河合隼雄先生の著作集第二期「物語と人間7」(岩波書店)を読み、いろいろ考えることあり。
先生は、ご存じのとおりのユングの研究で著名な方である。現役時代は、いろいろと指導面で参考になり、読みこみを重ねて生徒に対応するバイブルとさせていただいた。
先生は「私の職業を『物語屋』と呼んでもいいのではなかろうか」と、頁に書かれているのである。これに度肝を抜かれる。もうちょっとこの書籍を拝読していくと、ユングこそ、その心理学は「物語」を重視する極めて珍しい心理学であったとも書かれている。
ここからは愚生の解釈になるのだが、先生は心理療法家として「物語る」ということを仕事にされてきたのではないか。あるいは、極端に言えば、クライアントに「物語り」をさせることをである。
物語るためには、その一連の物語の中に、いろいろなメタファーがあり、象徴性も出てくる。作り話もあり、パフォーマンスで語る場合もあるだろう。
拙ブログもそうである。
物語っているのである。
ネタを元に、いろいろな条件を加味して、物語っているのである。あるときは、体験したことから作り話をしたり、象徴を書くこともある。パフォーマンスを意識していないと言ったら嘘になる。当然読み手の受けもねらっている。また、具体的に読み手を意識して書いている場合もある。
当然であろうと思う。
実相のみを書いているわけにはいかないからである。象徴も当然書いている。また慎重に愚生の個人情報がもれないように書いてもいる。全部正直にあらいざらい書いているわけではないのである。思想信条もなにもあきらかにしていないからである。
この記事だって、愚生のアタマの中で、いろいろと組み立てられてから、キーボードで打ち出されているのだ。だから、当然愚生のフィルターがかかっているのである。それだから、愚生の創作になるわけである。
したがって拙ブログは、真の意味での日記ではない。本当の愚生のダイアリーは、机の脇にある文庫本形式のマイダイアリーという名の新潮社の文庫であるからである。事実しか書いていないという点において。手書きで。
意識面では、ある役割を意図的に書いているのであろうと思う。
生涯教育に役立てたい、あるいは、生涯教育をやってみたいという方への応援歌でありたいと思うからである。ささやかでもいいから、そういう方の一助となりたいというだけである。
実はこの河合先生の書籍は、源氏物語の分析にも言及されていて、そちらの方が愚生には楽しいのであるが、それはそれとしよう。そちらの方がページ数は多い。なぜ、そちらの方に興味が沸いたかというと、先生も光源氏がけしからんやつだと思ったというのである。
たしかにそうである。現代では許されない存在である。光源氏っていうのは。愚生と最も遠い存在であるから、愚生も大嫌いであったのである。
しかし、これは光源氏の物語だという束縛から一端離れてみると、違ってくる。
これは紫式部の女性としての分身物語だとすれば、全く違ってくるのである。瀬戸内寂聴さんが、源氏物語を「女人救済の物語」だとされていた本を読んだことがあったが書名をワスレテしまった。
そうだろうと思う。
紫式部の物語なのである。
枕草子も、ひたすらありがたがって読んでいると大いなる誤解をしてしまう。清少納言もまた物語っているのである。受験のためだけだと考えていると内容がわからなくなる。本当の内容が。
我々は、生きるためにある物語をつくりながら、毎日を生活している。
もしかしたら、明日は宝くじが当たって、贅沢な家を建て、たらふくおいしいものを食べて、高級車を買って生きていきたいというのも物語である。
そして、たいていは明るく発展系で物語は作られる。当たり前である。でないと、生きるのはつらくなるからである。我々は、そうやってなんとかして生きる智慧を持ってきたのであると思う。それほど生きるということは、ある意味で辛いことでもあったからである。
農民芸能と宗教という愚生の課題もこのあたりから来ているのであるが。
以上、とめもないことを考えたので。メモとして残しておきます。