と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

孫が帰ってしまった・・

2012年04月29日 23時28分16秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

・灯の消えたようなという言い方があるが、まさに孫が帰ってしまった後の寂寥は表現のしようもない。予期していたとは言え、これはたまらん。

・昨夜まで、書庫まで聞こえてくるような、かわいい声でぴひゃぁ、ぴぴぃひゃぁ・・・と泣いていたのが、いなくなったのである。たまらん。

・長女をヨメにやったのだから、これは当然である。

レヴィー・ストロースは、女性の贈与論を人類学的にのたもうた学者せんせいであるが、ほんとうに、長女を遠隔地にヨメに出し、はたまたその子を産みに帰ってきて、この3ヶ月ほど在宅していたのである。それが、今日のお昼に、ムコドノとかわいい孫と一緒に、まったくあっという間に、ささささぁっと帰ってしまった。

・さみしいのぉというわけである。当然である。往生際が悪いと叱られそうだが、そう感じるものは感じるのである。

・初孫なので、初めて知る寂寥感である。いろいろ自分を分析してみたが、やはり孫に拘っているのである。ずっとだっこもしていたし、言葉かけもずっとやっていた。おむつ替えだって、長女と長男の赤ちゃん時代のときはやっていたのでやれるのだが、長女がやらしてくれないから不満だったくらいである。

・自分の血を分けた孫だからからなのかと最初は思ってみた。あるいは、我々世代の人間がよく言うところの、自分だってよそんちの女性を略奪してきて、ヨメさんにしたからかとも思ってみた。どうやら違うようである。フロイド流の(嫌いなんだけど)理論で説明可能なものでもないと思って言っている。

・じゃぁなんなのか。

命のつながりということのような気がするのである。オレの後に、オレのこどもたちがいる。そしてその後に孫がいる。逆に考えれば、オレの前には無数の命が存在している。その無数の命のおかげで、オレも、長女も、長男も、孫も、そしてその後も連綿と続くのではないのかということである。

・じゃぁオレってなんなのだ?と思う。ただの流れか?・・・川のような。

・そうかもしれないのだ。

・愚生だっていつまでも元気でいたいけど、いられるワケもない。誰でも命は、次の世代にパスしていかなくてはならない。

・仕事もそう。有期のものであるのだ。いつまでも、拘っていてはならないのである。会社を定年退職して、時々永久追放を受けた会社を訪ねてはかつて部下であった後輩諸君を呼び捨てで激励して、不快感を与えて、嫌がられるという話はよく聞く。バカの骨頂である。

・私は、週に一度は前の職場近くにある千葉科学大に行っているが、ただの一度も前の職場の邪魔をしにいったことはない。バカでもあるまいし、全部メールで用が足りるのである。何をいまさら、ご迷惑をおかけしにいくことはないのである。それくらいの恥は知っているつもりである。バカなあたくしではあるが。否、バカであるが故に、あるいは恥の多い半生を送ってきたが故に、行動には慎重であるからである。

・存在というのは、「過程」である。今、現在と言ってもいい。昔のことはきれいさっぱり忘れ、明日という未来へ、今現在のことをパスしていくことが重要である。それが「贈与論」であるのだと、思っている。

・どうやらこれはレヴィ・ストロースせんせいの回答が正解のようであると、経験上思っているのである。

 

・これからは、月に一度は孫の顔を見に、小旅行をするつもりである。ただのじぃさまでありますから。(^0^)/ウフフ

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4月28日(土)のつぶやき

2012年04月29日 03時31分21秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
22:54 from web
最近のマスコミの動向を拝見させていただいていると、政治的なご発言をなされる学者先生が多くて、大丈夫かいな?と時々思うことがあります。愚生のようなものは、世間のことについてはよく知らないものですから、知らないことについては耳学問でいろいろと情報収集をさせていただいています。

22:57 from web
つまりまだ判断がつかないのです。もっとも個人的には、いろいろ考えることがあって、それなりに行動はしています。例えば選挙にはいきますから。

22:59 from web
しかし、なんでもかんでも、ある一定の思考のもとに、どんどん結論をはき出して、それを他人に強制するというのはできません。その程度のおっさんでしかないんですから。その辺はおとなしいものであります。分をわきまえているつもりです。好きなことをして、好きな本を読んでいるだけですから。

23:01 from web
明日、孫がムコドノの家に帰るのであります。かなしゅうてなりませぬ。もう、すっかり耄碌しておりますので。

23:02 from web
見れば見るほどワシに似ているような気がしているとのたもうたら、随分嘲笑されました。

23:03 from web
いいじゃぁないですか。所詮、人間なんて私的なせせこましい世界でしか生きられんのですから。

23:04 from web
その証拠に「個人的には」とか「個人的見解によりますと」とか、まるでインテリのようなご発言をされる方がたくさんおられる。

23:06 from web
ワシはインテリではないので、そういう個人的なことの積み重ねがこれまでの人生であったとおもうとるので、どっかワケがわからなくなるのであります。どう~か、ワシのようなアタマの悪い人間でもわかるようにご説明してくださりませ、と毎度申し上げているんですが。。。。。。

23:10 from web
義母が、86歳になるんです。体のあちこちが痛いのに、腰も手も悪いのに、ずっとひ孫をだっこしていて飽きることがない。しかもまったく泣かない。義母にだっこされるとすやすやとなる。これは不思議でありました。なんという人間界の真理でありましょうか。

23:11 from web
人間というのは、ほんとうに不思議な存在であります。追求する価値はあります。耄碌していても、これくらいのことはワシでも考えられるんドス。

23:20 from web
今日の夜はN東高校というこのあたりでは、屈指の進学校の生徒と玉勝間を・・・・古文の授業だとワシは生き生きしてきますねぇ。わらっちまったです。16年も授業ができなかったから、今になって燃えているんですからね。だから人間は不思議な存在なんですよ。

23:22 from web
予想どおり、実際の授業には短時間で復帰できました。16年も管理職をやってきたので、無理かなぁと思っていたんですよ。マジに、ね。それくらい授業というモノは、神聖なものであると思ってきましたから。教材研究無しにやってはいけないことでもありますし。知ったかぶりは一番よくない。

23:25 from web
だから、冒頭にもどります。知ったかぶりで、専門外の政治のことまで、クチを出すべきではないのだと思うんであります。

23:25 from web
良心であります。まことに良心。

23:27 from web
政治をやれるひとほど、器もでかくないですし、所詮田舎教師の端くれでありましたから。

23:36 from web
あああ・・・あと数時間で、孫とお別れです。爺としては、哀しゅうてなりませぬ。朝まで起きていようかしらん(^0^)/

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新たな眼を

2012年04月27日 23時43分41秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

・今日は中国から来られた大学の先生方と議論をしておりました。約3時間。日本語教育の専門家であります。たいへんなエリートぞろいで、母国語を中国語にしておられながら、日本語も実力がある。これはうかうかしておれません。37年も国語教育をやってきて、愚生なんぞなにをかいわんや。

・特に参考になったのが、母国語と違う日本語でもって専門家として立つにあたり、その習得と学習の違いということで、その手法や学び方あるいは教授メソッドについて、いかにあるべきかということでありました。非常に参考になりました。こういうお話は聞いたことがない。しかも、中国の大学で実際に大学生に指導をなされておられる方々であります。初めて聞くようなお話が多く、これは日本の国語教師のみならず、英語の教師にも聞かせてあげたいくらいのハイレベル。

・これ以上はここに書けないのが残念であります。

・どっかでいろいろと取り上げていきたい話題ではあります。

・そして、またまた参考になりましたのが、研究方法。本学図書館は、本学の学生になると(院生ほどその恩恵を受けています)なにしろいろいろな研究論文が入手可能であります。その方法をちょっとうかがって、実はそのことにうかつにも気がつかなかったのであります。(うかつなことばかり多いです・・・・トホホです)

・もっとも武蔵野大学大学院では、K教授に教えていただいていたのでありますが、まだ熟知していなかったのであります。(これは圧倒的に愚生の不勉強です)

・実際のところを家に帰ってからいろいろ試していましたら、ブログの記事を書くのを忘れておりました。

・茅屋の書庫にあるプリンターは2台でありまして、うち1台は、コピーを兼ねております。ですから、実にたくさんの印刷物を作って喜んでおりました。それもただ単にファイルするのではなく、提出論文のようにちきんと製本できるのが、嬉しいことに100円ショップにありますので、それでホチキス止めして手元に置いています。(これいいですよ。。。受験生のみなさんにお勧めです)

・こうした実にささやかな試みが実力となっていくわけであります。

・ただし、私は実力をつけても、リカレント教育ですから、目的が無い。なにかの役職についてなにかをやってやろうということはできない。「場」がない。いろいろ寄稿はしていくつもりではありますが。

・それでいいんでしょう、それで。

・しかし、今日は勉強になりました。日本人では私一人ですが、クラスメイトになられるということです。これでやっと同級生ができました。ありがたいものであります。しかも、相手はトップエリートです。ついていけるかどうか・・・。エライ不安でありますが。

・しかし、いつまでも弱気でいるわけにもいきません。

・今日は、世阿弥の芸術論集を原文でいろいろチェックしておりました。教育の方法と技術という愚生の千葉科学大学での講義にも有効な文章を発見したりして、それをA6の情報カードにメモをしたりして、9時から午後の3時までを院生室で過ごしました。それから、場所を変えて冒頭のクラスメィトとの約3時間に及ぶ議論の場に移ったわけであります。

・終わったらくたくたになっていました。いつもは帰りの電車の中では、英文解釈の問題練習をしながら帰るのでありますが、今日は疲れました。居眠りをしてしまった。気がついたら、八日市場駅。あっと思いました。乗り越したら、スポーツジムに行けない。(^0^)/ウフフ

・眼が覚めたので、ちゃんとスポーツジムにも行けたのであります。健康体力に配慮した実に理想的な知的生活を送っております。自画自賛ですケド。

・ありがたいものであります。

・しかも、今日は非常に貴重な体験でありました。新しい「眼」を開かせていただきました。ありがとうございます。


・これからもよろしくお願い申し上げますと、東金の方向に向かって祈りました。本当にです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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4月26日(木)のつぶやき

2012年04月27日 03時20分53秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
23:26 from web
贈り物をするというのは人間だけでしょうか?・・よく知らないのですが。しかし、その贈り物に対する返礼は、人間だけの風習だそうな。確かに、確かに。それを無視していると、人間の風上にも・・・ということになるそうな。土地によって随分風習も違うのでしょうが。

23:27 from web
返礼で、今日は実に多忙でありました。ありがたいことであります。わたくしのような、風狂の人間でも忘れてくださらなかったというその一点において。

23:29 from web
人間というモノは、オノレに敵意を持って言葉を発したり、接してくると、まったく瞬時に反応します。これは、私のような素人武術愛好家でもそう思います。

23:29 from web
弱いからこそ、なおのことそういう傾向を持つのです。

23:31 from web
贈り物と、返礼というのは、そういう人間関係の潤滑油なのでありましょう。ほんとうにそう思います。でないとなかなか生きていけない。トラブルばかりの世の中になってしまいます。

23:35 from web
そして夜は、中学生と一緒に勉強。これもまた楽し。

23:38 from web
いい一日でしたが、全く資料読みができなかったのであります。これからちょっとやります。しかし、こんなんじゃぁ絶対的に勉強時間が不足していますねぇ。一日12時間読書をずっとやってこそ、栄冠ありであります。できなかったら、撤退しかない。・・ではまた明日。

23:47 from web
あ、付記します・・・午前中は千葉科学大学ですてきな若者達と対話をさせていただいておりました。ありがとう、若者達よ。

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南都六宗の成立(読感文)①

2012年04月25日 23時34分55秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

井上光貞著 「南都六宗の成立」(『日本仏教宗史論集 第2巻』所載 pp.2-24 1986年 吉川弘文館)を読む。城西国際大学図書館所蔵

 

・最初気がつかなかった。南都六宗の成立について、唯識との関連で調べ物があったので、最初のページから読み始めているのだが、どうもどこかで聞いたことのあるような論者だと思ったら、歴史学の泰斗ではないか。恥ずかしい。忘れていて、読んでいるんだから、どうしようもない。

・もっとも100ページノートは、ばっちり取り始めている。しかしである。忘れるのも早い。まったくどうしようもない。行き帰りの電車の中で、マメ単を見ているんだけど、これまた同じ。旺文社の赤尾芳夫社長の「人間は忘れる動物である・・・」のしおりに激励されている。あ、これは愚生の高校生の時も同じフレーズであったではないか。赤尾社長の縛りはすごい。死んでも、激励されているんだからあの方は凄い。

・さて中身にはいろう。

 

・南都六宗は、養老-天平期の学問奨励の一連の対策として成立してくるものであるという井上先生のご指摘に身が震えるような気がした。そんなふうには考えてもみなかったからである。単なる歴史的現象として、この南都六宗をまるで、クイズのパズルのように考えていたからである。

・おそらく多くの高校生は、そんな程度であろう。私も唯識学を調べなくてはならないから興味を持ったのであって、知識としてだけなら、こんな風に追求する気にはならならかったに違いない。

・なんとなれば、奈良時代の宗派組織概観として、東大寺ですらまだ新しい寺院であると言われるのである。あの東大寺がである。なんという壮大な話であろうか。

・中でも養老二年の10月、太政官が、僧綱に対して下した次の五箇条の布告が注目に値するとされる。

①法門の師範としてふさわしい人の高徳を顕彰すべきこと

②師の跡をついで、後進の僧侶の領袖たるにふさわしい人があったら申告すべし

③五宗の学、三蔵の教は、それぞれによるところを異にするから、宗ごとに最も宗師たる人を申告すべし

④それぞれの機根にしたがって、各々業につかしむべきこと

⑤僧徒は、寺院に定住して、諸義を学習し、禅行を修行し、各々その業をまっとうすべきものであって、法師に対して、法  をそしり、精舎に非ずして居を構え、仏行にあるまじき行を・・・・・

・東大寺は、純粋に、典型的にこの理念を具現化したのだそうだ。年代的にまだ新しいからなのである。それを「養老二年の布告の理念」と呼ばれていて、実にこのあたりはおもしろいところである。天平勝宝年間の「正倉院文書」によって明らかにされたことでもある。

・この仕事の全体の責任者が、僧憬という名前である。華厳宗である。前掲の文書の中に、法性、三論、律、倶舎、成実という文字が含まれている。これを寺院の名前と比較してみると興味深い。

・すなわち、この養老2年の仏教政策以前に創立された寺院が4つある。それぞれ、元興寺、法隆寺、大安寺、弘福寺である。宗派組織としては特殊の形態である。東大寺のみを問題としていてはいけないと、井上先生は言われる。私は、実はこの中の弘福寺にもっとも興味があるのだが。能との関連で。

・井上先生はこの後、それぞれの寺院の特徴について詳述されていく。実に興味深い話がつづく。

・特に摂論宗についてはまさに唯識である。無着の摂大乗論を所依としている、また世親の摂大乗論釈によってこれをまさに釈する一派である。摂大乗論は、唯識学院の包括的・組織的に組み立てた最初の論である。仏教の唯識の代表作である。

・大安寺の「修羅衆」のことも面白い。日本霊異記にも取り上げられていて、商売をしていたとのことである。これもまた非常に興味深いことではあるが。

・明日は、大学に行けない。ちょっとさみしい。図書館でもいつまでも多くの学生達が勉強をしている。さらに去年は公認会計士に合格者も出している大学である。学問的雰囲気に圧倒されに行っているのだから。もっとも、明日午前中は千葉科学大学にいる。こちらも学習意欲では負けていない。さらに愚生の楽しい授業である。(^0^)/ウフフ

・お昼から、馬車馬のようになって、孫の祝いをくださった方へのお礼をしてあるく。そして、夜には受験勉強をしている方々への知識の贈与タイムである。

・楽しい、楽しい。

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4月24日(火)のつぶやき

2012年04月25日 03時22分00秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
09:02 from web
おはようございます。良いお天気です。うれしくなってしまいます。こういうときは、出かけてみたいのですが、年金生活者では図書館くらいしか行くところがない。ストレスを感じていかないと、私の場合はぼけるからです。アルバイトもやるべきでしょうなぁ。いろいろご指導も受けるから。

09:04 from web
年をとっているんだから、指導される方々がやりやすいように配慮もしています。こっちから聞きます。改善点はないですか?ってね。対応できない、能力がないって場合は潔く撤退するしかないんですねぇ。寂しいけど。それが老いたという証拠でしょうから。若い人に迷惑をおかけしたくないんです。

09:06 from web
そういえば、私は、今まで偉そうに他人に教えたことがまったくない。いつも、共に学ばせていただいています。学者とか研究の仕事にはむかないんですなぁ。自己主張が無い。全く無い。オレが、オレがと出しゃばらない。じ~っとしていて、本ばかり読んでいる。異端なんでしょう。

09:11 from web
それでは今日も通学定期券を持って、ルンルンと出かけます。先行論文がまだまだ山ほどあるんです。(*_*) マイッタ・・・

16:43 from web
院生室。有意義でありました。アメリカあたりの院生だと、一日12時間は平気で勉強しているそうな。参ったですね。ついて行けない。無理だったかなぁ・・・6時間が限度でありまする。

16:45 from web
これから帰って、今度は柔道の稽古。さらにスポーツジムへ。このあたりが、私は中途半端なんでしょうねぇ。12時間か。。。。

16:48 from web
ちょっと太宰治も読みたい。一つの文章の中に複数の人格が存在するという指摘を、あるご講演から新しい知識を、それこそ贈与していただいたので。全集があるから調べてみよう。稽古の後に。

16:50 from web
それでは五時ですから駅へ。あ、その前に図書を返却です。また明日来よう!

19:26 from web
さぁ・・・夕食もいただいたし、休みもとったし、これから柔道の稽古です。楽しみ、楽しみ。今日の課題は、大外刈りです。

23:20 from Tweet Button
生きていることとは何だろう? 池田晶子 当たり前だけど不思議なこと: youtu.be/ChGYZ3rcUz0 @youtubeさんから

23:23 from web
柔道、終わって亡くなった池田晶子さんの動画を知った。美しい方であった。ファンであったから。ちょっと柔道とカンケイ無いけど。

23:24 from web
この映像をアップしてくださった方に感謝である。本当にありがたい。

23:26 from web
圧倒的に時間をかけなくてはならないのであると思う。なぜなら私が劣等生であるのは、勉強に圧倒的な時間をかけなかったからであるからだ。・・・(^_^)3 フムフム。

23:28 from web
柔道に戻ろう。大外刈りを課題として今日は稽古をしたが、不思議な技である。かからない理由がよくわからないからである。よくわからないから、知る努力をするんですなぁ・・・

23:32 from web
今日は、さっきまで合気道の動画を見ていた。身体知のことが知りたいからである。人間の運動は、どのような理屈で成り立っているんだろうか?という疑問があるからである。・・・これでおわりにします。お休みなさいませ。また明日。

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草を食うおとこ

2012年04月23日 23時05分30秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

・「草食系男子」なる言葉が出て、久しい。誰が言い出したかというと諸説あって、怪しい。インターネットで拾うと、コラムニストの深澤真紀氏が、2006年に「草食男子」ということを言われ出してからであるらしい。

・このことば、最初は実に違和感があった。なぜなら、草を食って生きていられるんかいな?と思っていたからである。

・どうもそれは違っていたらしい。

・おとなしめで、かわゆいタイプの、しかも女性を口説けない、やさやさしい男子なんだそうな。こういうタイプの男は、女性を口説くときに「今、つきあっているんだっけ?」と聞くのだそうな。バ*か・・・・。それだと誘導尋問と一緒じゃないか。女性が「つきあっているよ」とのたもうたら、速攻で逃げ出すことが可能ではないか。自分だけを安全圏に置いていて、そりゃないぜ、セニョールであるぜよ。「つきあってないよ」と言ったらもうこっちのもんだという実につまらない性的計算がミエミエではないか。バ*が。。。ああああ、バ*が。(書くのも情け無い。書いてるオレは真正のバカですな)

・弱そうに見せていれば、生きる上で楽だからだそうだ。ホントか?どうも信じられない。弱いことは、真逆に被害者になる可能性も高くないのかと思う。私のように意図的に弱そうに見せて、反逆するという汚い寝技専門の柔道もあるけども、それは例外である。

・それにあらゆる人間関係の苦しさに堪えて,堪えて、堪えまくって最後はぷっつんしてしまうんじゃないのかね・・・。やさしいことを金科玉条のようにして、まるでそれが最高の価値であるかのごとく振る舞う方々を知っているが、それでいいんですかね?

・草食系というたった一つの仮面、ペルソナというんだそうですが、それだけでいいんですかね?

・人間というのは、そんなたったひとつのペルソナをつけて生きていけるんでしょうかね?

(今日は随分?が多いな・・・いつになく)

・複雑怪奇なる個性こそ、私なんかには大変魅力があるように思えるんですが。単一の個性では、ただのつまらんボンクラおっさんでしかない。だから、中年のおっさんのように、ちまたにはいろいろな魅力あふれるダンシがたくさんおられるんである。そういう方々と一献酌み交わしながら、ちまたの話をするのも実に面白いんですよ。

・一見肉食系のようなただの頑固オヤジが、実はナイーヴなカラオケをやってみたりするから、人生は面白うてたまらんわけであります。私のようにです。私はどっから見てもただの肉食系のオヤジですが、カラオケの18番は小椋桂の「少しはわたしに愛をください」なんですから。わらわれっちまうですがね。もつ鍋食いながら、バカをやっているんです。もっとも泥酔しないと絶対歌わないっすケド。

・この反対に、一見草食系のやさやさしい男が、実は家庭内暴力をやったり、妻を殴ったりするのは、これはたまらんわけであります。

・そういうのを最低というのでありますよ。もし、このつまらないオヤジのブログを見ている方がおられたら、そしてそれがうら若き女性であったら(そんなヒトはいないなぁ・・)そういう最低の男を最初に見抜くことであります。

・ダンシもそうです。一見やさしそうなニョショウ(女性とも書く)が、実は・・・という羽目に陥らないためにも、人間を早く見抜くことですよ。人間観察というのは実に大切なことでありまする。(これはアタシの古女房ドノは、アタシの最初の評価どおりで実に・・・・(^0^)/)

・なんでそんなことを書き始めたか。能の作品研究で、その歴史的展開という書籍をずっと読んでいたから。だって、能は能面をつける。いろいろな仮面の演じワケをするから。仮面が人間かという無謀な問いには屈しないケドも。時々飽きて、メモにそんなことを書いていたのでありました。

・今日は雨が降っていたけど、院生室の階下で、本学の福祉学部関係の学生たちが、手話の勉強を一生懸命音楽と共にやっていた。感動したですな。こういう若い方々が、こういう分野でご活躍をされるということに素直に感動です。私にはできなかったからです。母校の学部(通学生)を卒業させていただくときに、福祉関係の仕事に合格をさせていただき、面接に行ったのでありました。そして、そこで私は断念したのであります。とても、とても私のようなダメ人間につとまるような職場ではない。神のような深い愛と、こころがまえと、やさしさがないとできない仕事だと、しみじみ思ったからであります。

・やさしさは表面的なものであってはなりません。真底から、愛のあふれる人間でないといけません。草食系男子などと言って、表面上をつくろって、弱さの中に逃げ込んで、あらゆる人間関係のトラブルから逃げまくっていたんじゃ、それはいけない。

・私だって逃げたい時はいっぱいあったんですよ。でも、こらえた。いっぱいこらえた。弱いからこそ、こらえたんです。何度も何度もすべてを投げ出したくなったのでありました。一番甚だしいのが、学部時代の新聞配達。これはほんとうに言語を絶する。今でも、夢に出ます。配達ルートを覚えています。42年前のですよ。

・能力もないから、家庭教師なんてクチもかからなかったし、まず不可能でしたね。でも、それが良かった。自分の能力の世間相場を知らされたし、仮面をいくつもつけることができたからであります。ハラの立つ仮面、全てのヒトを許す仮面、じっと堪える仮面、暴力的になる仮面、将来のことを考える仮面、経済のことを考える仮面、そろばんをはじく仮面・・・・・・・・・・・・いくらでもあるわけです。

・それでも、すべての基調には「愛」があるんです。愛が基盤に無いと、それは「呪い」でしか無い。このことについては、さらに書いてみたいですケド。

・明日もルンルンで大学に行こうっと。楽しみ、楽しみ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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4月22日(日)のつぶやき

2012年04月23日 03時24分14秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

00:13 from gooBlog production
すばらしいご研究であります goo.gl/BxUV6

00:30 from web
25歳を過ぎたら日本の文科系大学生は殆どいなくなる・・・というご指摘のブログ記事文章を拝見して、なるほどと思いました。確かに、そうでありましょう。だから日本の大学のレヴェルは劣化しているとも。就職してしまうからでしょう。その後、生涯学習で大学に戻ってくるというようなこともない。

00:33 from web
人文科学系はそれこそいなくなります。なぜなんでしょうか。これだけ大学進学をしている若人が多いのに、です。文学部でも、新入生となった日から就職を意識せざるを得ないんでしょ?これってある意味、勉強している時間がないということで、哀しいことであります。

00:36 from web
世間のニーズというのも、大学にそれを求めるからなんでしょうね。ある意味仕方のないことでしょうけれども。また、これだけ大学乱立時代を迎えると、必然的に、大学は資格取得や専門職業人の育成に向かうというのはわかるような気がします。これだけ大学に進学していく国家は珍しいのでしょうから。

00:41 from web
リカレント教育というのは日本には存在しないんでしょうか。博士をとっても就職できないから、学問はしない、断念するということをよく聞きます。これもまたオオイに問題のある現状であります。頭脳の海外流出がどんどん起きてしまいます。これはもったいないです。実にもったいない。

00:44 from web
リカレント教育とは、主に学校教育を終えた後の社会人が大学等の教育機関を利用した教育のことを指す。

00:45 from web
これこそ私のやっていることであります。

00:46 from web
教育にいくら支払ったから、見返りを求めるというようなレヴェルではないんですね。

00:47 from web
なんにもならないかもしれません。それをあえて引き受けているからできるわけです。ですから、財布にいくらカネがあるかしか興味のない御仁には無理であります。

00:55 from web
若者達との接点がほしいからであります。今日は地元の進学で有名な高校の生徒に、高校現代文の読解のコツを教えさせていただきましたが、参考になった筈であります。論文読解については、プロだと思っておりますから。それを「贈与」させていただくことができるというのは、わが喜びであります。

00:57 from web
もう一時ですね。毎日よくやりますねぇ。わたくしは。ゆっくりひなたぼっこしているような、タイプではないんでしょうね。哀れでありますよ(^0^)/ウフフ

01:00 from gooBlog production
どっか~ん ブン goo.gl/BxUV6

01:03 from web
行為の無意味さを考え始めると、地獄に陥ります。ニーチェを読むと、その危険性がよくわかります。無意味であってもいいんです。本質は意味があるかないかではなくて、行為そのものが価値があるということなのだと考えます。週に二回ほど中学生に教えたりしていますが、変わった老人ですよ。

08:19 from web
おはようございます。昨日の夜の柔道で、おさなごたちに思い切り投げられていたら、今日は腰が・・・情け無い。土曜日はジムが1時間早く終わりになるのを忘れていて、行ってしまってから気がつきました。あああ、どうしようもない。

08:21 from web
ワンコの注射にこれから行って、ご老体(私もだ)の健康維持にちょっと配慮してきます。もう、お互い無理は禁物になってきました。きをつけなくっちゃ。

08:23 from web
柔道の盟友に昨日は注意されました。そんなに困っているのか?って。あちこちに出没しているのを生活費稼ぎのためだと誤解しているんです。(^0^)/ウフフ

08:26 from web
趣味でやっているんだと申し上げましたら、お目目が、ぱちくり。趣味です、マジに趣味。無理してやっているんだろうと、思われるんですかねぇ?大丈夫です。いつでも撤退可能ですから。・・・私は野心家ではありませんし。

08:30 from web
どうもお堅い商売の人ほど、思考が硬直化しているんでぇす。二者択一を迫る。面白いのがたくさんいます。あたしゃ、実に諧謔的ですが、「人間観察家」でありたいとずっと思ってきましたから、思考の硬直化はいい研究材料になる。

08:33 from web
それと人を表面ヅラで判断するヒトは、危険ですぜ。他人にけんか腰で接しない方がよろしい。どうなるかわかりませんぜ。反逆されたらこんな怖いことはない。なめてかかると、ろくなことはないんでっせ。いつもニコニコしているからって、優しいヒトとは限りません。あ、私は裏も表も実にやさしいです。

08:35 from web
今日は一日フリーですな。孫の世話と、読書と、図書館です。あ、ムコドノが来ているから、孫の世話は無しじゃ。邪魔にされるか。昨日、孫のおむつを取り替えていたら、左手にしゃ~~~ってやられてしまった。かわゆいですな。

22:50 from web
伝達という言葉にずっとひっかかっている。そもそも文化的資本というのは、伝達可能なのだろうか・・・その一点において、疑問を感じているんです。

22:51 from web
道徳の伝達という学術書を読ませていただいてから、ずっとそのことを考えておりました。

22:59 from web
もう少し考えます。立ち位置の違いもあるからです。そこをどう考えるのかということをです。しかし、今日は充実していたですねぇ。こんなことをやっているだけですケド。夕方、運動しにスポーツジム行ったですが。帰りにサウナも入って、温泉も入って、きれいにして帰りました。(^0^)/ウフフ

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ドッカン文 「道徳の伝達」

2012年04月22日 00時59分51秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

読書感想文である。松下良平著 「道徳の伝達 モダンとポストモダンを超えて」 2010 日本図書センター。

 

・タイトルに引きつけられる。道徳は伝達できるものなのかという問いが私に迫る。道徳というと、現場の教師としてそれこそ多面的にいろいろと考えてきたし、特設道徳の時間について方法論を考えてきた。もっとも、それは20代の時であるが。なかなか楽しい授業遍歴をしてきた。いつも、先輩教師たちにご指導をいただいてきたし、こちらからも見に行った。だからである。実践をくぐり抜けてきたから、余計にこのような書籍のタイトルに引きつけられるのである。

・この本も城西国際大学の図書館から貸し出しを受けた。教育書だけでも相当な数がある。教育についてのレポートもある組織に提出しなくてはならないので、実にありがたい。だから、このような形でドッカン文を書かせていただくのだ。自分のためにである。

・冒頭から私の問いに応えてくださるのが、松下良平先生である。「道徳のジレンマ」(p.15)の部分である。道徳という行為は、「判断する」という活動無くしては、そもそもの存在価値はないと私は思う。ある行為が、道徳的に正しいかどうかは、まさしく自己の「判断」によるものである。ただし、ある種の人々にとっては、その判断を社会的な機能のシステムや、責任転嫁論に委譲することによって、逃避をしてしまう。

・地域との協力とか、学校で厳しく指導すべきであるとする傾向性は、こうした道徳の直観的な思考から来ているものである。それはそれで否定はしない。

・問題は、道徳的規範は伝達できるのであろうかという理論面での研究が乏しいということである。著者はもっと厳しい言い方で書いているが、「道徳教育の空洞化」(p.21)という言葉まで使っておられる。

・重要なのは「生命尊重」「人権尊重」「思いやり」「個性の尊重」「環境への配慮」「民主主義」「平和」といったような道徳的価値を、これらが本来持っていたところの実質を変質化してしまって、既成の諸システムの維持・存続のための便宜的な道具に成り下がっているということを著者は言っておられる。(p.22)

・非常に考えさせられるご指摘である。

・そもそも教育が道具に成り下がったのはいつからなのか。これもまた、これからの私にとっての課題である。どうも直観的には、大学進学の%の向上とリンクしているような気がしてならないのだが。

・つまり経済と教育の蜜月度が高くなったからである。経済の消費行動として教育が位置づけられ、学校がサーヴィス業だと言われてしまっては、なにをか況んやである。サーヴィスなら、人格の向上とか、体力や身体知の問題は吹き飛ぶ。ましてや、知の教育でも大学に何人入れたかの話ばかりでは基本的にいかがなものかと感じる。進学の数値だけを問題にするなら、私の母校はちょう~一流になっちまう。そうじゃないのだ。そうじゃないのだ。(これ・・教育念仏でありまする・・誰も聞いていないだろうから)

・ハーバーマスが、「討議倫理学」のことに触れているということを初めて知った。著者のおかげである。作家の佐藤優先生にハーバーマスを教えていただいてから若干の読書体験をさせていただいたが、(佐藤優先生の同志社大学大学院の修士論文の対象ではなかったか・・・)なるほど道徳教育にはすぐれた哲学的傾向があるわけである。そもそも、古代から偉大なる哲学者は道徳論を説いて来ている。その理論面の考究なしに、たんなる基本的生活習慣の教えだけで(それはそれで大切であります)道徳教育を解釈してはならないと思う。

・道徳の授業は、まさに討議の倫理学の実践編であるからである。学級の生徒たちと討議をしていくのである。あくまで言うが、ソクラテスの言ったような問答法ではない。無知をベースにしていないからである。

・具体的にどうやるかということになると、私は現場人であるから、2種類の方法を研修させていただいてきた。決して、価値を押しつけない、まさに討議の倫理学をそこで展開してきたのである。

・ましてや、討議で迫るのであるから、そこには「知と実践のズレやジレンマ」が存在するようになる。いわゆる「わかっちゃいるけど、できない・やめられない」ということである。

・これがベースにあるから、「道徳の伝達」という単語に引きつけられたのだ。

・著者は「闘争」ということばを使って、道徳的な伝達の可能性を追求しておられる。(同書 pp.153-198)この章もすこぶる興味深い。素朴な闘争理論から、哲学的な闘争理論へと発展していくということを述べておられる。著者は道徳的な伝達は可能であるとの立場から、この分厚い書籍で論を述べられているのだが、このドッカン文は、それをそのまま紹介するわけにはいかないので、詳しくは同書を見ていただくしかない。

・同じ「闘争」でも、「逃走」とでは大きく意味が異なる。著者は、道徳的な伝達が可能であるとする立場と、否、道徳の伝達を否定し、イデオロギー的に問題視する考えと、この二つの立場を絶妙に分析されておられる。戦後の教育を概観する上で、このような手法は実に有意義である。著者の尊いご研究でもある。こうした研究が世間に問われること自体が実にありがたいことである。

・なにしろ大部の書籍である。間違った読み方もしているだろうと思う。しかし、このような碩学の文化的資産にふれさせていただくことだけでも、幸せを感じるのである。

 



↓ 上記の記事をGoogleの翻訳サイトで翻訳させてみた。悪戯だけども。

Is a book report. "Beyond the post-modern and modern transmission of morality" by R. Matsushita Nihon Tosho Center, 2010.

 

-Are attracted to the title. Moral question that can be transmitted Why is not close to me. And morality say, I've been thinking what it multi-faceted and many in the field as a teacher, has been considered a moral about the time of a special methodology. However, it is a time of 20s. The journey has been pretty fun class. Always, I have received guidance to senior teachers, went to see from here. Is so. From the practice been through, is it to be attracted to the title of such books unnecessarily.

-Has received a loan from the library of this book also Josai International University. There is a considerable number of written education alone. It must be submitted to the organization reports about education, come in very handy. So, he let me write a sentence like this in the form of Dokkan. Which is for himself.

· The response to my question us from the beginning is the Matsushita Professor Ryohei. "Moral dilemma" which is part of the (p.15). The act of morality, then no activity called "judge" is, I think the presence of the first value is not. A certain act, whether morally right is due to "judgment" of the very self. However, for certain people, by delegating systems and social functions, the theory of buck-passing its judgment, would then escape.

Say a tendency to or cooperation with the local community and should be strictly in school leadership is thought to be coming from these intuitive morality. It is not denied by it.

A problem is that the research is scarce in terms of theory or moral norms that would be capable of transmitting it. Author has written in more severe expression, folded up with the words "hollowing out of moral education" that (p.21).

· What is important is the substance of the place they originally had, the moral value such as "peace" "democracy", "environmentally friendly" "respect for individuality," "caring" "respect for human rights," "respect for life" The authors say that I folded the mosquito alteration, that the Narisaga~tsu a tool of convenience for the maintenance and survival of various existing systems. (P.22)

Pointed out, is very thought-provoking.

· The tool has fallen in the first place is what education is name from the time. This also is an issue for me in the future. Intuitively, but if you do not feel like that is linked to improvement of the percent of college very much.

De honeymoon economy and education is because that is raised. Education is regarded as consumption behavior of the economy, and it is said that industry and Savu~isu school is and does 況 What to do? If Savu~isu, or improvement of the personality, the problem of knowledge and physical strength are blown away. Even more, feel if it were just talking about what to put people in college education or knowledge, and how things basically. If the problem only the numeric values of the College, alma mater of my going to be ultra-first class. He is not. He is not. (Because nobody would not have heard there in the Buddhist-le-this-education)

· Know the first time that Habermas is, that the mention that the "ethics discussion." Is thanks to the author. But let me reading experience slightly from that I got to know the Habermas Professor Masaru Sato of the writer, to moral education I see (· · · Did not covered by the master's thesis of the Graduate School of Doshisha University Professor Masaru Sato) So there is some excellent philosophical trend. First of all, the great philosopher preaches the moral theory has come from ancient times. I think that without the Kokyu of surface theory, (it will be important in it) and should not be interpreted only in the teaching of moral education just basic lifestyle.

-Teaching of morality is because ethics is a practical part of the discussion exactly. Is going to have a discussion with students of the class. But only say, not as law questions and answers Socrates said. Is because not based on ignorance.

· When it comes to how to do specifically, because I am a human scene, let me have two different ways of training. Never, do not push the value is there it has been deployed in the very ethics of discussion.

-Let alone, since it is approaching it in the discussion, "The Dilemma of displacement and knowledge and practice" will be there to exist. So-called "I know that Cha, can not stop, can not" is that.

-This is because in the base, he was attracted to the word "transfer of morality."

• Use the word "struggle," the authors, folded to pursue the possibilities of moral transmission. (Pp.153-198 ibid.) also extremely interesting in this chapter. Folded states that struggle from simple theory, that theory evolves into a philosophical struggle. The authors convey the moral from the standpoint of is possible, but he stated the theory in the book thick, the statement Dokkan this, to not introduce it as given does not go, for details see the book there is only you.

De and "escape", but "struggle" the same meaning is very different. Authors, and it is possible to transfer a position to moral and, no, exquisitely woven been analyzed to deny the transfer of ideas and morality, an issue that ideologically, the position of these two. On an overview of education after the war, such an approach is very positive. Is also a study of the author's precious. Itself that such research is asked to the world is indeed thankfully.

After all, is the most books. I'd think you are also wrong reading. However, even in that you only let me touch the cultural assets of such a great scholar, is to feel happy.

 

 

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4月20日(金)のつぶやき

2012年04月21日 03時20分03秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
01:04 from gooBlog production
じっちでしゅよぉ・・・ってか goo.gl/CBKwh

23:43 from web
金曜日が一番日程的にはハードであります。

23:43 from web
講義と、下準備と、図書館で参考文献を読む日々であります。

23:44 from web
あ、講義って、愚生がうけさせていただいている講義です。なんだか混乱してしまいます。

23:45 from web
場所が違うと攻守が違ってきますので。

23:48 from web
しかも今日は予備校の責任者から℡をいたただき、ピンチヒッターで急遽講師をさせていただきました。全部数学でありました。笑ってしまったです。でも、だんだん数学が好きになってきました。もともと好きだったんですよ、数学。誰も信じてくれませんが。(^0^)/ウフフ

23:51 from web
道徳の学術書を城西国際大学から借りてきました。道徳は伝えるものであるというようなことが書かれているような気がしました。これはおもしろい。

23:53 from web
贈与論の一部なんでしょうか・・・これから朝まで読書タイムです。暇ですからね。もっとも、深夜に勉強していると、本当に集中できます。セロ弾きのゴーシュじゃぁないけど、いろいろな動物たちが訪問してくださるような気もしますですよ。(^0^)/

23:54 from web
こんなこと書いていると、変人に思われるかな?・・・・

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Reading Listを作成していて

2012年04月20日 01時06分34秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

・0:43 やっと終わった。Reading Listを明日・・・・じゃない、今日金曜日にM教授に提出するからである。合計79冊。随分読んできたものである。テーマは決まっている。修士論文からずっとやってきたことである。また、それをやらないと死んでも死にきれない。つまりそれほど愚者たるアタクシには重たいテーマなのである。

・今日は(じゃなくて昨日)、銚子の千葉科学大学でいろいろ大学生にお話をさせていただいていた。それが終わってから、研究室にお邪魔してU教授から教育学についてご指導をいただいていた。千葉科学大学の学生諸君は実にまじめである。愚生のようなモノの話も真剣に聞いてくださる。

・愚生の話は、現職の教員にも役に立つのではないかと密かに思っているのであるが、この種のコツを千葉科学大学の教職希望の諸君に今から「贈与」することで、優秀な教員を輩出できると確信しているのである。レヴィ・ストロースである。得意の「贈与論」である。(いつも同じパターンだなぁ・・・トホホ)

・もっともこれは千葉科学大学の文化的資産であるから、他所には公開できない。

・夜には、予備校である。愚生は塾の指導に入った。高校古典ならば、予備校レベルの授業はできるかもしれないが、まだまだ勉強中の身である。この予備校は、二階が予備校で、一階が学習塾である。楽しい。実に楽しい。今日は数学が楽しかった。中学生相手だから、48年前のことを思い出しながら演習を一緒にやるんである。

・わからないことを、一緒に考えるのである。教育の根幹である。共に学ぶということである。しかも、公務員教師時代には考えてもみなかった教え方が存在するのである。これもまた公開できないが、職業教師は、決して思い上がっていてはならないと最近はしみじみ思っているのである。もうカンケイないでしゅねぇ。

・帰ってから、孫がぐずっていたので、「はれぇ、じっちでしゅよぉ~」とか言いながらあやしていたら、言い方が・・・・とか言われたんで、ま、反省した。しかしです。育つときは育つ。

・昨日はスポーツジムが休館だったので、サウナに行けなかった。それで、久しぶりに自宅の風呂で長風呂を楽しんでいたら、長男にいい加減に出てくんろと言われて、仕方なしに出た。それから、ずっとやっていたんである。このReading Listってのを。

・やってみて思った。けっこうまじめに努力しているんだなぁって。自画自賛ですケド。

・あ、もう1:03だ。寝ます。

・お休みなさいませ。

 

 

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4月18日(水)のつぶやき

2012年04月19日 03時24分45秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

18:42 from gooBlog production
有意義でした、今日も goo.gl/Hc3zo

22:20 from web
内田百先生・・・とても楽しい。ちょっと変な人かもしれないケド。すっかりはまってしまっています。

22:21 from web
どこまで作り話で、どこからほんとかよくわからんのですが。

22:25 from web
不気味なところもあるし。

23:32 from web
内田百先生は、現代に生きていて、ブログの記事でも書かれたら、最高に人気がでたでしょうね。ホンマにそう思います。

23:33 from web
学食で今日はカツ丼をいただいたのですが、そんなんで喜んでおるようでは、内田せんせに気合を入れられます。(^0^)/

23:37 from web
お師匠様というのは怖いにかぎります。アタシは、今でもおっかなびっくり大学生活を送っております。いつ退学させられるか・・・心配で寝る暇も無いっす。今までずっと古典を読んでいたんですから。本歌取りの項目を復習していました。忘れている。個々の和歌の本歌・・・データベース化しなくちゃ。

23:42 from web
能力がないなら、退学しちゃえばいいんだと思ってるケド、人文科学系ではそれは当たり前だなぁ。厳しいね。まったく厳しい。

23:43 from web
唯識と能楽をやるんだケド、唯識は最高級に難しい。これまた困りました。自業自得でありまする。(^0^)/

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内田百先生

2012年04月18日 18時42分15秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

・認識の枠組みは、仮のものというのが、唯識論の根幹であろう。

・空思想に現されるところの、一切無的な思想からは、だったら現実にこうやって生きている現実はどう説明するんだい?と聞かれたら、答えようがないからである。

・私がおり、他人がおり、物があるという我々人間が認識する枠組み自体が仮のものである、それどころか妄想であるとするのが、唯識の主張である。

・映像に置き換えて考えると分かりやすい。映像は確かに妄想である。ある種の記号を、主体として、***と解釈しているだけである。

・それが真実であるかどうかはわからないのである。

・これは小説でもそうだろう。今日は、内田百先生の本を読んでいてそう思った。

・まったく内田百せんせは楽しい。まるで俺のことが書いてある。ブログの記事のようだ。こんなに楽しい方がいたんだ。文体も見事である。短文の積み重ねで、イメージを作り上げていく。

・最初は取っつきにくいかもしれないが、まさに思考の枠組みを取りこわされておられる方である。

・なんだか面倒くさい思考や、認識のあり方なんてものは、どっかに吹き飛んでしまっているのである。お見事である。

・こういうせんせを今までないがしろにしてきたことを、詫びねばならない。誰に?内田せんせに。


・「蜻蛉玉」が秀作である。ちくま日本文学シリーズで読んでいるが、この文庫本の解説が赤瀬川原平さんなのだ。これまた楽しい。そして内田せんせのこの「蜻蛉玉」をおすすめしているのだ。同感である。

・読むのがもったいないくらいである。しかし、この文庫は例の古本チェーン店で買ったものでワンコイン一枚であったから、定価的にはもったいないということはない。よって、おもしろいところにはグリグリと線を引いて読んでいる。

・なんといってもアタシの本ですからね。

・それにしてもある種の予感がする。のめり込むのではないかという予感である。

・ある本が、一冊でもおもしろいと次々と読みたくなるのである。

・丸山健二がそうであった。「爆走オデッセイー」を読んで、アタシャ、400CCのバイクまで買ったのだから、相当いれこんだのだった。(今は、丸山健二せんせは、おとなしくなったものである=アタシも)

・個人全集を買った作家というのは、こののめり込みがないと買う気にもならない。あたり前であろう。

・唯識は、岡野守也せんせに入れ込んだから、知ったのだ。岡野せんせの著作物はほとんど買った。買ったあげくに修士論文はご丁寧に「岡野守也論」であったのである。

・だから感謝しているのである。のめり込むような対象に出会ったということにである。

・人生はこうでなくちゃいかんと思っている。

・今は、我が師匠の本を集めさせていただいている。書かれたもの全部をアマゾンで探しては、買わせていただいている。

・弟子たるもの、そうでなくてはいけない。

・なんてったって、こちらは無知であるからである。知らないから、教えていだくのである。知を、贈与していただくのである。あるいは、考え方を、知るための方法論を学ぶのである。こんなに楽しいことはないのである。

・この「贈与論」というのも、レヴィ・ストロースから教えていただいたことで、まだまだこちらも学習中であるから、一丁前に記事にはできない。しかし、記事にしながら、書きながら勉強していると、ミスについても指摘してくださる方もおられるのかもしれないと期待しているからである。

・もっとも、5人くらいしか読者を想定していない貧者のブログであるから、期待はずれであろうとは思っているが。

・貧者と言えば、年金暮らしになってから、出費がない。反対に収入も乏しくなった。当たり前である。

・それに、毎日定刻に駅まで出かけ、11時16分ので東金まで出かける。そして、大学に着いたら、院生室にバッグを置いて、すぐ学食で昼食をとり、午後からの読書をする。ノート片手に、あるいは読書カードを持って。

・夕方5時には切り上げる。5時間も勉強できる。最後は決まって図書館である。死生学のVTRを今のところは毎日見ている。デーケン先生のである。カード片手にである。

・そして、求名の駅から、5時29分の電車に乗って自宅まで帰るのである。

・実に決まりきった生活である。カントのようだと言ったら、これは笑われるなぁ。。。。当たり前だ。

・知的生活というのは、こうした決まりきったリズムでないとできないと思う。

・どっかで読んだような書きぶりである。あ、あれだ。「知的生活の方法」を書かれた上智の渡部昇一教授の台詞だ。これもまた贈与論の一環であろう。

・今日も有意義であった。実によかった。



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4月17日(火)のつぶやき

2012年04月18日 03時20分41秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
18:45 from gooBlog production
読書感想文です goo.gl/FWisk

19:49 from web
やっと柔道教室に行ける。やっとです。今日は速攻で帰ってきたつもりだったが、いつもどおりの電車でございました。

19:49 from web
そんなことよりも、柔道。動けないのではあるまいかという不安が先に立つ。イツキという状態が一番怖い。パワーだけだとそうなるんですよ。もっともパワーもないですがね、今のアタクシは.

22:45 from web
幼子たちは、元気であった。久しぶりである。元気なのが一番いい。いいなぁ。純粋だなぁ。柔道やって、将来これで食っていこうとかの、算盤勘定がまったくないんだから。尊敬しちゃうですな。

22:46 from web
柔道のケイコから帰宅した。笑った。お尻の両サイドが痛くてたまらんのだ。筋肉が弱っているのだ。しょうがないな。まったくしょうがない。

22:49 from web
帰りにスポーツジムで、サウナ入ってちょっと筋肉を柔らかくしたケド。これではやわらの道に反するねぇ。体が固くなっているんだ。もう限界かね。60だもの、限界は通り過ぎているか。それでもいいから、稽古だけはやろう。今度は金曜日の夜にお邪魔しよう。まったく邪魔しているだけだケド。

22:52 from web
退職のご挨拶というハガキを出すのだそうな。しかし、どういう文面で書くのだ?まさか恥の多い半生でありました。お許しくださいませって書くのか?諧謔にしかならんじゃないか。誰だって恥かいて生きているんだからねぇ。

22:54 from web
大過なく・・・という文面も書けないですなぁ。ホントニご迷惑をおかけして、お世話になりっぱなしで、そのくせお返ししたこともまったくなく、・・だから恥の多い半生でしたって書くしかないのかな?仕方のないオヤジですよ。

22:56 from web
そんだったら誰にも出さないのがいちばんいいのだと言ったら、フル女房殿にいろいろお叱りを受けた。当たり前か。それが世間相場というもんだろうから。所詮常識のないワタクシ風情では、こんな程度でありますよ。

22:58 from web
と、ツイッターで書いたら、ハガキを送った方は本当にこころから感謝申し上げている方であるということを、ここで意思表示しているようなものである。

22:59 from web
出せない方にも、こころから感謝申し上げています。こんなでたらめな人生を送ってきたワタクシ風情に付き合っていただいて、感謝しているのです。本当にです。

23:08 from web
いろいろな学校にも感謝しているのです。今、通学している城西国際大学大学院には一番感謝しています。そしてこの間修了させていただいた武蔵野大学大学院にも。さらに放送大学大学院には、生涯学習の道を気づかせてくださったという大恩がある。

23:11 from web
本当にすべての方々に、組織に感謝申し上げたい。神様ありがとうという人は多いが、隣のと~ちゃんありがとうと言える人はなかなかいないと思っているからであります。また、亡き父母にも。もう少ししたら、ワタクシは山形の赤湯温泉にある亡き両親の墓前に行ってまいります。退職の報告にです。

23:14 from web
そして母校米沢興譲館を創ってくださった上杉鷹山公にも感謝してまいります。米沢の学恩なしに、現在のアタクシは無い。感謝のみあります。

23:16 from web
劣等生のアタクシが、定年まで教育に関わらせていただいたというこの幸運を感謝してまいります。上杉神社で、です。ありえない話であったからであります。

23:18 from web
人生不可解なりであります。本当にそう思います。あらかじめ予想できないからこそ、人生は面白いのかもしれませんけど。

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「死生学年報」を読む

2012年04月17日 18時59分16秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

城西国際大学風景「ピアノ池」

渡り鳥が来るそうな。。。。



読書感想文である。

「東洋英和女学院大学編 死生学年報」を本学図書館から貸出を受けていたので、院生室で読む

・この大学に死生学研究所があるのは以前から知っていた。女学院という学校名であるから、当然男子は入れないと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。ただし、大学院の方である。(違ったかな?後で大学のHPで調べてみる)

・今日、城西国際の門をくぐって、ピアノ池の湖畔を歩いていたら、大学の案内にピアノ池のことがあった。「冬には渡り鳥が・・・」だそうである。確かにそうであろう。ちょっと植え込みの上から覗いてみた。そしたら、バサバサと黒い鳥が飛び立っていった。警戒されたらしい。と言うより身の危険を感じたということか。なるほど、それなら分かるんである。生き延びてほしいと真剣に思った。

・渡り鳥と言うと、私もそうだ。大学渡り鳥である。学部だけは一つだが、(これだって新聞配達をしてやっと卒業できたんだっけ)専門学校を一つ、大学院を二つ(選科生を含む)、それで三つ目の城西国際である。この後もどっかの学部に進学する予定である。目標85歳である。絶対生き延びてやりまっせ。




・で、タイトルに戻る。

1 「ユング心理学における死生観」(高橋 原著 東洋英和女学院大学死生学年報 2005年 pp.165-180)という玉稿にえらく感心した。

・ユングは知ってのとおり、偉大なる心理学者である。ま、人によっては評価が分かれるのだろうが、そんなことは誰だってそうである。万人に誉められる人間なんていやしない。その視点というか、観点というかその目の付けどころにである。

・「死生観における知恵と悟り」という主題のもとに、分析をされている。

・このことは不肖アタクシもやってみたいことの一つでもある。だから参考になったのであるが。

・「ユング自伝」(みすず書房)でも死後の生について多く語られており、この書籍は不肖アタクシも持っていて、あちこちに付箋が貼られている。

・「現代の神話の語り部として認知されている」と、著者は言っている(同書 p.165)

・東洋的賢者と西洋の心理学との一致点からユングは語っているのだ。このことは間違いない。「賢者」なのである。老荘思想のごときものでもある。

・もっとも道教の影響を指摘される学者もおられるようだから、間違いはないのであろう。

・言い過ぎではないかとも思うのだが、吉田兼好や鴨長明もまた然りのような気がする。

・「ユングは悟りに近い境地に達していたようである」とは、高橋 原先生のご指摘のとおりであろう。(同書 P.165)

・「自我と無意識」という著書がユングにはあって、そこに人は個性化することが望ましいとある。むしろ不可欠であるとすらしている。

・他者と無意識に混交しているという状態は、自分自身ではなく、自分自身と不一致している、不自由で非論理的、神経症的で耐えがたい状態である。他者と主体を言う構造主義的な哲学とも傾向としては、似ているのではあるまいか。

・それにはある意味技術が必要となる。仮面をかぶっている自己を認識するしかないからである。他者と混在して生きるには、確かに仮面の存在は必要である。

・体験としてもそれは言えることだ。いくつもの仮面を持ってこれまで生きてきた。特に校長時代はそうである。自我を丸出ししてはなかなか生きるのは困難であったからである。

・今だから言えることである。

・ユングはマンダラを用いることもある。日本語でいうところの曼陀羅とは違うものである。

・夢などに現れる無意識の状態を表す象徴的図形である。個性化をすることが目標なのである。



・個性化とキリスト教という点ではどうであろうか。ユングは、イメージの持つ喚起力を重視した。そして、イメージを介して無意識に向かい、死さえも安んじて受け入れられることを示唆している。

・ユングは、キリスト教を必要としていなかったのではなく、自らも言うようにその延長線上にいたのではないのかと思う。

・しかし、ちょっと違うような気もしているのではあるが。



2 平山正実先生はこの研究所の所長である。この年報に「宮沢賢治の悲嘆体験と立ち直りの過程について 妹トシの死との関連において」(同書 pp.13-34)に玉稿がある。

・私はこの論文を読ませていただいて、まったくタイトルのとおりの宮沢賢治の心的な世界があったのだろうと思った。

・特に妹のトシは賢治のもっとも愛した肉親である。その死を悼む賢治の心境は痛々しいばかりである。

・高校時代に初めてこの詩に接してから、非常に不気味な恐ろしさを感じてきたが、やはり普通の感覚からは理解しがたい賢治の悲嘆であったのである。

・それはある意味、「絆」でもある。平山先生の言われるとおり「再統合」である。妹トシの死は、賢治に死後も相当な影響を与えているからである。

・今回平山先生が指摘されているように、妹のトシは、日本女子大学の当時の学長成瀬仁蔵の影響も相当あるということを教えていただいて、なるほどと思ったのである。成瀬は最初キリスト教、以後献身して牧師やミッションスクールの教師を経て留学。ところが、タゴールやメーテルリンクなどの影響もあって、宗教の枠を超えた思想を持つようになる。

・このことである。賢治も、妹トシも共通の宇宙観、宗教観を持っているのではないかという平山先生のご指摘に同感である。

・賢治とトシの間には、宗教観や信仰観で共通している。宇宙と自己の関係について深く思考しているトシは、まさしく成瀬の影響を受けていたと考えるのが妥当であろう。

・賢治もまた宗教こそ違えても、トシと同様の思想を持っていたのではないか。

・賢治は、知られているように「漢和対象 妙法蓮華経」を読んでから、一生の行動と思想を決定したのであり、父の信仰する浄土真宗との決別でもあったのである。

・また内村鑑三の弟子斉藤宋次郎などとも交流があった。私はこの斉藤宋次郎という人に非常に興味を感じて、銀座の教文館にも通って書籍を買ったりしてみたことがある。雨にも負けずのモデルであったとする先生もおられるからである。新聞販売店を経営されていたし。私と共通するかもしれないと思っていたからである。

・賢治は、トシの死をもって初めて再生への旅を始めたのであろう。春と修羅という作品にはその傾向性が色濃くでているのである。

・善と悪、光と闇を対立的にとらえるのではなく、一元的、総合的にとらえようとしていたのが、賢治ではなかったのか。

・このことはある意味、トランスパーソナル的でもあり、ユング的でもある。おもしろいものである。

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/