と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

なんということを・・・・・・

2012年08月31日 21時31分21秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

親の「うつ」で施設への入所が急増!子どもを苦しめる“心の傷”と貧困の連鎖 - コラム - ビジネスEX

 

 こんなニュースを見させていただいた。

 なんということであろうか。まことになんということであろうか。このようなこともあり得るかもしれないとは感じていたが、まさか真実であったとは。

 哀しいことである。母子ともにである。誰をも責められんだろう。高みから見物しているわけにもいかんではないか。いたいけな赤ちゃんが思い浮かぶ。悩んでいる若い母親もだ。こういう時代になったのだと割り切ることは、愚生にはできない。だいいち、そんなことを言っていられるほど、冷血人間でもない。

 なぜだろうと思った。経済か。仕事がないからというのも大きい理由である。それはそれで政治と経済界に頑張っていただくしかない。

 愚生の思ったのは、当事者である若い親たちの姿勢というか、なんでもずけずけ物を言っていれば対話が成り立つとか、それを有効なコミュニケーションであるとする時代的風潮のことである。大いに問題がある。受け手である相手のことを慮ることなく、自分の言いたいことだけをずけずけと言っていて、それでいいんだろうかとふと思ったのである。対話もなにも全部相手との勝ち負けの勝負だと考えているとするならば、さもしい限りである。勝ち負けだけが人生ではないはずである。時には勝つこともあるだろう。あるいは時には負けることもあるだろう。

 相手がいてこそである。夫婦だって、相手がいるから夫婦であって、そうでなくちゃ夫婦とは言わない。あるいは、柔道だって相手がいるから柔道である。もっとも、相撲節会のように神に奉納するための一人相撲というのもあることはあるが。

 なんだか非常に楽しくない状態である。孫がいるからかもしれない。もしオレの孫がそういうことになったら、どうすんだい?ってことを想像してしまうからである。嘆かわしいことである。そりゃぁ離婚がどうのこうのと言えた義理ではない。そういう事例も多いからである。

 しかしながら、このニュースはちょっと次元が違うのだ。いいのだろうかと思うからである。対応策はおそらく無いであろうと思う。どんなに立派な秀才が対応策を考えたって、これはなかなか解決策が見つからないであろうと思う。

 困ったものである。

 最近はやりの個人責任にしてしまうのか?違いますな。さりとて、行政の責任にするってことはないですな。なんでもかんでも行政が悪いってことは、ちょっとねぇ・・・破綻しているから。そういう考え方は。

 主体となるべきは赤ちゃんであろうと思う。ナニガ赤ちゃんにとって仕合わせなのかという視点が大切であるような気がするのだ。当然であろう。赤ちゃん主体で考えれば、忍耐とか、我慢とか・・・・・いろいろ出てくるような気がするからである。

 そもそも、最近のおばさんには変声期もあるんだということに、この間初めて気がついたのであるから。プリティであったかつての少女達は、変声期を乗り越えているのだ。そういう現実もあるんだと初めて知ったのである。当然か。男と同じような、あるいはそれ以上の苦労をしながら世間の荒波を乗り切ってこられたのだから。

 

 

 察しの良い拙ブログ読者サマは、最近の愚生がどうやら民俗学系統ばかり書いているのに気がつかれたかと思う。そうである。こちら系がそもそも好きなんだけれども、それが専門ということでもない。小説がまったく出てこないのも不思議だと言われる方もある。当然である。意識して小説を書かないようにしているのだから。小説を取り上げ始めたら、終わりの無い旅になってしまう。それだけ好きなんである。だらだらとなんでも書き始めるような気がする。我慢して古典系に絞っているのである。(^0^)

 そういうことである。そういうこと。

 なんだかオヤジが一人で嘆いたり、悲しんだりしているだけかも知れないが。だけど、誰かがこういうことを伝えていかなくてはならないと思う。

 じゃぁ!

 

 

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いきに生きたい・・ホントか?

2012年08月30日 07時56分24秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 無明を生きているというのは、良くないことだと思ってきた。そういうように思わされてきたのかもしれない。欲に囚われ、自我に囚われ、出世に囚われ、金銭に囚われ、クルマに囚われ、あとなんだ?・・・・まだまだたくさんあるかもしれないが。つまりそういうことの反面に、悟りへの憧れというものがあるのかもしれないということである。泰然自若というか、ちょっとの異常事態でも慌てないという心境に憧れていた。

 しかし、ちょっと待てよということを考えた。いいじゃぁないか。囚われていたって。無明を生きていてもだ。なぜそんなことを考えたかというと、九鬼周造の「いきの構造」なんていう文章を読んでいたからである。これ、哲学書なんだけど、実はとってもおもしろい。「いき」ということについて考えたおそらく世界で唯一の哲学書なんではないかと思う。

 『「いき」の構造』の「序」のなかに、「生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ」という言葉がありますが、哲学を単なる論理としてではなく、生きた現実そのものに触れ、それを把握するものとして理解していたところに、九鬼の哲学の大きな特徴があります。『「いき」の構造』という著作も、そういう九鬼の考え方から生まれたと言えます。    
  京都大学教授 藤田正勝先生
  所属,文学研究科 職名,教授 生年,1949年 専門分野,哲学・日本哲学史
    京都大学高等教育研究開発推進機構HPより引用        

    http://www.z.k.kyoto-u.ac.jp/pocket.cgi?action=course_detail&id=1802

 禅宗の本にもあった。
 禅問答の題材(公案)に、「婆子焼庵」というのがある。昔、ある所に老婆がいて、一人の禅僧に安心して修行に励めるよう、小さな庵に住まわせ、食事や身の回りの世話をした。しばらくして老婆は、禅僧の心の内を計ろうと、 美しい娘に身の回りの世話をさせた…禅僧が、娘の色香に惑わされるようなら、叩き出すつもりでいた。しかし、数ヶ月過ぎても、禅僧は娘に心を動かされることはなかった。 ならばと老婆は、娘に禅僧に抱きつくように指示した…娘は、座禅をしている僧の後ろから、 いきなり首に抱きついて、「こんなことをしたら…どうなさいます?」
  禅僧は冷然として答えた…
 「枯れ木が冷たい岩に寄りかかっているようなものだ…少しもその気にならん」
 いかにも修行僧らしいみごとな態度に、娘は恥ずかしそうに戻って、老婆に告げた。 娘の報告を聞いた老婆…禅僧を庵から叩き出し、庵に火をつけて焼いてしまった。

 この話は、人間である限り、性欲・物欲・執着心などの煩悩を消し去ることは不可能であると解釈すべきなんだろう。なのに、さも悟りきったように振舞った禅僧が、偽善者であることを老婆は見破ったというものであると愚生は思う。苦行の末に悟りを得たからといって、煩悩がなくなることは決してないことを、問答を戦わす中から学ぶんだろう。

 これが何を意味するのかということを現役の職業人の時はよく考えていた。言っていることと、潜在意識というのは全く違っているのではあるまいかと思っていたからである。クチでは、オレは生涯一市井人で生きるとか、世の中の片隅で自分なりに生きるとか、出世なんか無縁に生きる崇高な人間であるとか、名誉とか勲章とかそんなモンいらねぇよということ等を標榜される方がおられる。それが殆どの場合にクチだけであるのを、年齢を重ねて、わかってきたからである。
 
 つまり「ポーズ」なのであった。クチだけでそういうことを言っているだけだったのである。ほんとうは、一市井人として生きることを否定し、世の中のど真ん中で活躍したいし、出世もしたいし、カネも儲けたいんであるのはミエミエであった。そういうことを言うということ自体、それらの現象に囚われているということを自ら告白しているようなものである。「オレは執着なんかしてねぇぜ」という言い方は、見事に「執着」を表明しているようなもんであるからである。

 しかしながら、囚われているのもまた楽しでありますなぁ。(^0^)

 九鬼周造の言ったことは、「いき」ではあるが、こういう執着している愚生のような一般ピープルにもある意味救済である。「いき」って、現実にまみれて、いろいろ苦しんで、それでいいんであるってことですなぁと思ったからである。

 ダブンを書いているのも、オレにとってはまさに「無明」を生きているようなもんだ。昨日の大妻女子大元教授の渡邊昭五先生の著書(「中近世放浪芸の系譜」 岩田書院 2000.2)に刺激されたんである。語り口も見事であるが、一番最後に学会での出来事がいろいろ書いてあった。ほんとにいろいろおありになるんだなぁと思ったからである。そして、ついに年齢的なものもあって論文執筆や研究活動から引退されるあたりを書かれていた。大変におもしろかったのである。

 ある意味、いいんだ、いいんだと~ま君!と激励を受けたようなものである。そのままでいいんだよって。どうせモノにならならないだろうけど、いいんだよん!ってね。囚われ、執着して、迷い、這いずり回り、おそよ悟りとは異種の世界でノタウチ回っていくしかないようである。

 いきに生きたいっていう覚悟だけはあるんですがねぇ。さ、これから「いき」に、斜に構えて電車に乗って、とぼとぼと学校に行こうっと(^0^)

 

 

※昨日書いていたTwitterの記事が拙ブログに反映されていませんが、どうしたんでしょう・・・オレと一緒でとほほ状態なんかね?ま、いいか。

 
 

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8月29日(水)のつぶやき

2012年08月30日 05時31分12秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

09:01 from gooBlog production
E先生とのちょっとした会話 blog.goo.ne.jp/tym943/e/07ffc…

16:29 from web
午前中ははがきの印刷をしておったのだが、やはりというか失敗をしてしまった。退職してもこんなのがあるんだねぇ。ま、しかたない。退職校長会の案内のはがきなり。この地区の。

16:32 from web
午後から急いで本学図書館で駄文を書いていた。急がないといかん。今朝送った原稿は受理された。さらに、もう一本ある。こちらも楽しみにしていた駄文である。古典文学と危機管理である。さらさらといけるだろう。あ、だから怖いのだ。内容が伴わないかもしれない。笑

16:33 from web
やればやるほど、実力がかんばしくない、あたまわるぃなぁと慨嘆してます。はなしにならんのですわ。

16:37 from web
渡邊昭五大妻女子大学の先生であられた方の本を図書館で拝見していたら、えらく共鳴するんでなんでだろうと思っていた。民俗学的な視点も好きだが、江戸っ子らしい見方や考え方がいいんだ。

16:39 from web
先生はカード派らしい。あたしゃ、カードをやめてしまった。分厚いノート派になっている。ま、手段にこだわることなかれ。目的を履き違えてはならない。

16:40 from web
しかし、いつまでも暑いです。なんでだろうかって思っても、どうにもならんですねぇ。

16:41 from web
こういう暑いときも、ジムで鍛えることです。そういうことです。

by tym943 on Twitter

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E先生とのちょっとした会話

2012年08月29日 08時59分30秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 昨日、大学の図書館にずっといたので、そろそろ帰宅しなくちゃと院生室に向かってキャンパス内を歩いていた。学校の現役教師たちの教員免許更新講習が開催されていて、知っているヒトをちょっと捜したがいなかった。もうそういう方々とも縁が切れていくんだろうなぁと少しばかり寂しくもなったが、仕方ない。最後はこの世とおさらばであるから、なんでもいいんだが。

 そして、17年前からお世話になっている本学のE教授とちょっと立ち話をさせていただいていた。院生室のある建物の前で。このE先生がおられなかったら、本学の受験を決意しなかっただろうと思うからである。九十九里高校、松尾高校の教頭をさせていただいていたときに、本学にE先生のご指導をいただきたくて何回か訪問したのであった。退職したら来ませんかと言っていただいて、それ以来、ずっと夢見ていたからである。可能ならば、仕事をしながら学びたかったが、教頭というのは非常に多忙である。本当に忙殺されていたから、そんなことは夢のような話であったのだ。学会活動なんてできっこないし、やっていたらその後校長になることもできなかっただろう。教育実践が最優先されるのが、高校以下の学校だからである。ヒトの噂話は怖いもんである。なめらたあかんでっせ。だから、そのささやかな夢が、定年退職後に実現したのである。おめでたい限りではないか。(^0^)

 つまり、ちょっとしたきっかけで大学進学というのは、実現してしまうのである。決意である。ちょっとしたきっかけを大事にしているかということである。あるいは、ちょっとした人間関係を掌に大事に大切にしまっておけるかということである。

 そのちょっとしたきっかけということで、またまたダブンをメールで送らせていただいた。研究発表要旨というものである。1000字である。ベースになる原稿はほぼできているから、その要旨作成作業に今朝早く起きて(その前に老犬の散歩をして)まとめた。結果は懼れない。駄目なら駄目である。仕方ないではないか。いじけないことが一番大事である。

 実は、今勉強させていただいている分野はあまりにも広大で、最近いじけていたのである。オレ程度でこれを論文にまとめることなんて不可能だと感じはじめているのだ。とんでもない世界に足を突っ込んだものだと思ってきたのである。

 哲学博士が一番取得できない分野であるというのは、知っていた。文学関係の博士は神のような能力が無いと不可能であろう。こういふ世界を垣間見た、見ることができたというだけで感謝である。

 あまりにも膨大な読書を経ないと、論文だって書けない。当たり前である。だから、そういう意味では謙虚である。 

 高校の教科書レベルの概論的な知識で、論文は書けない。だから、アタシャ自分のくだらない文章を自虐的に「ダブン」と称しているのである。当たり前である。学会活動だって恥ずかしくてできるわけもない。このBLOGに書いているのがちょうどいいくらいである。ダブンと論文では全く違っているからである。そのあたりは、よ~くわかっているつもりである。昇任試験のようなものとも違うのだ。就職試験で書く小論文というのとも違うのである。そもそも、進学のために書く文章を小論文と称するのも、愚生はかなりの違和感があるんだけど。

 なぜ、そんなことを考えるようになったかというと、学部時代に小林勝人教授という中国哲学の碩学に薫陶を得たからである。先生は、「全釈」とか「完訳」とかの言葉を極端に嫌われていた。ともかく「完全」という言葉をお使いにならなかった。

 全くミスのない文章というものがあるだろうか、ましてや研究論文に至ってはということであったろうと思う。神のような完全な人間はいないからである。完全という言葉はそれほど厳しいものである。

 しかしである。だからと言って引っ込んでいるわけにもいかんだろう。昇任試験論文、就職試験論文、大学進学のための論文試験というものにもチャレンジしなくてはならない人も多いからである。 

 神のごとくあれという呪縛から自分を開放することである。それが、「ロンブン」対策のコツであろう。完全に書くことなんてできっこないと割り切れば、かえっていい文章、合格可能な文章が書けるのではないかと思うのである。

 だって、全ての人を満足させる文章というのは、あり得ないであろうけれども、もしあったらそんなのは何の特色も視点もない透明な文章でしかないだろうからである。

 


 
 能力がないから困っている、この後はまた通信で勉強をしてみたいとE先生に申し上げたら、そんなことを考えずにずっと専門にこだわりなさいよとアドヴァイスをいただいた。ありがたいことである。

 人的資源ということであろうか。これもまた本学に入学させていただいて、こころの底から感謝していることである。すばらしい大学である。

 さ、これからこの地区の退職校長会開催案内はがきを印刷である。90枚である。往復はがきを買ってきます。

 じゃぁ!
 

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ささやかな美酒

2012年08月28日 09時25分16秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 こころ許した旧友・級友(言い方はなんでもいいが)たちと、ささやかな美酒を含みながら晩夏の趣を味わうのは乙なものである。もう利害関係だけで酒を呑むという機会はまったく無くなったから、実に爽やかである。こういう呑み方ならば、薬酒にもなろうかと思うくらいである。条件は、こころ許した相手である。しかも、仕事のからみが無い方がよろしい。

 昨夜は銚子で鯖づくしであった。美味なり。実に美味なり。こういふ美味なるモノをぜひとも味わいに来てくだされませ。(^0^)

 もっとも、愚生は銚子に住んでいるわけではないのだが。大学に夕方までいて、定期券で銚子まで行ったのだ。あ、乗り越しだから、ちゃんと料金はSuicaで払いましたですよ。(ご心配なく・・)

 昨日は大学に行く前に、駅前の書店に寄った。佐藤優先生の読書法の本で知ったのだが、大学受験用の政治経済の高校参考書「理解しすい政治経済」(シグマベスト社)の帯に、佐藤優先生の同書に出ていると目立つように書かれていた。笑った。商魂たくましい。ま、そんなことはどうでもいい。実は愚生はすでにこの参考書をAmazonから古書で安く買ってしまったからである。眺めていたら、実にいい参考書だ。編集方針が独特である。こりゃいいというわけで、「日本史B」「古典文法」「英文法」も買ったのである。で、古典文法の方を電車の行き帰りでほぼ読了した。細かいところは、これから再読・再読であるが。

 古典文法ではさらに感心した。なるほど、こういうように教えれば良かったのかと理解できたのである。著者によってこうも違うのかということである。助動詞と、助詞の考え方が違っている。大学受験にもいいんだろうが、実は社会人にもいいのだろうと感じた。そもそも、高校の教科書レベルの知識というのは大人になっても実に役立つものである。そういうことを佐藤優先生は言われているのである。だから、購入して勉強しているのである。

 大学受験というと、一昨日・昨日と本学はオープンキャンパスをやっていた。実は気にしていた。高校生の動向がである。かなりの訪問をいただたらしい。大学の事務関係の方方にお聞きした。良かった、良かった。昨年までは、前の職場である県立銚子高校の生徒募集にあの手この手と、インターネットの動画まで駆使して、さらに銚子の日刊紙までご協力いただいてやっていた。このBLOGもその延長上にある。せっかくやっていたのだから、止めるなと言っていただいたこともある。ありがたいことである。

 本学のことを随分聞かれる。高校の方々にである。当然であろう。本学に在学しているのだから、愚生に聞けば様子がわかるわけである。できるだけの対応をさせていただいている。ただし、退職人、社会人からは問い合わせは全くないが。当たり前か。

 


 昨夜も老年をいかに過ごすかという話題が出た。
 老いは確実にくる。そしていつまでも若いまま過ごすことは不可能なのである。それを嫌っても、無駄である。オレだけは若いんだと言ってもダメである。老いたら老いたなりに生きればいいのである。年齢相応。だからチャレンジするのである。老いても逃げないのだ。前を向いていくのである。単純に遁世してはならんのである。
 
 老いたから完成したと言ってもならんのである。完成は年齢とは関連しない。だから、上から目線で他者に「まだまだ若い」とか「おめぇなんか未熟だよ」とか言っちゃならんのである。言っているご本尊のあふぉさが、出るだけだからである。未熟なのは自分の方だと思っている方が安全である。 

 それと人間というのは誰でも自分のことを自慢したがる?そんなふうに思ってはならない。いろいろ他者が持っている価値基準を引き下げるようなことを言う輩がいるが、あれはむしろご自分の価値を低下させていることに気がつかれた方がよろしい。例えば、他人の所属組織をけなす方方がいる。会社ならば経営が危ないんだろうとか、である。そういうことを言うなら貸借対照表を根拠に理論的に言ってほしいものである。感覚でものを言ってはならんのである。でないと、馬鹿にされますぜ。そういう方を相手にしているほどヒマではないんである。



 Twitterでは書いたが、教職大学院のことが読売新聞のトップ記事になっていた。さもありなん。経済用語でその記事も書かれていたが、教育を経済の視点から考えていいんだろうか。大学とか大学院とかって、儲かるからやるんかね?
 もっとも、教員になるくらいのヒトは、儲かるから教員になったわけではあるまいと思うのだ。そこには信念が無くてはならない。
 あるいは教育が手段ならば、高校の教員になるために大学に行ったのだろうかと思うことがあるのだ。もったいないほどの実力を持っておられる方が、高校の教員になられている。しかもたくさんおられる。

 教えること、教育の喜びというものがあるからであろうと思う。子育てに共通するものがあるからである。

 

 

 ま、これくらいにしよう。

 今日も暑いが、お体お大事に。

 

 

 夜には、またここに登場しますので。

 

 

 

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8月27日(月)のつぶやき

2012年08月28日 03時46分26秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

13:16 from web
今朝の読売新聞のトップ記事に、教職大学院の定員割れが大きく報じられていた。なんということであろうか。慨嘆している。そうだったのか。そうでありましたか。

13:17 from web
駅の売店で買ったのだ。読売を。一面がそういう記事だと、買わざるを得ない。

13:19 from web
そして、今、隠棲室で再度考えている。なぜ天下の大新聞が、一面で教職大学院を扱っているのか?ということである。なにか裏がありそうだと思ったからだ。

13:22 from web
読売の記事をよ~く読むと、やっぱり経済用語が使ってある。教職大学院に行っても、昇給しないし、採用も有利になららないからだとある。メリットもないからだとのことだ。だからであると書かれている。なんだか、教職大学院なんかあってもなくてもいいみたいな感じだ。

13:23 from web
しかも、東京都の教育行政担当者が、実践力が無いから・・・とまで言い切っているのである。これはゆゆしきことである。はたしてそうか。ほんとうにそうか。

13:32 from web
理論と実践が結びついてこそ、教育実践家であると思うのだが。違うのかねぇ。間違っていたのか、アタシは。もしかして壮大な無駄をしていたってかねぇ。実践だけやっていればいいとか、教育理論の勉強だけやっていればいいっていうのは、実に人を小馬鹿にしていると思っているんだけど。

13:36 from web
今日は、夕方6時から銚子市内で級友(旧友?)たちと一杯やります。楽しみ、楽しみ。退職してからは、そんな機会もなくなってしまったなぁ。

13:36 from web
通学用定期券も半年分買ったので、直行しますが。会場まで。

13:37 from web
さ、これから大学の図書館に籠ります。ダブンを書かないと。参考文献のそばでいろいろと作業もしなくちゃいけませんから。じゃぁ・・・・!

22:36 from Tweet Button
落合博満氏が「顔面麻痺」で救急搬送され地元住民が心配する @livedoorsports news.livedoor.com/article/detail…

by tym943 on Twitter

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遠山や高遠というふこと

2012年08月26日 23時45分18秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 奥羽山脈の中腹を眺めながら少年時代を送ったせいで、森林と湖沼のある自然と人間と目に見えない精霊のようなものの関連性に考えを致すことがあった。特に森の精霊のようなものに、不気味さを感じていた。特にどうということはないのだが、なんだか森にはワクワクする。森の中の湖沼にも、不思議な魅力があった。つまらないことではあるが、そういうことを感じる能力が愚生にはあったような気がする。恥ずかしながら。パスカルの言う「隠れたる神」というようなものを自然であると考えてきた。そうするのが、東北育ちの愚生の特性なのかもしれない。

 育ったところは盆地であり温泉地でもある。さらに、実家のすぐそばには「館の山」という小高い丘がある。盆地の中にぽっかと浮かんでいるような不思議な丘である。そこには神社があった。おそらくは地元の神を祭ったものであろうと思っている。今でもである。だいたい、名前からしておそらくは土地の土豪の住む地であったのだろう。石段がちょっと続いていて、参詣の道がある。麓の道の左右に昔風の日本家屋が建っている。もし土豪の住む地であったなら、これらの家屋はその土豪の家来であったのかなぁと思う。思うだけで、確かめてはいないが。そんなことを思うと楽しいものである。

 館の山の麓には、愚生の父方の祖母がいて、伯母がいて、多くの従兄弟たちと共に育った。愚生の実母が小学校の先生で、朝早く学校に出かけ、夜遅くまで家に帰ってこなかったし、要するに預けられていたのである。父母と住んでいた家は近くにあったからである。だからと言って母のことを悪く言うつもりは全くない。それはそれで立派な生き方であったと思うからである。(愚生にはできない生き方であった・・・・とほほ)

 そして従兄弟達と共に、その館の山で、神社で遊びまくった。好きだったのである。その山が。幼い時はずいぶん大きな山だと思っていたが、定年後訪問して神社に参拝したら、ちっぽけな山だった。山と言うには申し訳ないほどのものであった。周囲にある奥羽山脈や、飯豊山、朝日連峰、吾妻山がえらくでかく見えている。こんなものだったのかという感じで違和感があった。なぜだろうと思っていると、あっと気がついたことがあった。それは、愚生が広大な太平洋に臨む九十九里平野にもう40年も住んでいるからである。大きさが違う。広大である。あまりにも大きい世界が広がっているのである。だから、千葉県の人々というのは器がでかいのだ。大物が多いのである。凄いことである。自然がヒトをつくっていくのであるから。

 さて、なんでこんなことから書き始めたかというと、愚生の幼い時の体験は、山間の狭い空間で経験したところの自然と人間と神の一体化した場所であったからである。それが何を意味するものであったのだろうかと思うからである。

 柳田国男の民俗学研究に「東国古道記」というのがある。非常に好きな研究成果である。というよりも、愚生にはある意味文学作品でもある。

 思うに、折口信夫もそうである。まるで小説を読むような研究が多い。お二人とも文章に優れている。

 さて、東国古道記である。何が書かれているかというと、信州の遠山や高遠のことである。(柳田国男著 「柳田国男全集第19巻」 1999 筑摩書房 pp.301-332)

 「誰がこの一帯を遠山と呼び始めたかと考えると、海道の側からならば、まだ幾つもそう謂ってもよい谷があったに反して、北から入って来れば是が唯一の遠山であった。」と書いてある。本当に引き込まれる。柳田国男には。

 能楽研究で高名なる吉田東伍博士は、大日本地名辞書で、美濃の恵那郡の岩村の西南にある馬場山田や上手向のあたりを遠山村と呼んだと書かれている。

 美濃や、三河や、遠山から信州の内陸へと入り込んでいく人々の意識がそこはかとなく伝わってくる。すなわち、南側からの視点でもって、見られているのである。

 実は、その遠山村で行われている祭りに興味があったのである。「霜月祭」である。遠山の領主であった遠山土佐守が元和年間(1615~1624)に百姓一揆のために殺されたので、その死霊のたたりを鎮めるために行われたとする説もある。否、そうではなくて、その霜月祭と同じ祭りが、愚生のふるさとの館の山で行われていたことが興味深いのである。

 「湯立て」の神事である。神事には、たぎりたった大釜があった。多くの祭りの参加者がいて、朝からごったがえしていた。幼い愚生は楽しくて楽しくて、ルンルン気分でいたものであった。

 神事の中身というと、神社の拝殿で祭りの中で山伏のような格好をした老人が周囲の者どもにさ、さ、と熱湯を振りまくのである。笹であったが、遠山谷は素手である。仮面をかぶった人が行う。共通しているのが、その熱湯をかぶると一年健康になるという伝承があることである。幼い愚生は逃げまどっていた記憶しか無いが。

 共通することがもう一つある。この神事が終わると、厳しい冬がやってくるのだ。信州も東北もである。両地ともである。

 この神事を、単純に周囲を取り囲んでいる山々を自然神と見なして、そこに生きる人々が祈っているとするは危険かもしれない。

 むしろそれは、自然という神もまた良い神と悪さをする神と両方がいて、悪さをするような神、つまりあまりにも厳しい寒さを招来するような神をお送りするという「神送り」のような思いが伝わってくるような気がするのである。自然と人間と神というものが共通する世界が展開されているのである。それを研究すること、それが民俗学の定義であるとされるのが谷川健一先生であるが。

 リスクということと、伝承と文学ということについてもダブンを書いている。和歌文学も関わってくる。楽しいことである。実に楽しい。

 さ、明日から本格的に通学して、読書ざんまいである。修行僧のようなもんだ。

 もっとも、愚生の場合は破壊僧か。

 確かだわなぁ・・・・。


 

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8月25日(土)のつぶやき

2012年08月26日 03時57分58秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
07:21 from Tweet Button
(^0^)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・@とても子どもに見せられなかった「不祥事高校対戦」臭いものに蓋の甲子園 @livedoorsports news.livedoor.com/article/detail…

07:22 from Tweet Button
言うときは言う・・・・・・・・・・・・・・・@美輪明宏 女子サッカー代表に「なでしこの名にふさわしくない」 @livedoorsports news.livedoor.com/article/detail…

07:29 from Tweet Button
嗚呼勘違い・・・・・・・・@五輪で大きく株を下げたバドミントン・潮田 @livedoorsports news.livedoor.com/article/detail…

07:33 from Tweet Button
・・・・・・・・・・・・・・・・@キリストが残念すぎる姿に…80歳アマ画家がとんだ“修復”:社会:スポーツ報知 hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20…

07:39 from Tweet Button
携帯はぁ~トイレのフタよりもきったねぇって・・・・・・・・だろうなぁ@#koneta #niftynews news.nifty.com/cs/item/detail…

15:25 from gooBlog production
だじゃれのような書き込みですが・・(いつもか) goo.gl/4I44i

15:51 from web
孫が帰った。さみしいねぇ。世の中にこんなにかわゆいもんがおろうとは・・・・思いもしませんでしたな。(^0^)/ウフフ

15:52 from web
トシをとった証拠なり。それもいいですねぇ。じじぃと呼ばれるのは。。

15:53 from web
だっこしたときの、あのぷにゅぷにゅとした感覚は忘れられんです。オレの孫だと思うと余計、こっちはこの世から去っていくんですが、愛しくなっちまう。

15:56 from web
もうすぐ4時だ。夕方であります。これから老犬と散歩。老人と海ではないけど、老人と老犬だ。熱中症にならんように、とぼとぼと歩きますわ。

15:58 from web
それから塾だ。銚子のスーパー進学校の女子生徒に小論文の宿題を出してあるから、どれだけできたかな?かなりハードな論文を課したが。できるだろうけれども。もっとも、来なかったらどうしようもないか(^0^)

16:01 from web
最近柔道教室に行っていない。。。。。暑くて寝技をやっていると、無酸素運動になっちまう。血糖値が上がる。よくない。健康に良くない。こんなんじゃ、ジュウドウ4段の永久ライセンスを更新することは不可能ですなぁ。あたりまえか。オレ程度ではねぇ。ホントに中途半端なんだもん。

16:02 from web
塾の帰りには、ジムに行こうっと。ちょっとだけ運動して、サウナに入ってこようっと。楽しみ、楽しみ。じゃぁ。。。。。

by tym943 on Twitter
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永久歩行者といふもの

2012年08月25日 15時17分59秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 生涯歩き続けた信仰者や、芸能者というのがいる。否、いたというべきであろうか。一所不在の、永久の放浪者というか漂白者というか、そういう方々がおられたのである。一種の憧憬の対象であり、きちんとした職業の人々にこそ、そういう方々への憧れがあるのかもしれない。

 山頭火などは特にそういうことであろう。山頭火に憧れる人もいるからである。事実、愚生もそうである。すべてをウッチャッテ、放浪の旅に出るというのは、なかなか格好がいい。固ぐるしい日常を抱えている人ほど、そういう非日常性に憧れるのであろう。わかるような気がする。これまではである。しかし、アタシは、もうオカタい日常というのがない。ただただ、とぼとぼと生きているだけである。仕事をしたくても、やらせていただけないからである。(笑)

 ただし、放浪の旅人というのは、常にのたれ死にの危険性を持っている。

 歩き巫女という方々がおられる。神につかえている方々である。神に憑かれたように、ひたすら歩き続ける。途中、野犬にあったり、強盗に襲われたりするかもしれない危険性をあえて冒して旅を続ける。背後には、留まるということがないということがある。留まったら死である。停滞は悪であるからである。それほどの覚悟を持って歩き続けるのである。停滞が悪であるならば、流動は善であり、その意味で実にシビアな生き方であると思わざるを得ない。

 空也上人という方がおられた。彼を慕うある種の人々は、阿弥陀聖という方々である。宗教的な衝動を生涯持ち続けながら旅を重ねていかれるのである。お遍路というのもそれに近いのであろうか。もっとも、お遍路は宗派が違う。

 しかし、お遍路にも生涯周り続ける方々がおられると聞く。

 理由はいろいろであろう。家にいられないという理由の方もいるかもしれない。そのことをどうのこうのと言うつもりはまったくない。そうではなくて、共同体の中で生活することがどうしてもできないという方々のことを考えているのである。血縁、地縁、職場のしがらみ等々の理由はいくらでもある。そして、退職後はそういうしがらみと全く無縁で生活できるということを楽しみにするという方々もおられる。ホントは、そういう簡単な話で済むことではないのだが。どうしても一回人生をリセットしたいという方はおられるのであろう。それもまた良し。いいではないか。自分の人生だもの。どう生きようとである。

 アタシャ、どっちだろうと思うことがある。

 座布団に座って、鼻毛を引っこ抜いているというタイプで、一カ所に安住しているというじじぃではないようである。猫のように、かわゆく「にゃぁにゃぁ」と媚びを売っている暇があったら、なんか次のチャンスをねらって行動をしていくような人間らしい。

 安住が苦手だし、家族とか共同体とか、政治的な野心とか、派閥とか、人脈とかまったく無縁で生きてきた。だから、歩き巫女のような旅に生き、最期は異郷の地で野たれ死にをしたいのである。でも、我慢している。迷惑になるからである。それは矛盾である。矛盾だからこそ、歩行への憧れが止まないのである。ほとんど病気のようなものである。

 この夏、鬼来迎を見ていて思ったことがある。あの伝承を伝えた方々、その源流というのはそうした歩行者の存在を抜きにしては考えられないのではないかと。また、九十九里沿岸に伝わる伝承は、紀伊和歌山からのものがかなり多いということについてずいぶん考えさせられたのである。銚子に、山武郡に、安房に、幾多の伝承があるのである。私にとっては非常に楽しい話である。だから、いろいろと参考文献にあたって、この半年を過ごしてきた。

 鬼来迎で言えば、現在の舞台には登場してこないが、石屋和尚という僧侶と、土地の有力者であった椎名安芸守との関わり方も非常に興味がある。石屋は、私の言うとことの永久歩行者であったのではないのか、と想像をたくましくすると楽しくなる。どんな顔をしていらしたのだろうかなぁと、思うのである。

 もしかして、もしかしたら、石屋和尚は、宗教界という共同体からの離反者であったのではないかと想像すると、これは愚生に重なってくるからだ。離反、逸脱、変わり者という単語がである。ともあれ石屋和尚が、どんな宗派で、どんな思想を持っておられて、どんな生活をしておられたのだろうかと思うことが愚生にとって大事な問題であると意識させられるからである。

 民族学者の谷川健一先生は、九〇歳をはるかにこえられて、まだまだ現役である。月のうち二〇日を取材の旅をされて、残りの一〇日で原稿書きをしておられる。先生もまた非常に尊敬すべき永久歩行者である。とてもとても、愚生ごときものがまねをすることなんて、できない相談であるが。(でも、しっかり憧れてはいるんだけど)

 しかしながら、愚生の場合は歩き続けても終点がない。目標をきっちりと定めて、計画通りの生き方をすることが苦手なのである。これまでもこれからもである。そもそも、そんな生き方は愚生には似合わない。あてどもない永久歩行をまったく時間も気にしないで、やっていくしかないようである。世渡りも下手だったし、人脈もない、地縁もない、地元の学校も出ていない。どっかから来て、どっかへと去っていくしかないようである。

 まったく風の吹くままでありますなぁ。だから、こんなブログを見ている時間がおありでしたら、時間を惜しんで計画どおり人生を歩まれた方がよろしいですよ。

 つまらんじじぃからの助言でございますから。



 
 

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8月24日(金)のつぶやき

2012年08月25日 03時44分19秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
08:36 from gooBlog production
ある快男児校長のBLOGに学ぶ blog.goo.ne.jp/tym943/e/801f9…

22:58 from Tweet Button
今夜金曜ロードSHOW「崖の上のポニョ」は死後の世界なの?(エキサイトレビュー) - エキサイトニュース excite.co.jp/News/reviewmus…

23:00 from Tweet Button
本当でしょうな?@<竹島・尖閣問題>「不退転の覚悟で臨む」野田首相会見(毎日新聞社) - エキサイトニュース excite.co.jp/News/politics_…

23:01 from Tweet Button
これも本当でしょうな?@地方公務員の政治活動制限=自民など3党、改正案提出(時事通信社) - エキサイトニュース excite.co.jp/News/politics_…

23:05 from Tweet Button
あああ・・・・世も末じゃ@大津いじめ生徒 女性教諭に4カ所ケガさせる ― スポニチ Sponichi Annex 社会 sponichi.co.jp/society/news/2…

23:07 from Tweet Button
なにもそこまで・・合掌@陸前高田市の応援職員自殺 「役に立てず申し訳ない」と遺書 ― スポニチ Sponichi Annex 社会 sponichi.co.jp/society/news/2…

23:23 from Tweet Button
これまた・・・・・・・・・・@「KARA」、竹島問題質問に「沈黙」 韓国メディアから批判浴びる (1/2) : J-CASTニュース j-cast.com/2012/08/241439… @jcast_newsさんから

23:26 from Tweet Button
へ?・・・・・・アサヒがですか・・・・・@朝日・日経・NHKなどが表記変えた 「島根県の竹島」増加 (1/2) : J-CASTニュース j-cast.com/2012/08/231438… @jcast_newsさんから

23:27 from Tweet Button
ムム・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・@薄煕来解任は次期主席の習近平も了解済み 大規模な権力闘争は起きない 元朝日新聞編集委員・加藤千洋さんに聞く (1/3) : J-CASTニュース j-cast.com/2012/03/311273… @jcast_newsさんから

23:29 from Tweet Button
凄いヒトだなぁ・・・・・・・・・・・・・・・@ひと登場 元女子アナ弁護士・菊間千乃さん 仕事が楽しくて「毎朝起きるとワクワクするんです」 (1/2) : J-CASTニュース j-cast.com/2012/01/221194… @jcast_newsさんから

23:37 from Tweet Button
いいね!・・・・・・・・・・・・・・@好演引き出す高倉健さんの“雑談力” 撮影現場にみる男の作法(1) :日本経済新聞 s.nikkei.com/RujCL9

23:39 from Tweet Button
そうだったんだ・・・・・・でも、死ぬときは死ぬ・・・・・・健康ばっかり気をつけて早く死んだらどうすってすかね@高齢者こそ肉食を 骨折・貧血予防、老化遅らせる効果も  :日本経済新聞 s.nikkei.com/Sgtibh

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言語力と発信力

2012年08月24日 08時25分38秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 大阪浪速高校の木村智彦校長先生のBLOGを非常に興味を持って拝見させていただいている。最近の書き込みにこんな記事があったので、感心した。紹介をさせていただこう。拙ブログからもリンクをさせていただいているから、トップページから辿ってくださいませ。


>・ 私はこの5年間学校長としてとにかくブログの言語力をベースに学校の動きを発信してきた。この積み重ねは保護者のご理解を得るのに役立ったと思っている。昨年秋から今春まで続いた外部の混乱があっても校内は安定し、平穏無事そのものであった。同窓会もPTA、保護者は静寂そのものであった。保護者は私のブログによってこの5年間浪速で何があったのか良くご存じだったのだ。
・ この経験から次の校長には高い言語力と発信力を期待したい。校長になるような人に言語力がないような人はいないと思うが問題は発信力である。少なくとも毎日A4版2枚2000字のブログを様々に書けるような人に後を頼んでいきたいと思う。18:14「言語力」より 



 なるほどと感動した。こういう方でないと、校長先生というのはつとまらないのであろう。言語力と、発信力である。さすがである。そして、発信先は教職員であったのだとも説明をされていた。なるほど、である。ともすれば、オレがオレがと自分のやったことを自慢たらたら言いたがる輩が多い世の中であるが、この木村智彦先生は違う。愚生はとてもとても無為であったからなんにもできなかったが、浪速高校のますますの発展を祈るのみである。

 ところが、最近後継者のことを書かれるようになってきた。(引用部分にもある)もしかして、退職されるのではなかろうかと思っている。確か、65歳になられる筈である。茨城県鹿嶋の住金の工場長をやられた方で、それから大阪の府立高校の民間人校長になられた方である。

 誰でも人生の終わりは来る。退職もまたある意味終わりを宣告されるわけである。感傷というものがもっとあるのかとも思っていたが、愚生の場合はまったく無かった。ま、新しい大学生活が始まったのだから、それどころではなかったなぁ。(^0^)

 これからの学校管理職というのは,大変な時代を迎えるのであろう。さらに、教諭と言われる先生方もである。なぜなら個人責任を問われるようになるだろうからである。これまでは、全ての責任を校長におっかぶせていれば良かっただろうからねぇ。

 学校はやはり最後は個人としての教えるヒトの資質に負うところが大きい。魅力ある教育をどれだけ展開できるかということである。それを個々の先生方は身につけるべきであって、どうも下手な政治力とか、人脈とか言わない方がいい。聞いていてまったく胸くそが悪くなる。なんとか高校を出たからとか、クルクル大学を出たから、同窓生にあんなのがいる、こんなのがいるとか・・・・・アハハである。オレなんかそういふことをまったく言う資格がないから,言わないけれど(^0^)

 昨夜の塾で、いつものメンバーと楽しく国語をやっていた。国語だけというのは最近珍しいんだけど。中学の一年と二年、それに高校の三年生。男子のみ。文法の指導をやっていた。これって飽きないようにするには、大変な苦労がいるんでっせ。口語文法である。こちらの方がかえって難しいのだ。活用表なんて、定型的に言ったってわかっちゃくれないのだ。あっと驚くような指導方法を愚生は持っているから、「へぇ・・・なるほど」「あ、そうか・・」と男の子が興味を示してくれるのが実に嬉しい。

 オレって、もしかしたらこういふ少年達と同レベルの性格の軽さを持っているんだろうなぁ。話があうんである。わらっちまうですね。60歳と10代前半のおのこたちと楽しく文法ができるって、こりゃぁ止められないですな。

 

 

 明日朝に孫が帰ってしまう。嘆きの瞬間である。しかたないけど。二週間の楽しい時間が過ぎた。貴重な時間であった。そして孫に感謝である。オレのようなモンに、孫として登場してくれたのだから。そして、楽しい楽しい時間を過ごさせてもらったのだ。これは本当に感謝である。見えざる意思が裏にあるような気がしてならないのだ。オレのようなものに、じじぃとして生きる覚悟を迫る意思である。

 デタラメに生きておってはいかんのである。全くそう思う。基本的にデタラメ人生を送ってきたからなぁ。全部中途半端だったし。勉強が一番中途半端だったよ。基本的に、秀才とはほど遠い生活をしてきたからなぁ。言語力も無い。発信力も無い。なんにも無いのだ(^0^)/ウフフ

 だから学ぶしかないのだなぁと思う。

 

 また明日!

 ※これから孫の映っている動画を編集する。楽しいですね。
 

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8月23日(木)のつぶやき

2012年08月24日 03時46分23秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
00:14 from Tweet Button
読むだけ専門家という若い人が確かに存在するかも・・・>> sankeibiz.jp/business/news/…

01:23 from gooBlog production
意志薄弱でありましたワイ(^0^) blog.goo.ne.jp/tym943/e/7da20…

18:54 from web
日経の大学開国という記事で、沈む大学院という記事があった。

18:59 from web
これは興味のある話題であった。なぜなら、日本における専門職大学院の位置づけという点で、いろいろ考えるところがあったからである。法科大学院というのも、閉校されるのが5つつくらいあるのだそうな。ううむとうなるしかない。

19:00 from web
そもそも、社会で十分鍛えられるからということをのたもう会社経営者もいるのだそうだ。だったら、経験智を重視して可能なかぎり早いうちに就職してもらった方がいいことになるわけだ。

19:02 from web
私が残念に思うのは、若い院生を活用していないということである。社会がである。修士も、ドクターもである。これはじっさいいけないと思うのだ。老い先短いからこそそう思うのである。

19:04 from web
ライセンスをとって、役にたてようという方を活用していくべきであると思う。ただし、社会人院生はライセンスをとっても何も評価されない。サラリーが上がったという話をこれぞ聞いたことが無い。だったら、余計な出費をしないで、じっとしていた方がいいということになる。そこにこそ問題ありである。

19:07 from web
生涯教育で勉強している、あるいはリカレント教育でやるという場合はもっといろいろな障がいがあるだろうと感じている。要するに邪魔だというわけだ。建前は、いいことを皆言うけれども、だ。

19:08 from web
経済用語を駆使して教育を語るようになってから、こんな風になったのではないのか。

19:13 from web
大学院に行ったら、収入増になるという実に単純な考えがあるのではないかと思うのである。

19:15 from web
社会人(退職)院生だから、なにを言っても相手にしてもらえませんがね。もしかして、経済用語的にはもっと、酷いことを定義されていたりして(^0^)/ウフフ

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8月22日(水)のつぶやき

2012年08月23日 03時43分36秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

13:46 from web
レーニンの読書ノートにおおいに学ぶところあり。

13:47 from web
佐藤優先生の「読書の技法」に紹介してある。(同書、p.106)

13:51 from web
これでレーニンは、逃亡生活で忙しいのに、ヘーゲルの「歴史哲学講義」を(岩波文庫上下で750頁)ノート10頁に要約しているとのことである。

13:52 from web
なるほどである。さすがに、さすがに。

13:56 from web
一番左側にコメント。その右側にページ数。次に書籍からの抜き書き。左下隅にレファレンス。こういう形式だったそうだ。

21:14 from Tweet Button
参考になりました>>購入:佐藤優『読書の技法』 blog.livedoor.jp/yusuke_kakita/…

22:53 from web
レストラン・キエフは(京都)佐藤優先生の「私のマルクス」(文春文庫)のp.156から出ていたんだった。愚生の読書ノートをさっき見ていたら出てきたのだった。これで一件落着。ナニガ?・・(^0^)

22:56 from web
ついでに言えば、佐藤優先生には相当入れ込んでいましたなぁ。58歳くらいにでした。懐かしいねぇ。

22:57 from web
佐藤優先生は、無神論について研究するために同志社の神学部に。さらに大学院の修士へ。さすがに浦和高校の出身は違うですな。考えることが。

23:02 from web
レーニンの哲学ノート(岩波文庫版)が、書庫に無い。てっきりあったと思ってさっきまで捜していたら、無い。がっくり。捨ててしまった可能性大。佐藤優先生についての読書ノートを見ていたら、またまたみたくなってしまったのだ。本を捨ててはならんと思ってはおるんだが、・・・がっかり。

23:02 from web
これからAmazonで買おう!

by tym943 on Twitter

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きのうの失敗

2012年08月23日 01時23分33秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 レーニンの哲学ノート(岩波文庫)を捜していたら、あっという間に真夜中になっちまった。話にならんなぁ。書庫が狭いので、時々処分していたからその時に捨ててしまったのかもしれない。なにしろ、無類の掃除好きな配偶者に恵まれて、アタシャ整理整頓が大好きになっちまったから。(^0^)

 その代わりに、修士論文を書いていたときのB5ブ厚いノートを何冊も発見して読んでいた。懐かしいねぇ。しかもオレは60歳で修士をとったから、若い時の修士とは違っている。テーマが一貫しているんだけど、誰もそんなことには気がついてくれないしねぇ。ま、いいか。どうせなんの役にもたたねぇって、期待もされていないし。好きなように勉強させていただくしかないんだろうな。かえってありがたいですよ。それを許してくださっている在籍校にも感謝でありまする。


 昨日はダブン書きをすることができなかった。孫の世話が楽しくて一日あはは・おほほと過ごしていたから。それと家事手伝いをしながらではダブン書きなんぞできるわけもない。掃除を手伝ったり、買い物に行く配偶者のために運転手をやる、孫をだっこしている、孫がじじぃを呼んでいると誤解をする。するとアタシャ書庫からすぐ吹っ飛んで行ってしまうのである。結局、研究者のミチなんて所詮オレには高値の花でありんしたねぇ。できっこないけどね。そんなことを言ったら馬鹿かとお叱りを受けてしまいますぜ。本学の先生方に。出来の悪い大学生でありますからなぁ。

 どこでどうミチを間違ったのかね。はじめからか。(^0^)

 ダブン書きをしていないから、佐藤優先生の読書についてのエッセーを書庫のコピー機でコピーして、オレなりの読書ノートに貼り付けて、コメントをつけていろいろ考えたりしていた。学問に対して、本当に素人だなぁと慚愧の思いでおったのだ。本当である。所詮、緻密さをもって読書してきたわけではない。研究者になろうと、精細なる学問をしてきたわけではない。むしろ、アタシャ学校経営シャとしてその反対側にいたような気がするのである。教えるよりも、教えている先生方を管理させていただいていたんであるから、土俵が違っていたんである。それにさっき気がついたのだ。研究者というのは、ある意味それを専門に何十年もやってこられた方々である。オレの場合は、違っちゃったではないか。

 だから専門的にある分野を何十年も研究一筋でやってこられた方々を尊敬するのだ。大学の先生方というのもそういう境遇におられたからこそ、教授とか准教授とかになられておられるわけである。凄いことである。

 そういう境涯を過ごすことができるということで、ある意味経済的基盤もおありになるのだろうし、オレにはそういうものがないから、非常にうらやましいのである。たいしたものである。学者は、ブルジョアでないとできないというのは、まさに本当である。オレのような本代にも困っているような輩では、学会活動もできないってわけだ。だったら、在野で頑張るしかないんだけどね。その在野にもいる場所がないではないか。(^0^)

 オレのようなモノにもいろいろとクチをきいてくださる方があって、**という作家をどう思うかとか、研究方法についてアドバイスをしてくれとか言われる方がある。あるいは、こんな本を捜しているんだが、とか。オレは基本的に他者には親切にすべきであると幼い頃から教えていただいたから(両親や地域の方々に)、全力でチカラになるのである。そういう性格であって、狭量な自称エリート達とは若干方向性を違えているのかもしれない。要するにオレのことを優先しないのである。だから、博士になる、なりたい方にはどしどし資料もお貸しするし、お役にたつことあれば、なんかしてさしあげる。そういう性格なんである。自分がたいした能力もないから、せめての恩返しでもあるのだ。愚生の母校の米沢興譲館高校という学校名の「興譲」というふことはそういふことであると、聞いたことがある。あ、思い出した。オレが入学したときの中山校長だ。東大出の俊秀である。そういうことだ、そういうこと。

 

 

 明日から塾の仕事が始まる。週に2回・合計3時間しか行っていないから、たいしたことをやっているわけではない。しかしである。この仕事結構楽しいのである。若い人にいろいろ教えさせていただいているのだから、これは面白い。若いヒトに接していると、こっちまで勉強になる。おかげでこの半年近く、かなりの英単語を覚えてしまった。あとは、高校数学の解き方も思い出したのだ。思えば、オレの高校は数学が県下で一番できた高校だったな。数学だけでも一日3時間やれ!って言われていたっけ。たいしたもんである。オレは早々と脱落したけれどもね。脱落しても一番好きだったのが数学でありんしたワイ。専門であると自称している国語よりもはるかにできたんです。(^0^)

 塾にも予備校にも誰も殆ど行っていない高校だった。だいたい米沢にそんなものは似合わないですな。質実剛健。つましい生活をしてきているから。それでも国公立大学に200名近く現役で行っていたなぁ。凄いこったよ。たいしたもんじゃ。もんじゃ焼きだわな。ごちゃごちゃもんじゃですわな(^0^)

 今、オレはそういう受験産業を支えているってわけだ。わらっちまうなぁ。こんなんでいいのかね。こんなんで。高野山あたりで、ありがたいお経でも唱えていたいっていうのがオレの本当の気持ちなんだけどね。なんだか、受験ばかり考えているっていうのは、レベルが高い高校ならばそりゃそれで良いんだろうけど、どうもオレには違和感があるんだ。どうせ大したことはないんだったら、そんなに粋がることはねぇだろうって思っておるからである。

 もうやめよう。こんな話は。

 

 けふも暑いのかね。

 おおおおおお、ヤダね。

 

 

 

 

 

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8月21日(火)のつぶやき

2012年08月22日 03時44分42秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
21:52 from gooBlog production
大学はいいなぁ goo.gl/JZzQE

22:58 from web
Facebookが壊れた・・・あれ?どうなってんですかね。

23:38 from web
アカウントをいじっていてFacebookが壊れたのかな・・ま、なんもわかっていないからなぁ。トシくっているし。

by tym943 on Twitter
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/