内田百先生のことを記事にしたことがある。拙ブログで。たわいもないことを書いてみたことがあった。(たわいもないのは、いつもどおりだケド)
しかし、ある意味、あの百先生の仏頂面というか、なかなかのツラだましいというか、漱石門下、天下の大秀才。東京帝大独文科卒。目もくらむようなインテリ。媚びない、群れない・・・要するに愚生の好みなんである。
その百先生の文庫に「ノラや」(中公文庫 105円の中古本)があって、このところ楽しんで読んでいたのである。まさか、あの百先生が猫が好きでたまらん先生であったとは、気がつきませんでした。
ふとした縁で百先生、家で猫を飼うことになる。むろん捨て猫である。その様子も実におもしろい。かわゆくないようなふりをしながら、ホントは気になって気になって仕方がないっていう雰囲気が伝わってくる。
ところが、ある日突然ノラは庭の茂みから消えてしまう。野良猫であった「ノラ」。ついで居つきながらも病死した迷い猫のクルツ。
愛する猫のために、新聞広告から英文チラシまで作り、配布。これだけ情熱的にできるもんであろうかと思います。
「ノラや、おまえはどこへ行ってしまったのか」と涙が止まらない老百先生。九州に仕事がらみの旅行に行っても、寝台車の中で、枕をぬらし、「ノラ」を想う先生。時代が時代だから、JRの旅ものろのろである。しかし、この時代のJRの旅って、いいなぁ。いろいろな駅に停車して、待っている時間もたっぷりある。駅弁を買ったり、駅構内のバーでおいしいバーボンか何かを含みながら、雑談をする。これもまた良し。乗り継ぎがあったからこそ、松本清張のミステリーも成立したんだろうしねぇ。
山形新幹線ができる前に、愚生は故郷の山形に帰省するとき、今で言えばアテンダントと言われるかたにお世話になったことがある。女性だった。けがをしていて、本当にお世話になったのである。カットバンをいただいたのであった。いただいただけでなく、貼っていただいた。ありがたや、ありがたやである。世の中には親切な方もおられるのだ。なかなかできへんことであります。
山形も近くなりすぎて、困っているのだ。東京を起点とすると、銚子よりも時間的には早くなってしまったのだ。風情もなんもありゃしない。昔は、米坂線というのがあって、スイッチバックで機関車があえぎながら上ったのだった。峠という駅で(駅名もなかなかいい)、食べる駅弁がたまらんほどおいしいのだった。峠の力もちというのも売っていて、高校の競歩会で食べた時のあの味は忘れられない。
JRは、義父と義兄の生涯を賭けた職場である。だから思い入れが人一倍あるのかもしれないが。
百先生の方は、全部が全部実話とは思えないけれども、しかし、もしパロディだとしてもなかなか愉快である。余裕である。人生を客観視している。この作品を読んでなんだばかばかしいとハラを立てているようでは、いかん。余裕がなさ過ぎます。ただのペット好きではないかとさげすんでは、ことの真相を見誤る。
百先生のことだ。諧謔に満ちていると受け取った方がよろしい。諧謔です。諧謔。愚生の一番好きな単語です。意味は、「こっけいみのある気のきいた言葉。しゃれや冗談。ユーモア。 『―を弄(ろう)する』」とある。これって、もっとシビアに考えると、ひねくれ者と考えてもいいのかもしれない。世間を斜めから見る諧謔もあってよろしいのではないか。百先生のように、である。
愚生が当てはまるからで・・・・。あんまり斜めに見すぎて、一回転して、もとに戻ったりしたらこりゃたまらんケド。
なぜこんなに前置きが長くなったか。
それは、愚生も犬が大好きなのである。しかも、百先生ばりに「ジョンや、ジョン」と毎日のようにワンコと話をしておるのだ。なんでか。
具合が悪いのである。17歳のスーパー老犬である。もういつ逝ってもいいとお世話になっている獣医の先生には言われているのだ。最近、とうとう老人性のいくつかの兆候が出てきたのだ。まっすぐ歩けない。散歩にも行けない。柵でぐるっと囲った庭で放し飼いをしているが、どこに自分の犬小屋があるかもわからなくなってしまった。わからないどころか、中にもぐり込めなくなってしまった。出てこれないからであろう。しかも、本宅と別宅と二軒用意してあるにもかかわらずである。
獣医の先生にはこれまでも随分お世話になってきた。しかしである。とうとう来るべきものがきたのかもしれないと感じている。
毎日ワンコのことを考えている。名前を「ジョン」というのである。紀州犬である。イノシシ狩りに使うくらいだから、俊敏な動きの犬であって、なかなか賢いのである。こればかりは飼い主に似なかったのである。だからかわいいのである。自分と違った存在というのは気になるものであるからだ。
しかし、老いは確実に来る。犬も、飼い主も。同時展開をしているようなものだ。
だから、ジョンのことを想うとハンカチが濡れるのだ。今日も本学で、修士論文の発表を聞きながら、ハンカチをじっと握りしめていた。ふんふんと拝聴しながら、ふとジョンのことを思い出すのである。今頃、あの狭い庭で、何をしているのだろうかとか、目も見えず、足腰もふらふらで、歩けず、食欲も無く・・・・・ああああああ、まるで人間のようではないか。我が身もまた同様の末路を迎えつつあるではないかと考え始めると、本当にうるうるとしてしまうのである。
修士というのは、学部の次に学ぶものであるから、発表なさっている方々は当然お若い。これからの方々である。希望に、夢にメラメラと燃えている。たいしたものである。むろん、諧謔性に満ちた愚生である。学生だから、公式質問の時間は絶対に質問をしたりはしないが、終わったら脱兎のごとく走っていって、若い院生に質問をさせていただいた。詩人の研究をなさっている修士の方に、仮相と実相から分析というフレーズがえらく気にいりましたので、現象学的にどう展開なさるおつもりかとかなんとかお聞きしました。こっちもよくわかっていないんですけどね。
あ、学部の次に学ぶから当然お若いというフレーズは、論理的に矛盾していますな。アタシャ、学部の次に修士をやっとこさとらしていただいたのは、60歳だったので。もっとも、こういうのは突然変異というか、ただの変わり者というか、そんな程度のものでしかないケド。
なにしろ悪相をしている愚生である。比叡山の僧兵みたいであるから、いつも学生証を見せてはお話をさせていただく。もう、名刺なんか持ち歩かないからである。現役ではないしねぇ。それに自分で作った新聞ガミのような名刺は、書庫の棚に放ってあって、もう永久に日の目を見ることはないだろう。だって、肩書きもなんもないのであるから。学生証しかないのだから。
それに、60のじじぃが学生だの、院生だのと言っても信用していただけないから。そしたら、今日は質問を快く受けていただいた方に、もう一度学生証を見せていただけますか?と言われた。え?っと言ってお見せしたが、それほど怪しいおとこに見えたんでしょうかねぇ。(^0^)/ウフフ
そんなことをやっている暇に、ジョンはだんだんと命の炎を細くしている。
たまらん。
今日は、大雨の後遺症で、本学まで自分のクルマで行ったから、早く帰ってきたのだ。心配でならんからである。ジョンや、ジョンと言いながら運転していたんじゃ事故を起こす。
明日も、愚生は別の学会に参加する。また東京に行かなくてはならん。こっちはかなり大切な会議になる。日本を代表するような唯識学の碩学に少人数で直接ご指導をいただけるのだ。NHK講座の講師もされたかたである。楽しみである。実に楽しみ。
東京で、またジョンのことを思い出すのだろうなぁ。
まるっきり二人三脚で生きているようなもんだから、ジョンとは。
では、またあした!