と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

「波止場日記」 E・H(エリック・ホッファー)を読む・・・まさに在野の研究者である

2016年09月05日 13時41分18秒 | 在野研究ごっこ

 

 エリック・ホッファーの本である。「波止場日記」。書籍の詳細情報は文末に紹介してあるけれども。




はまっている。

ボキは、ただのじじいであるけれども(I am just an old man=今朝のNHKラジ英で知った・・)、それでもハッスルすることはある。ハッスル、ハッスルである(^Д^)。

荒木優太氏からエリック・ホッファーを紹介していただかなかったら、この喜びはなかった。もっとも荒木優太氏を直接知っているわけではない。あくまで、本で知った方である。だから感謝しているのである。可能ならば荒木氏の講演会かなんかあって、お会いできるのなら出かけていってみたい。最敬礼して、お礼を申し上げたいくらいである。マジに。

なにしろ生涯学習のコツがここにあるからである。つまり「在野」であるということ。それが生涯学習のコツである。

「野」ということをもっと見直していくべきである。むろん在野の反対にあるだろうアカデミズムを否定しているつもりはまったくない。それはそれで素敵なことであるから。憧れでもあるし、ボキにとっては。100万冊以上もある大学図書館で、一日中読書できた青春時代は忘れられないからである。学部時代は、大きな大学で図書館も日本有数の蔵書量を誇っていたからだ。

もっとも、還暦過ぎて入学させていただいた某大学大学院博士後期課程でも、大学図書館はかなり活用させていただいたっけ。大図書館であったからである。感謝しているのだ。

今は、公共図書館に(県立図書館)変わったというだけである。それに院生ドクター在籍者であったから、院生室も与えていただいったっけ。夢のような3年間であったなぁと思う。感謝である。

優秀なクラスメイトもいたし。たいていは中国の大学の副教授であったから、なおさらのことレベルの高い会話を楽しむことができた。夢のまた夢であった。

病気になってからは、読書を長時間することはなくなった。論文書きもである。

しかしである。

運動をしながら、再チャレンジすることも可能なのではないのかと思うようになった。それが、荒木優太氏に教えていただいたことの最重要課題である。あるいは、エリック・ホッファーである。

健康学はたくさん学んだ。病気になってから、運動も・食事もかなり気をつけるようになった。歩数でもってwalkingを管理するようになったのも、収穫であった。数値でもって、オノレの健康状態を確認しつつ毎日を暮らしている。

当然無茶なことはやらなくなった。アルコールである。あるいは社交と自称して、夜の酒場に出かけることもなくなった。つきあってくれた方々には、正直なことを申し上げて断ってきた。ただし、老人大学のクラスメイトには信用していただけない。いかにもノンべぇのような顔をしているからである。そう言われるし(*´∀`*)。

この「波止場日記」は、モンテーニュの「随想録」とかなり似通っていると思ったけど、モンテーニュも読みこんでいるんだねぇ。エリック・ホッファーは。

読書ですな。ボキのやることは。

それしかできないのだから。

 

 

Bye-bye!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

「波止場日記」 詳細情報

 
タイトルコード 1000100206712
書誌種別 図書
書名 波止場日記 
書名ヨミ ハトバ ニッキ
  労働と思索
叢書名 始まりの本
言語区分 日本語
著者名 エリック・ホッファー/[著]   田中 淳/訳
著者名ヨミ ホッファー エリック タナカ ジュン
著者名原綴 Hoffer Eric
出版地 東京
出版者 みすず書房

ISBN 978-4-622-
4.9
08374-0
ISBN 4-622-08374-0
数量 264p
大きさ 20cm
分類記号 936
注記 原タイトル:Working and thinking on the waterfront
注記 1971年刊の新編集
内容紹介 知識人はなぜ大衆と対立するのか。選民思想はどこから生じるのか。沖仲士の哲学者、ホッファーによる思索の結晶。ホッファー小伝、森達也による解説も収録。
著者紹介 1902〜83年。ドイツ移民の子。ニューヨーク生まれ。港湾の荷役仕事を続けながら、読書と大衆運動についての思索を重ねた。著書に「変化という試練」「現代という時代の気質」など。
出版年月
201
本体価格 ¥3600

 

 

 

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はまったですなぁ~・・・エリック・ホッファーに

2016年09月04日 18時49分58秒 | 在野研究ごっこ

  


 

タイトルコード 1000001279440
書誌種別 図書
書名 エリック・ホッファー自伝 
書名ヨミ エリック ホッファー ジデン
  構想された真実
言語区分 日本語
著者名 E.ホッファー/著   中本 義彦/訳
著者名ヨミ ホッファー エリック ナカモト ヨシヒコ
著者名原綴 Hoffer Eric
出版地 東京
出版者 作品社
出版年月 2002.6
本体価格 ¥2200
ISBN 4-87893-473-5
数量 189p
大きさ 20cm
分類記号 289.3
個人件名 Hoffer,Eric
注記 原タイトル:Truth imagined
注記 エリック・ホッファー略年譜:巻末
内容紹介 失明、孤独、自殺未遂、10年の放浪、そして波止場へ…。常に社会の最底辺に身を置き、働きながら読書と思索を続け、独学によって思想を築きあげた「沖仲士の哲学者」ホッファーの自伝。
著者紹介 1902~83年。ニューヨーク生まれ。さまざまな職を転々とし、67年より著作活動に専念。著書に「大衆運動」「情熱的な精神状態」「変化という試練」など。

 

荒木優太氏の「これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得」なる本を読んでから、まさにエリック・ホッファーに興味を持ってしまった。ボキは、作家の中上健次も大好きだが、中上健次もエリック・ホッファーに影響されたみたいである。ちなみに、荒木優太氏の本は最初県立図書館から借りたのであるが、あまりの快著であるから、買ってしまった。Amazonにさっき注文した。自分の本にしようと思ったのである。

そして、昨日から今日にかけて、写真の「エリック・ホッファー自伝 構想された真実」を読んでいた。さきほど、読了してノートにもとった。

心地よい感動を味わっている。

港湾労働者をしながら、続々と本を書いてきたのが、エリック・ホッファーである。5歳のときに失明して、学校教育はまともに受けていない。それが、15歳のときに奇跡的に回復して、それから読書生活が始まる。ほとんど独学である。ドストエフスキーにも影響されている。「白痴」を推奨しておられた。

あっと思った。ボキの学部卒論でも扱った資料である。「白痴」は。

この自伝では、最初から引きつけられる。翻訳もいいのだろう。

それに、エリック・ホッファーの人生に対する姿勢もいい。両親もいない。学歴もない。カネもない。仕事もない。職業紹介所を回りながら、その日暮らし。貧民として生活を送っている。しかもである。公共図書館の近くに、安アパートを借りて、毎日の労働の他に、読書生活を送っていたのである。数学、化学もやったそうである。大学の教科書レベルのも。そして、静かにノートをとり続ける生活。

あくまで仕事は、読書や勉強のための補助手段である。

こういうのを生涯学習というのである。仕事をやりながらである。しかも、「在野」である。大学とかで教えているわけではないからである。

静かに思索を重ね、その過程をまとめていく。なんの成果も要らない。出世や立身しようという目的もない。最初からない。

いいなぁと思った。こういう老後をボキも送ってみたかったからである。

でも、ボキは煩悩まみれである。カネも、欲望も、その他モロモロみんな欲しい。一番しくじったのが、博士後期過程に在籍して博士になりたいというアホな夢を見てしまったことである。これは、エリック・ホッファーのような立派な知識人から見たらアホ丸出し、基地外の部類に入るのだろう。

慚愧の思いである。

博士を目指すのではなく、その前にやることがあっただろうと思うのである。論文を少なくとも50本は書いてそれからならわかるというもんである。無知だった。まるっきり無知であった。

でもねぇ・・・中退してしまったけど、ボキのやってきたことは、「在野」で十分研究可能であるとも気がついた。

だから荒木優太氏の本を買ったのである。ありがたいものである。こういう書籍との出会いは。

やる気になってきた。

ファイト!

イッパーツ!

である。

どっかのCMそのものであるが。

 

荒木優太氏に感謝である。

 

またまたボキの読書生活が始まる。論文書きも。

 

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「好きなこと」を「勝手に」やっていればいいのである。在野で。

2016年09月03日 08時46分37秒 | 在野研究ごっこ

「在野」とは言いも言ったり。

 

 

自生的に立ち上がるのが在野での研究であろう。誰からも命じられたわけではない。読み、書き、調べ、まとめ、どっかに発表するという一連の流れはまさに「自生的」であるからだ。

たとえ大学とか学会とかが無くなっても、自生的に発生したのだから少なくともオノレとの関わりにおいては、営みとして永久である。死んじまうまでは。

だから大学なんてとか、学会なんてとか言っている暇があったら(つまり他者責任)、「好きなこと」を「勝手に」やっていればいいのである。

よくいるではないか。オノレのアタマの悪いことを棚に上げて、大学のせいで、師匠のせいで出来の良い論文が書けないとか、いつまでも大学内でもって出世できないとかということをのたもう方々である。そんなもん、最初から巻きこまれない方がいい。そもそも学者の世界に政治が飛び込んできたらおしめぇではないか(^_^)。

大学なんか明治以来できたいわば新しい組織である。そういう意味ではボキの卒業した高校の方がはるかに古い。東京帝国大学よりも古い。マジである。そういうもんにのっからないで、自由自在に学問を愛好していればいいのである。

誰のせいでもないからだ。師匠もいなきゃいないでいいではないか。しょうがねぇではないか。いないものは、いないんだから。独学で十分である。方向性を間違えなければ。方向性ということでは、確かに師匠は必要であるが。

だから、大学等々に代表されるようなアカデミズムに対峙しようとしているのではなくて、あくまでも一つの選択肢としてボキは在野の研究というものを考えている。別に大学に反対しているのではない。行きたい人は行けばいいだけである。ボキだって、一年半前までは、某大学大学院の博士課程の現役院生だったのだから。油断から病気になってしまって、中退したけれども。あれはあれでなかなか充実していたから、なにもそれまで否定する気持ちはないのである。

しかし、「在野」とは言いも言ったり。

「野」である。「官」の反対だと思う。ボキは。自ら野にあって、世の中をせせら笑って生きている隠遁者のような響きがある。好ましいではないか。そういうのは(^_^)。好きである。だいいち楽しいではないか。利益も生み出すわけではないし、さりとて誰にも迷惑はかけない。かけないけど、オノレのやりたいこと、やりたかったことはコツコツとチャレンジしていく。

夢の実現とか、そういうものではない。夢というのは、実現するために見るのではない。なにかになってやろうとか、ゼニ儲けをしたいからというのでもない。あくまで好きだから、楽しいから「自分勝手」にやっているだけである。

こういうのは、やっぱり「野」にいるしかない。認められないからだ。それならそれでいいではないか。

喰っていくための道は確保しているから、なんの心配もない。好きな道を一歩一歩歩んでいくのがいい。それがボキの一生である。あとあまり時間がない。そうである。ボキもまたすぐ死んじゃうからである。あと何年生きていられるか。それしか関心はないのである。

そうなのである。「自分勝手」に生きていきたいからである。

もう十分そうやって生きているけど。

 

わははっはははっはははっははははっはははは。

 

Bye-bye!

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在野研究者の生と心得・・・・あがき方モロモロ

2016年09月02日 13時41分00秒 | 在野研究ごっこ

世の中には喰うための仕事をしながら、好きな学問に打ち込んでおられる方々がたくさんいるのである・・・凄いもんじゃ。

「在野の研究者」という視点でもって県立図書館から借りてきた本がこれである。

 


 

 

 これからのエリック・ホッファーのために 、

言語区分                 日本語

著者名   荒木 優太/著

著者名ヨミ            アラキ ユウタ

出版地   東京

出版者   東京書籍

出版年月                 2016.3

本体価格                 ¥1500

ISBN         978-4-487-80975-2

ISBN         4-487-80975-2

数量        254p

大きさ   19cm

分類記号                 002

件名        学者

内容紹介  16人の在野研究者たちの「生」を、彼らの遺した文献から読み解き、アウトサイドで学問するための方法を探し出す。在野での方の心得40選。『En-Soph』連載を加筆修正し再構成。

著者紹介 1987年東京生まれ。明治大学文学部文学科日本文学専攻博士前期課程修了。在野研究者(専門は有島武郎)。Web媒体を中心に、近代文学関連の批評・研究を発表。

 


読み始めたら、実におもしろい。

こんな本があるのを知らなかった。

ボキのような生涯学習ごっこジジイにはうってつけである。在野もなにもボキは、職業が別にあって(と言っても定年で退職してしまったけど)、確かに趣味で勉強してきた。成果もなんも出せないけどねぇ。

で、この本には、それでもって好きな学問分野を追求するという方々のことが書いてあるからいいのである。うってつけとはこのことである。

こりゃぁ、ボキへの応援歌であると思ったよん。マジに。

そして三浦つとむさんとか、谷川健一先生とか、かつてボキもムチュウになって読んだエライ先生たちが、これでもかこれでもかと登場してくる。

だから応援歌だと言うのである。

本の帯にも、「勉強なんか勝手にやれ。やってやってやりまくれ」とか「大学や会社や組織の外でも、しぶとく『生き延びる』ための<あがき>方の心得」と書かれてある。なかなかキャッチーである。惹かれる。

まさに勝手に自称学問みたいなもんを勝手にやって、あがきっぱなしのジジイであるからだ。

妙に悟りきってもいねぇし。こっちは。

悟りどころか、迷いの衆生である。まだまだ静かなること、明鏡止水のごときという心情には到っていない。

こういうあがきなら、ボキはこれまでもやってきたし、これからもやっていくだろう。

生き延びるためにである。

病気になっても、運動療法と食事療法を使って快癒してしまったからだ。

そりゃそうだ。一日10キロも歩いている病人なんか聞いたことがないからである。

酒も呑まない。呑む奴とはつきあわない。美人ともクチをきかない。敬して遠ざけている。心にさざ波のたつことからは、逃亡しているのである。

なんのためにか。

「生き延びる」ためである。

健康に老いたい。もう老いているけど。

健康に生きていりゃぁ、人生、なんとでもなっちまうからである。

カネもカミの毛もないけれど、健康なら利子がいくらついてもいいからと思う。

それだけである。

良い本に出会ってしまったもんである。


感謝!

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在野のジジイだよん・・・ボキの場合は

2016年09月01日 07時12分57秒 | 在野研究ごっこ

在野の研究者なんてレベルではない。そのレベルに到達していない。在野もなにも、ただの基地外ジジイである。生活のほとんどすべてを趣味で生きているだけである・・・(>_<)ヽ

 

 

在野の研究者という視点から生涯学習を見たことはなかった。それが、昨日九十九里浜に帰ってきてから、「古本屋の研究生活」なるブログの著者の方から与えていただいた新たなる視点であった。感謝である。まさに、在野でもって研究生活を送っておられる方々は多いと言うのがボキの実感でもあるからだ。

なにも大学に属するだけが、研究生活ではない。沖仲仕とか清掃のアルバイトをやりながら、好きなことに打ち込んでおられる方々も多いからである。

しかし、前提に「研究生活」がある。そうなのである。研究が好きで好きでたまらん人がそういうことが言えるのである。ボキはどうなのだと自省している。それだけ打ち込んで来たかとなると自信はまったくないからである。さらにそんな記憶もない(^_^)。

それもこれも健康学が最優先する。

健康でなくては、在野もへったくれもないからである。大学に所属していたって同様である。健康あってのものだねであるからだ。その点でボキは失格であった。健康を害したからである。もっとも、それもここ数日の旅で自信を持ったのであるが。なにしろ往復950キロを自分一人で運転してきたからである。民俗の旅であった。楽しかったから出来たのだろうと思うけれども。民俗の旅とは言うも言ったり。好きな温泉に入り、村の古老と会ったり、話を聞いたり、干したヘビを売っている老婆と朝から冗談を言い合ったりしていた。今回も。山奥で。そういうのを自分勝手に民俗の旅と自称しているだけであるが。

ボキの場合、次から次へと大学に所属して生涯学習をやっているわけではない。所属している(いた)大学の数が増えるのを無上の楽しみにしている方々も多い。生涯学習愛好者には。それはそれでおおいに結構である。通信教育ならそれも可能であるからだ。ボキも利用させていただいたし。

であるからして、誰がどこの大学・大学院を出たかということにはまったく興味がない。ボキ自身もそんなことには無関係である。しかもボキの場合は、出ていないではないか。最終学歴は、中退である。ウルトラ・チュータイ。

わははははっはである。

だから趣味なのである。

在野の研究者なんてレベルではない。そのレベルに到達していない。在野もなにも、ただの基地外ジジイである。

生活のほとんどすべてを趣味で生きているだけである。

温泉に入り、故郷の東北をさ迷っているだけである。

物好きである。台風をものともせず、出かけてしまうのだから。

こういうのを基地外というのだろう。

ま、いいか。

やることがないよりはいいから。

自慰だけれどもね。

 

さ、今日の九十九里は天気晴朗である。

Gymに行ったりする。

掃除もある。

夜は塾がある。さっき、NHKのラジ英を聴いていたが、ちょっと耳がついていけない。民俗の旅とか自称して遊んでいたからである。サボリである。結論は。

 

Bye-bye!

 

 

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東北から学ぶこと

2016年08月31日 21時48分27秒 | 在野研究ごっこ

往復950キロを自分一人で運転してきた。これが一番うれしい。回復できたからである。

 

 

台風の中を旅に出ていた。半年前に予約していた。行った場所はここには書かないけど。ボキの故郷であることは間違いないのであるが。したがって、今更取り消しができなかった。それに、義兄も近くにいるので、家屋のことは頼んで行ったし。それにつけても被害に遭った方々には申し訳なかった。

一日目はWi-Fiのきかない宿にいた。故に、拙ブログの更新なんぞできるわけもない。Kindleとスマホは持っていったが、別にブログの更新のためにWi-Fiのきかない宿にいたわけではない。

山の宿である。電気が来ていない。電気は、宿の自家発電で電気を作りだしている。それでもってサービスをしている。だからである。よけいなことはしないことである。ボキごときが、Kindleとかスマホを使ってそれの充電をしていたら、発電機に負荷をかけてしまうではないか。

台風の暴力的な風雨を聞きながら、じっと耐えていた。

それにしても大自然は偉大である。ボキ如き、サルのような軽薄な存在を木っ端微塵に吹き飛ばしてしまうような強力さがある。

麓に降りてきてから別の宿でWi-Fiを使って暇つぶしにいろんなHPを拝見していた。

その中に、非常におもしろいブログを発見した。

「古本屋の研究生活」というブログである。

http://furuhon-ya.hatenablog.jp/

著者は、「在野の研究者として生きる道を模索。佛教大学大学院博士課程(通信)にて仏教学を専攻してます。」と自己紹介されている。

このブログをそれこそ食い入るように拝見させていただいていた。

別の宿であるから、自家発電ではなかったからでもある。Wi-Fiもきいていたから、自由自在にインターネットを使うことが出来たからでもある。

結論から言って、「すばらしい」の一語に尽きる。たいしたものである。これほどの方である。一度お会いしてみたいと思った。そのうち参上したいと思っている。拒否されないかぎりは。

インド哲学を専攻されていて、かなりの勉強家とお見受けした。ボキなんか足下にも及ばない。


さらに多田等観先生のこともいろいろ調べていた。雑誌の「東北学」「別冊東北学」というのが、宿にずらりと置いてあって、これがまたおもしろくてたまらんのである。

多田等観先生は、旧制の秋田中学卒の学歴だが、チベットのダライ・ラマ十三世から、チベット仏教の博士と認められた学僧である。

その生涯は、悲惨であったとボキは思う。旧制中学だけの学歴で、東大や東北大でチベット仏教についての研究生活を送られたのである。さらにダライ・ラマ十三世から許可をいただいて日本に持ち帰った大蔵経の資料を、アメリカから取り上げられてしまう。アメリカの研究所で教えてくれないかという話に乗ってしまって、大切な研究資料がアメリカに渡ってしまったのである。研究所には短期間在籍だけはしていたらしい。しかし、甘言であったのである。

興味のある方は調べていただきたい。これ以上は書けない。あまりにも悲惨であるからだ。

世の中に甘言は多い。だから他人は安易に信用してはいけない。

ましてや、学者や研究者を志すくらいの方は慎重に行動することである。

別に職業を持って、好きな学問分野を地道に研究するというのが一番いい。

趣味である。趣味でやっているくらいがボキの場合には、あっているのだと思う。

生涯学習である。それこそ。

山の宿でもって、ボキはそんなことばかり考えてきたのである。

ま、故郷であるから、山はたくさんある。なにしろ山形県である。山だらけである。温泉も数え切れないほどある。

隠者のように、温泉に入りながらそんなことばかり考えてきた。

ブログと多田等観先生に学ばせていただいた。それも我が故郷である東北を題材にした東北芸術工科大学の「東北学」と「別冊東北学」にも触発されてしまった。

ありがたいもんである。

それではこれくらいにします。

それにつけても往復950キロを自分一人で運転してきた。これが一番うれしい。

回復できたからである。

もう、これだけの距離を運転できるとは、思ってもみなかったからである。

これからもボキはこうやって「日本瞥見記」のように、全国あちこちを放浪して歩くのであろう。

健康第一である。

そして、感謝である。

ここまで回復できたのも、ドクターならびに家族のおかげである。

感謝しないとバチがあたる。

ふううううううむ。

そういうことである。

 

さ、本日のオヤスミなさいませにしましょう。

Bye-bye!

 

 

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君、なるべく早いうちに、君の第一印象を書いておきたまえよ。

2016年08月24日 22時05分52秒 | 在野研究ごっこ

「君、なるべく早いうちに、君の第一印象を書いておきたまえよ。第一印象というやつは、あれは君、日増しに影の薄くなって行くものでね、一度消えてしまったとなったら、二度となかなか帰ってこないものだ・・」


小泉八雲が、日本に着いてからまもなく会った懇篤なイギリス人の教授に言われた言葉である。「日本瞥見記」の上巻に書いてある。

さすがに小泉八雲である。

小説家として有名であるが、実は民俗学者としても実績がある。霊魂とかの研究もしたのである。日本にかなり興味を持っていらしたらしいから。

神社仏閣に行った時、あるいは路傍の地蔵さんを見ているときにも「日本瞥見記」はいい。このような旅をしていきたいからである。

もっともボキなんかとはレベルが違うけれど。

これは大事なことである。

第一印象をメモしておくべきであろう。まさに。でないと忘れてしまうからである。どこに行ってもである。

ボキなんか、なにしろどこに行ったかすら忘れてしまうのだから始末に負えない。

だから惚け防止の努力を怠るとあっと言う間に、奈落の底に落ちてしまう。

それにつけても、旅に出たい。

奥深い山のひなびた温泉へ。

山猫が迎えてくれるような。

盆休みもなにもナイから。ボキの場合。

毎日が盆休みだからだ(^_^)。

休みついでに、今日は愛車cx5をディーラーに持っていった。タイヤの空気圧とか、Oilとか調べてもらった。いつでも山奥に出かけられるようにである。マジに。あとは、ガソリンを満タンにすればいいだけにしてあるのじゃ。

ああああああああああ、山の精霊がボキを呼んでいる。

温泉とささやかな山菜料理と、朝市で珍しい山のものを買って喰いたい。

美味い団子も喰いたい。

団子は、山形県の団子に限るからじゃ。

最上千本団子がいい。

最上川中流の大石田町にあるけど。

あ、これだと山の精霊がボキを呼んでいるんではないな。

団子じゃ、団子。

団子がボキを呼んでいるってぇこっちゃ(^_^)。

それにしてもレベルの低い話である。

今日はずいぶん書いた。

拙ブログを。好きなんだねぇ~。

駄文だけれど、脳トレにはなっているようだし。

これでよし、これで。

好きなことはずっと続けた方がよろしいから。

 

また明日!

 

 

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一遍聖絵に思うこと

2016年08月19日 15時05分27秒 | 在野研究ごっこ

 

実践こそ大切であると思うのである。Walkingも、宗教学も研究してなんぼというようなものではないだろうから。ま、他人のことは言えねぇ、言えねぇ。

 

 

「一遍聖絵」という本があって、県立図書館から借りたことがあった。気に入ってしまって、とうとう自分用に買った。むろん中古本である。例のAmazonからである。年金生活者にはありがたい会社である。しかも、ボキの机の上から買うことができる。インターネットで。

今日の記事は、その一遍聖絵の中にある一遍さんとその妻(妾とも書いてあるけど)超一、長女の超二、お供をしている念仏房その他のことである。

ボキは、この絵を見ていると実に落ち着く。

決して学問僧であろうとはしなかった一遍さんの実践人としての姿が出ているからである。

捨てて、捨てて、捨てまくった方である。

当然、万巻の経文も、そのメモも持参しておられない。

しかも、妻と娘と一緒である。

ここらあたりが、西行とは違う。西行は、出家するにあたり、自分の子どもを蹴飛ばしてまで家を出て行った。大男で、力に優れ、武芸も相当なものであったという。

日本最大・最高の歌人でもあった。否、和歌のみを残そうとした僧であり、事実そのとおりになった一流の知識人である。だからこそ、ボキのような一介の田舎人にはついていけない部分がある。その激しさにである。あまりも激しいからである。そんなに和歌の世界に執着しているのであったら、なんのための出家であったのだろうかと疑問におもうからである。

それでも西行は評価が高い。

知の人間としてである。

一遍さんは、違っている。知の人間ではない。優れた僧としての知名度や、実績というものでもない。

なにしろすべてを捨てて、捨てて、捨てまくった人である。

この絵は、その一遍さんが遊行の旅に出ようとしているその日である。ものの本によると、文永11年(1274)の旧暦2月8日であったらしい。

さらに一遍さんは学者ではない。生まれながらの詩人である。であるからして、伝記とか研究書から入らない方がいい。あくまで詩としての一遍さんの言葉から入って行った方がいい。

まとまった経典研究の類いのものはないから、かえって気が楽である。眉間に皺を寄せて難しい経典研究を読ませられたら、こっちだっていやけがさす。

そもそもボキは信仰というものを持っていないし、いろんな宗派を渡り歩いているアホだからである。

しかも仏教だけではなかった。これまでの宗教についての放浪は。キリスト教ですら専門の方について教えをいただいていたし。

だからではないが、実践こそ大切であると思うのである。宗教学は研究してなんぼというようなものではないだろうから。

ま、他人のことは言えねぇ、言えねぇ。

わははっははっはははっははっはは。

けふも孫と一緒に、出羽の海部屋の相撲合宿を見に行った。

孫が好きになったらしいから。相撲を。

孫は二人とも男児である。

これまた相撲も実践一つである。

研究してどうするこうするというようなもんでもないだろうから。

さ、孫が昼寝している。

これからボキは実践人としてgymに行ってくる。歩いてくる。

歩かないと死んじまうからである。

 

 

Bye-bye!

 

 

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自得の部分にである。 教えてもらってナンボの世界でない。「透明な力 不世出の武術家 佐川幸義」という本に学んだこと。

2016年08月17日 06時16分48秒 | 在野研究ごっこ

Walkingしているときも、ただただダイエットだけが目的なのではなくて、自得のために、あるいは健康即体力養成、すなわち頭脳の健康もねらっていくという方向に変更していくことである

 

 

佐川幸義という武術家がいた。大東流合気武術師範である。孤高の武術家であって、自分の流派を宣伝したり、門弟をたくさん作って収入増をはかるということをなさらなかった方である。さらに、あまり教えなかった。技とかも門外不出、秘伝というわけである。身体作りの方も、秘密主義であった。

しかし、教え方は非常に具体的であったらしい。宇宙との合体とか、気だとか、愛だとか説かなかった。あくまで技術であるとして、「相手のチカラを無くしてしまう」技法というのを持っておられた。

リキムということも完全否定されていた。なるほどである。力んだらおしまいである。特にJUDOでは。もっとも横文字のJUDOは、リキム武道になってしまったが。つまり、体力自慢、パワー自慢である。だから、中途半端に年をとると、できなくなる。力んだら、若い人にかなわないからである。

自得ということを繰り返し教えた。

習って覚えるものではないということである。

自分なりの工夫・研究というものが最も大事であるとされた。なるほどである。教えてもらったから、マスターできるようなものではない。武道というのは。柔道もド素人だけれども、それくらいはわかる。ボキでも。

さらに日頃の工夫鍛錬が大切であるとされた。日頃の体力養成、鍛えの日々を持つことである、と。

確かに、体力がないと、アタマまで衰える。

最初から衰えているけど、低レベルなりに、アタマの健康も大事にしていきたいと思っている。だから、体力を鍛えて、アタマの健康も維持していきたいのである。

生涯学習ごっこのコツみたいなものである。

で、ここからが大事なことである。

それは惚け防止のために、いろいろ語学学習をやっているが、この武道鍛錬と語学の鍛錬学習は一致しているのではないかということである。

FBの中国語学習グループの先生が、自得に関して書かれていたのである。さらに、学習方法のことも教えていただいた。佐川幸義先生のことも、このFBで教えていただいた。即、Amazonに注文したのが一昨日。昨日来たので、家で読了。

書名を「透明な力 不世出の武術家 佐川幸義」(文春文庫 木村達雄著)。なお、著者は東大の数学科から同大学大学院を出て筑波大学の教授までされた方で、剣道、合気道、大東流のそれぞれの段位を取得しておられる方である。

大変に感動した。

自得の部分にである。

教えてもらってナンボの世界でない。

確かに自分で努力していないと、マスターできない。語学も武道も。否、あらゆる生涯学習ごっこが。

完成はないのである。

四六時中、自得を目指してやっているかとなると、ボキは自信がない。語学も生涯学習ごっこのことも忘れているからである。

早い話が、机に向かっているときだけである。

これをである。Walkingしているときも、ただただダイエットだけが目的なのではなくて、自得のために、あるいは健康即体力養成、すなわち頭脳の健康もねらっていくという方向に変更していくことであると気がついた。

アホ・バカ・惚けのボキには、最近にない良書であったと思う。

またまた生まれかわるかもしれないねぇ。

今更だけれども。

 

Bye-bye!

 

 

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坂村真民先生のように生きていきたい・・・無理かもしれないが

2016年08月16日 07時48分43秒 | 在野研究ごっこ

どうしても他者比較の地獄に生きている

 

 

坂村真民先生の本を久しぶりに読んだ。昨日、ボキの書庫にあったのを思い出したから。

坂村真民先生とは、坂村真民記念館(http://www.shinmin-museum.jp/)の紹介によると以下のとおりである。

 

1909年(明治42年)、熊本県玉名郡府本村(現・荒尾市)生まれ。本名、たかし(たかし)。8歳の時、父親が急逝し、どん底の生活の中、母を支える。神宮皇學館(現・皇學館大学)卒業後、熊本で教員となる。その後、朝鮮に渡って師範学校の教師に。終戦後、朝鮮から引き揚げて愛媛県に移住。高校の教員として国語を教え、65歳で退職。58歳の時、砥部町に定住し、92歳で砥部町名誉町民に選ばれる。2006年(平成18年)97歳で砥部町にて永眠。

20歳から短歌に精進するが、41歳で詩に転じ、個人詩誌『詩国』を発行し続けた。仏教伝道文化賞、愛媛県功労賞、熊本県近代文化功労者賞受賞。

一遍上人を敬愛し、午前零時に起床して夜明けに重信川のほとりで地球に祈りを捧げる生活。そこから生まれた人生の真理、宇宙の真理を紡ぐ言葉は、弱者に寄り添い、癒しと勇気を与えるもので、老若男女幅広いファン層を持つ。

 

しかし、まだ行ったことがない。一度は行ってみたいところである。

ま、そんなことはどうでもいい。

坂村真民先生の生き方がボキのような凡夫とは違っているということである。ボキなんてぇふざけた自称もなさらない。当然である。人間の出来が違う。

一言でいうと反省させられた。

これまでの生き方、今、現在の生き方をである。

どうしても他者比較の地獄に生きている。どうして他人とボキを比べるのだろうか。あるいは、比較されてハラが立つのであろうか。

情けない。

悟りの境地とは程遠い。

論文然り。

読書体験然り。

家庭環境然り。

近所付き合い然り。

老人大学の人間関係然り。

郷土史もそう。

本当にバカバカしい。

バカはこうやって生きているという見本である。

オノレがナイ。

確立していない。

揺るぎがある。ゆさゆさと揺れている。実にバカそのものである。

もっと自己否定の徹底をしていかなくちゃアカンですなぁ。

でないと苦海そのものである。

あさましいことである。

ボキなんか。

 

ムムム・・・・・トホホ。

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/