親の「うつ」で施設への入所が急増!子どもを苦しめる“心の傷”と貧困の連鎖 - コラム - ビジネスEX
こんなニュースを見させていただいた。
なんということであろうか。まことになんということであろうか。このようなこともあり得るかもしれないとは感じていたが、まさか真実であったとは。
哀しいことである。母子ともにである。誰をも責められんだろう。高みから見物しているわけにもいかんではないか。いたいけな赤ちゃんが思い浮かぶ。悩んでいる若い母親もだ。こういう時代になったのだと割り切ることは、愚生にはできない。だいいち、そんなことを言っていられるほど、冷血人間でもない。
なぜだろうと思った。経済か。仕事がないからというのも大きい理由である。それはそれで政治と経済界に頑張っていただくしかない。
愚生の思ったのは、当事者である若い親たちの姿勢というか、なんでもずけずけ物を言っていれば対話が成り立つとか、それを有効なコミュニケーションであるとする時代的風潮のことである。大いに問題がある。受け手である相手のことを慮ることなく、自分の言いたいことだけをずけずけと言っていて、それでいいんだろうかとふと思ったのである。対話もなにも全部相手との勝ち負けの勝負だと考えているとするならば、さもしい限りである。勝ち負けだけが人生ではないはずである。時には勝つこともあるだろう。あるいは時には負けることもあるだろう。
相手がいてこそである。夫婦だって、相手がいるから夫婦であって、そうでなくちゃ夫婦とは言わない。あるいは、柔道だって相手がいるから柔道である。もっとも、相撲節会のように神に奉納するための一人相撲というのもあることはあるが。
なんだか非常に楽しくない状態である。孫がいるからかもしれない。もしオレの孫がそういうことになったら、どうすんだい?ってことを想像してしまうからである。嘆かわしいことである。そりゃぁ離婚がどうのこうのと言えた義理ではない。そういう事例も多いからである。
しかしながら、このニュースはちょっと次元が違うのだ。いいのだろうかと思うからである。対応策はおそらく無いであろうと思う。どんなに立派な秀才が対応策を考えたって、これはなかなか解決策が見つからないであろうと思う。
困ったものである。
最近はやりの個人責任にしてしまうのか?違いますな。さりとて、行政の責任にするってことはないですな。なんでもかんでも行政が悪いってことは、ちょっとねぇ・・・破綻しているから。そういう考え方は。
主体となるべきは赤ちゃんであろうと思う。ナニガ赤ちゃんにとって仕合わせなのかという視点が大切であるような気がするのだ。当然であろう。赤ちゃん主体で考えれば、忍耐とか、我慢とか・・・・・いろいろ出てくるような気がするからである。
そもそも、最近のおばさんには変声期もあるんだということに、この間初めて気がついたのであるから。プリティであったかつての少女達は、変声期を乗り越えているのだ。そういう現実もあるんだと初めて知ったのである。当然か。男と同じような、あるいはそれ以上の苦労をしながら世間の荒波を乗り切ってこられたのだから。
察しの良い拙ブログ読者サマは、最近の愚生がどうやら民俗学系統ばかり書いているのに気がつかれたかと思う。そうである。こちら系がそもそも好きなんだけれども、それが専門ということでもない。小説がまったく出てこないのも不思議だと言われる方もある。当然である。意識して小説を書かないようにしているのだから。小説を取り上げ始めたら、終わりの無い旅になってしまう。それだけ好きなんである。だらだらとなんでも書き始めるような気がする。我慢して古典系に絞っているのである。(^0^)
そういうことである。そういうこと。
なんだかオヤジが一人で嘆いたり、悲しんだりしているだけかも知れないが。だけど、誰かがこういうことを伝えていかなくてはならないと思う。
じゃぁ!