園は昔から名高い皇室の庭園です。
興慶宮(こうけいきゅう)は、中国陝西省の古都、長安(西安市)において、唐代に造られた宮殿。唐の玄宗の時代に政務が行われたことで知られる。現在は、建築物はなくなっており、礎石が一部残るだけである。跡地に「興慶宮公園」ができており、阿倍仲麻呂の記念碑などがある。
大雁塔がある大慈恩寺は玄奘三蔵ゆかりの寺
玄奘三蔵と大雁塔(西安の大慈恩寺)
大雁塔(だいがんとう)は唐の時代の高僧、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)がインドから持ち帰った仏教の経典や仏像などを保存するために、当時から大寺院であった長安(今の西安)の大慈恩寺に建てられた塔です。玄奘三蔵は大慈恩寺の高僧で、玄奘三蔵はこの大雁塔の設計にも携わっています。
玄奘三蔵がインドから帰ってきたのが645年。唐は名君と言われた二代目の太宗が皇帝の時代で、太宗は玄奘三蔵が持ち帰った経典の翻訳を指示し、玄奘三蔵はこの翻訳を彼が没する664年の直前まで続けた。
写真は玄奘三蔵の像と大雁塔です。
青龍寺
青龍寺(せいりゅうじ,しょうりゅうじ)は、中国陝西省の古都、西安市南郊の雁塔区鉄炉廟村にある仏教寺院であり、弘法大師空海ゆかりの寺として知られている。
その故地は、唐朝の都、長安城においては、左街の新昌坊に当たる場所であった。
歴史
創建は、隋の開皇2年(582年)であり、当初は霊感寺と呼ばれた。初唐の武徳4年(621年)に一度、廃寺となったが、龍朔2年(662年)に再建され、観音寺と改められた。
青龍寺と改称されたのは、景雲2年(711年)のことである。
唐中期には、恵果らの密教僧らが住持するようになり、入唐留学僧たちとの関係が生まれた。空海は恵果に学び、天台宗の円仁や円珍らも恵果の法系に連なる法全に就いて密教を学んだ。
会昌5年(845年)、会昌の廃仏によって再び廃毀された。しかし、大中6年(852年)には、いったん復興を果たし、護国寺と改められている。ただ、唐末五代の動乱によって、都の長安は急速に寂びれてしまった。そのため、以後三たび姿を消すこととなった。
復興
1982年以来、西安人民政府が、青龍寺の遺址と伝承されてきた石仏寺周辺の発掘調査を行い、多数の唐代の遺物を発掘し、この地がいにしえの青龍寺であったことを確かめた。
青龍寺は復興され、そこには、日本からの寄贈で、空海記念碑、恵果・空海記念堂が建つ。また、元四国霊場会会長蓮生善隆(善通寺法主)により四国八十八箇所の零番札所と名付けられた。
西安の天気
西安[xi an]の月間平均天気・気候情報
月 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均最高気温(℃)
5 8 14 21 26 32 32 31 25 19 12 6
平均最低気温(℃)
-4 -1 4 9 14 19 22 21 16 10 3 -3
降水量(mm)
7.3 10 25.8 44.8 58.3 57.9 100.6 76.9 95.4 62.4 26.1 6.7