2013 12 1千葉富津岬 東京湾フライト tokyo bay Flight
2014.4.29千葉九十九里浜 縦断フライト 屏風ヶ浦から太東岬まで
2014.5.18千葉 九十九里浜&御宿海岸 blue sea&sunset
『ちば見聞録』#026 ちばベイエリア 今昔物語(後編)【チバテレ公式】
これ・・・年末年始ずっとBRD に落としていたのだが、なんとなんとYoutubeでやっていたとは。ありがたいもんである。今更ながら。しかも連続で見られるではないか。
あははっははは。
徒労が多いなぁ。アタシャ。
後草が好きである
飯岡駅を出て、正面を右に曲がる。そうすると、踏切がある。後草(うしろぐさ)という集落に出る。もっとも、飯岡駅自体広原とか、後草という集落の一部に位置している。
私は、この集落も好きである。やはり人柄がいい。人品賤しからぬ人々が多い。これは、日本人の持っている特性なのではないのかと思う。日本人は徳が優先するのであって、メリットとかデメリットで動いてきた民族ではないとずっと思ってきたからである。
非常にお世話になっているW氏の住んでおられるところである。W氏は私が仲人をさせていただいた方であり、一緒にスキーに行ったり、今の当主が中学生の時には、私のふるさとまで旅行に連れていったのである。教え子と教師という関係にある。ま、その一点だけでも、いかにダメ教師であったかということがおわかりだろう。むちゃくちゃであったのである。好き勝手にやっていたのである。まったく恥の多い半生である。だから、私は、この飯岡駅周辺から、あるいは海上町から離れられないのである。それほど好きなのである。
最近、グローバルなんとかということがしきりに言われてきた。しかし、それは理科系の大学ではずっと以前から言われてきたことであって、理科系の大学では論文も、学会の研究発表も全部英語でなされるのである。今更である。
民俗学でも、論文を日本文で書いたら、英文のsummaryをつけなくてはならない。だから、私のような不勉強なものは、四苦八苦しているのである。
それはともかく、後草である。
ここに非常に優れた仮面劇が残されている。
ちょっと紹介してみよう。この駄文は私のゴミ論文からの引用である。書きかけなのであるが。
*
千葉県旭市後草(旧海上町後草地区)の水神宮で毎年二月の第1日曜日に行われる水神宮神楽は、800年の歴史と伝統を守って、現在でも後草集落と広原集落で毎年交代で演じられている。
伝承によると、この後草集落というのは、現在の旧飯岡町の刑部岬の先にあった集落であった。
仮面劇としての特徴をよく残していて、稚児の神楽踊りが中核となっている。しかしながら田歌いもよく残されてあって、仮面の保存状態もよく、以前は二月の二日に開催されることが決まっていたのであるが、継承者の都合もあって、二月の第一日曜日に変更されてきている。少子化の傾向で、集落の伝統芸能もなかなか伝わっていなかないということは、全国的な問題となっていて、この地もまた例外ではない。
この後草の水神宮神楽は、旧飯岡町にある玉崎神社大祭(千葉県旭市飯岡2126)から分社されたものであった。平成24年5月5日(土)に九十九里海岸北端にある旭市の竜王崎に。そこから500m内陸寄りにある玉神社で行われる。ちなみに、玉前神社は、日本武尊の東征の折、海の神玉依姫命を祀ったことに由来し、香取神宮に次ぐ下総国二の宮と称されている。玉前神社は、もともと現在の竜王崎から約8㎞先の海側にあり、浸食が激しく、江戸時代初期に現在の場所へ移転した。
同様に周辺の住民も移転を迫られ、神社とは離れた。同市後草(旧海上町)に集団移転したが、氏子として代々、玉神社に出張して神楽を奉納してきた。この神楽は水神社の永代大御神楽(千葉県無形民俗文化財第1号で伊勢神宮に奉納の栄にも浴している)といい、十二座神楽で玉神社の夏祭りに奉納し、五穀豊穣を祈願して舞う。地元では5月5日に玉神社で御神楽が奉納される。
一方、旧海上町の千葉県指定無形民俗文化財 (指定:昭和29.3.31)後草の水神社永代大御神楽 (すいじんじゃえいたいおおみかぐら) は海上郡海上町後草(水神社)で水神社氏子によって、この神楽は、毎年二月の第一日曜日に水神社の神楽殿で奉納される。かつては、旧暦二月八日の村祈念に行なわれていた。 神楽を舞う人は、氏子の二十前後の青年を中心とし、 神楽師(かぐらし)が中核となっている。祭り当日、神楽師は衣装を着し、御堂(オドウ)と呼ばれる祭礼の当番の家から神社まで練り歩く。演ずる内容は、「猿田彦神(さるたひこのかみ)」「天鈿女命(あまのうずめのみこと)」「三宝荒神(さんぽうこうじん)」「八幡太郎(はちまんたろう)」「手力男命(たぢからおのみこと)」「榊葉(さかきば)」「稲荷保食神(いなりうけもちのかみ)」「田の神」「種蒔(たねまき)」「春日大神(かずがたいじん)」「夷(えびす)」「大国天(だいこくてん)」「乙女(おとめ)の舞」「素盞鳴命(すさのおのみこと)」である。以前は、「湯神楽(ゆかぐら)」と呼ばれる湯立ても行われていた。豊年万作を祈願する岩戸神楽といえるであろう。楽器は、横笛・大太鼓・小太鼓を用い、神様ごとに曲を変える。神楽の中では、新粉餅を投げる場面があり、それを食べると無病息災と伝えている。
旭市教育委員会の水神社永代大神楽の解説板もあって、地元の方々の熱意が伝わってくる。また、田歌いの仮面の舞では、後草の青年達が、神楽師として楽器を担当する。神楽芸能の原点があるのではないかと思われる。古い伝承を伝える仮面が、全部で13面もある。狐の仮面、獄卒の面もある。閻魔系統の顔をしている。能の翁の面相をしている面もある。役人系統の登場人物を現すものであろうと思われる面もある。烏帽子を被っているのが、特色である。私は、密かに方相氏の影響もあるのだろうかと推察しているのだが。
御堂(おどう)を仕切る地域の名家(今年は、私の親しくしているW家が担当していた)が役割をもって演じる。天狗である。自宅から神社まで一本下駄で出かける。水神社にも舞台がしつらえてあって、神楽師が鳴らす楽器で、ここからは本格的に演目が演じられる。延々と夜7時近くまで演じられる神楽である。
この後草という集落は、もともとは現在の旧飯岡町の刑部岬灯台の下にあった集落である。ただし、伝承の域を出ていないのだが、文献的にはかつて旭市の西部に位置する椿海の南岸に接していたと書かれている。『海上町史』 によると、同書に紹介されている『江ヶ崎村誌』の著者は、次のように描いてあると記している。
西方乾、北艮(うしろとら)は総て椿悔満々たる水上に、漁夫の布帆出没、水鳥遊泳す。実に千勝景。遙に鏑木城、大寺、諸徳寺、小南城、松ヶ谷、岩井の白石、見広城、雷神の森一眠に眺望、東は後草村を一望す。
このような風景は、椿悔が干拓される前には、普通に存在したものあったろう。しかし文献的には、高梨与晟家に残る史料がすべてのようであると『海上町史』は記している 。要約すれば、高梨家に伝わる史料は、以下のとおりである。
建久三年(1192)飯岡、永井波戸にあった七軒の家が、波に打たれ住家を失い、この地に移り住んだ。草生切にて小屋を作り、鎮守水神宮を作り、村の名前を後草村と改めた。正治二年、四国土佐の人来たりて、高梨基国と名乗り、後草の勘右衛門の娘と結婚して湖水辺りに漁業を営んでいた。享徳三年、当主が病を得て、信濃善光寺に参詣すること三十三度、十一面観世音像をいただき、堂宇をたてて安置した。さらに、天和三年(1683)金蔵院長光坊を導師として十一面観世音像の開扉をなした。
ここに書かれていることは、永井波戸からの移住と、観音堂縁起である。後草という地名は現在地に移ってからの地名であり、後草という集落が海蝕によって失われ移住したとみるべきではないと、『海上町史』は否定的にとらえている。しかし、この史料の最後に見える「天和三年」という年は、後草の集落には、水系の移動があったからである。現在の後草集落の中心地にある水神社は、現在地の北方三〇〇メートルほどにある、古水神から移したものである。現在の水神社の石鳥居の柱には、「天和三年七月吉日」と刻まれている。この水神社の側を天和溜めから、天和川の水路が新田の惣掘りにつながっている。椿海干拓のなった後に、後草村の新しい水系が整備されて、それが天和期に、水神社も現在地に移されたのではないかとしている。
もう一つある。「芋念仏」の伝承である。
刑部岬沿いにあった後草の人々は漁を生業としていた。ある時、海浜に漂着した箱があって、その中から阿弥陀三尊の軸を見つける。人々はこの尊像を厚く信仰して、年を経て永井七村(永井、後草、八木、小松、三宅、赤塚、正明寺)が集まる盛大な念仏行事に発展した。その後、範囲が広くなり東西二つにわけて、永井、後草、八木の村々が今に続く芋念仏を守り育ててきた、という伝承である。しかし、この伝承は、さらに佐貫城落城の伝承が加わり、後草七家の祖の伝承が成立したものでもあろうと、海上町史はしている。さらに左記のような記述もある。
片岡常春は佐竹氏を舅として、頼朝に叛し、このため佐貫城は頼朝の軍勢に破れ落城し、一族郎党は各地に離散した。そのうち、飯岡永井の波止にかくれて、漁業を生活の糧としていたもの達があった。これが「後草七家の」祖である。
とする伝承である。芋念仏の言い伝えと、海蝕による移住の話と、片岡一族の落城の三つの伝承が結びついて後草の移住譚が成立したものであると「海上町史」はしている。高梨家に残されている古文書は、後草の草創にからめて、建久三年(1192)に後草七軒が移住したと書き起こしている。建久三年は、源頼朝が鎌倉幕府を創立した年である。
このことが何を意味するのか。民間芸能というものには、すぐれた一人の知恵者が存在しないと成立しなかったのではないかと推定するからである。
芸能は、自然発生的に、あたかも天から降ってくるようなものではないのではないか。すべての構成を、脚本を書いた人物がいるはずである。所謂発案者である。その創始者が劇としていて、周囲に賛同する人々がいて、中核となる創始された物語があって、時間と共に工夫され、改作されて、発展していったのではないのかというのが、筆者の推定である。
それが宗教の布教を目的にしていた場合には、よりその手法が確立されていたであろうし、芸能を楽しんで見ているうちに、特定宗教の教えに教化されるのであれば、宗教の伝道者としては好都合である。
その原型が、中国の目連劇であり、大衆芸能なのではないのか。(略)
*
駄文を労した。
こんなことがあるから、私は飯岡駅周辺から離れられないのである。つまり私の興味関心に、この土地がいろいろなものを与えてくださるからである。
ありがたいものである。
それではそろそろ、この辺りで。今日は、かなり字数をオーバーした。いかんですな。反省しています。
それでは次回をお楽しみに。
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刑部岬からは、冬、富士が見える
飯岡駅の改札口を出ると、すぐ目の前に四〇年前には朝日館という旅館があった。江戸時代から抜け出してきたようないい建物であった。残っていたら、テレビの取材があったかもしれない。それほど、趣味のいい旅館であった。まだまだ若い二十代のころに、何度かここで宴をもったことがある。先輩たちと呑んでいたのである。
その先輩達も人柄が良かった。おおらかで、酒も強い。様々な教育談義に非常に勉強になった。いちいちノートにとって、先輩達の話を聞いていた。その中の五人の先輩達とは、今でもおつきあいいただいている。そうなのである。もう四〇年である。途中から高校教育界に放り出されてしまった私を、それでも捨てないでいただいた。ありがたいものである。イニシャルで書くと、三名の方が「i」である。さらに、「a」氏と「t」氏である。この中のお二人が後に教育長になられた。そして、全員校長までやられた。私のようなよそ者を、見捨てず、あまつさえ指導までしてくださったのである。だから、この飯岡駅のある海上町が好きなのである。
さて、この旅館の前を左折すると駅前の商店街に出る。すぐのところに信号があって、そこを右折するのである。左右に商店が並んでいる。今でも商売をやっている。かつては隣町であった旭市にショッピングセンターができたせいで、栄枯盛衰いろいろとあったらしいが、よくは知らない。
その先に海上町立の海上中学校というのがあった。私の就職先である。この学校の思い出はまた拙ブログに書いておきたい。なんといっても、私のような”マレビト”を採用していただいた学校であるからである。しかし、今は書かない。先の楽しみにとっておく。
さて、今日は刑部岬(ぎょうぶみさき)である。
この岬には、タクシーでないと行けない。旭駅から銚子行きのバスもあるが、本数が少ない。バスに乗れば、刑部岬入り口という停留所で止まってくれる。その停留所から歩いて一〇分である。
飯岡駅の左側にずっと、飯岡の丘陵地帯があって、それがその先の海岸まで続いている。ずっとである。それに、遠い。さらに、丘陵が海岸に到達したらと思ったら、突然突端がほぼ直角に海に潜ってしまう。それが「刑部岬」である。
飯岡町の市街地を抜けて、銚子に行くための坂道をちょっとだけのぼると、刑部岬への案内看板がある。そこからさらにのぼっていく。小さな灯台がある。漁船を導いた灯台である。そして、その灯台の真下に、飯岡漁港がある。かなり大きい漁港である。第1種漁港で、東側には屏風ヶ浦と呼ばれる海食崖があり高さ四〇から五〇メートルの断崖が約十キロメートルにわたって連なっている。西側は刑部岬を境として九十九里浜の砂浜が続いている。漁獲量は千葉県内で二位だそうである。
ここが東日本大震災では、かなりの被害を受けた。
合計で十四名の方が亡くなっている。
なんとういうことであろうか。
大津波が、飯岡漁港に押し寄せてくる映像をYoutubeに載せていた方がいて、私もそれを見た。そして、それらの映像がこの刑部岬から撮られていたのである。震災後、天皇陛下も来られて、励ましをしていただいたことを記憶している。それほど、被害が大きかった。
ちなみに、この九十九里海岸というのは、何度も津浪や地震に苦しめられてきた土地である。それ故にこそ、人々の祈りの証である供養塔があちこちにある。人々の祈りというのは、非常に大切なものである。否、九十九里ばかりではない。日本という国は、自然災害と戦ってきた国なのである。だからこそ、日本人というのは、祈りと自然を大切にしてきた。怖れの気持ちもたぶんにあったのかもしれない。
私は、その供養塔を追いかけて、九十九里海岸の南端である太東岬まで六十六キロをカメラ片手に写してあるいた。その結果は、在籍大学の「文明の科学」という研究誌に載せてある。それほど私には、九十九里の人々の祈りというものが魅力的なものに思えるのである。
九十九里南端の一宮町にある供養塔には、「津波精霊様」とも彫ってある。こういうように、亡くなった方を大切にしてきた土地柄なのである。
以下はその時の写真である。あえて解説はつけない。
元に戻ろう。
例によって、旭市の公式HPから紹介してみよう。
http://www.city.asahi.lg.jp/kanko/tanbou/01/ 平成26年12月13日(土)現在
刑部岬(ぎょうぶみさき)・飯岡刑部岬展望館 ~光と風~
屏風ヶ浦の南端にある刑部岬からは太平洋の大海原と白浜の美しい九十九里浜などを一望することができ、「ちば眺望100景」「日本の夕陽・朝日百選」「日本夜景100選」「日本夜景遺産」などに選定されています。 また、晴天時には、水平線に浮かぶ富士山を見ることができることから、「関東の富士見百景」にも選定されています。
飯岡刑部岬展望館~光と風~ 01:51 2007-12-20撮影
ここからの眺望はすばらしく、絶好の撮影スポットとして多くの人々に親しまれています。
陽の光に輝く、眼下の海、漁港。
夕陽と街灯りが織りなす、美しい夕景、夜景。
訪れるたびに違った表情に出会えることでしょう。
公式HPは、景観がすばらしいと書いている。
確かにそうである。
若い男女のデートスポットとしては最適であろう。私はとてもじゃないが、行く気がしない。さらに相手もいない。一人で行ったら、怪しい爺に見られてしまう。ま、それでもめげずに時々は行く。なぜなら、冬、富士が見えるからである。大した景色である。これはほんとうにお勧めである。それに、冬は、いくらアツアツでも、さすがに岬の上は寒い。だから、恋を語らうお二人さんはあまりいない。爺くらいしかいない。それも風邪をひいたらつまらない。ホッカイロを持って、背負って、足にもつけているだけである。風情もへったくれもありゃしない。
そんなものである。
そんなもの。
寒くなったら、灯台の真下にある民宿であったかいものを食べてくる。「岩壁荘」という。ここの店主というか、経営者は、飯岡丘陵の山の上に別荘を所有していて、一度見せていただいたことがある。そうとうな趣味人である。なかなかの家に住んでいる。丘陵の上だから、眺望もいい。
年をとったら、無理をしないで、趣味に生きることである。そういうことを教えていただいたような気がする。
岩壁荘は灯台の下にある右側の建物
岩壁荘主人の別荘に咲く可憐な花
また、字数が気になり始めた。
あまり、長く書くと喜ばれない。
よって、これくらいとする。
また明日。
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年貢
飯岡駅の周囲についてもう少し語る。しばらくこの飯岡駅を中核として拙ブログの記事を書いてみたい。
駅周辺は、現在でも農業が盛んな土地柄である。人柄の良い人が実に多い。妙に威張る人もいない。人品が賤しくない。これは古代からの伝統なのであろう。万葉集の貧窮問答歌に出てくるような生活ぶりがない。生活で困っている人というのを聞いたことがない。おおらかなのである。
しかしである。豊かな海と、農業が盛んで食糧自給率全国一の房総、とりわけ房総半島の北東部でも近世の世では、苦しめられたことがある。
重税である。つまり年貢のことである。なんだか、現代の消費税騒動のようなことを想像してしまうが、いつの世でも庶民は重税では苦労してきた。
房総は江戸に近かったから、大大名というのはいない。佐倉の堀田の殿様くらいで、それもたいした禄高ではない。十一万石くらいである。もっとも、江戸の近辺に大大名がいたら、徳川幕府はもたなかったにちがいない。
だから在地領主がいなくて、代官とか名主が治めていた。
その年貢の取り立てが厳しかった。
四公六民といって、十俵米を取ったら、四俵は年貢として納めなくてはならなかった。しかし、徳川吉宗のあたりから、幕府は財政再建のためと自称して、重税を課した。四公六民から、五公五民にして、十俵のうち五俵を年貢として課したのである。これがエスカレートして、六公四民になっていった。佐倉藩は、さらに七公三民にして重税を課した。これでは農民達がたまったものではなかったに違いない。
ちなみに、社会福祉国家であるスウェーデンは、消費税三五%である。給料が十万円なら手取りが六万五千円になるとのことであった。ただし、世界一の社会福祉国家であるから、病院も無料、大学も無料というように国民にサーヴィスを徹底的にやっている。このあたりは、たいしたものである。貯金をするひともいないらしい。老後の心配がないからである。全部国家が面倒を見てくれるということである。
元に戻ろう。
であるからして、在地領主がいないから、代官・名主は年貢を厳しく取り立てたというのは、自分の成果を上げるためである。そこには政治がない。民衆のためという発想そのものがない。殿様が在地にいないのである。江戸で贅沢な暮らしを楽しんでいたわけである。しかも、房総の殿様たちは、一定範囲を領地として治めていたわけではなかった。トビトビに領地があった。複雑怪奇である。細切れ領主であったのだ。
旭市の市史に出ているが、今の後草を領地としていた殿様の書き付けがある。
「百姓は雨が降ったら傘をさしてはならない」
「羽織も着てはならない」
「酒も二人以上で呑んではならない」
と書いてある。
つまり、徹底的に庶民をいじめたわけである。思えば、不思議な時代である。武家社会というのは。だから、スウェーデンと違って、老後は保障されていなかった。
老いたら、勧進をするしかなかった。
本来、勧進とは、寺院の建立や修繕などのために、信者や有志者に説き、その費用を奉納させることをいう。そのことにより人びとを仏道に導き入れ、善行をなさしめるのが元来の意であったが、のちには寄付を集める方法として興行を催し、観覧料の収入をもってこれに当てるという意味としても広く用いられた。中世においては、橋や道路の修理・整備から官寺(鐘や仏像、写経をふくむ)の建設や修造など、本来は朝廷(国家)や国衙(地方行政機関)がおこなうべき公共事業も、勧進によってなされた。勧進をおこなう者は、勧進帳(後述)をたずさえて諸国を遍歴したり、橋のたもとや寺社の門前、関所などで「一紙半銭」の寄付を募った。(ウキペディアによる)
この場合は、宗教家の宗教活動である。
しかし、勧進は別の意味もある。「乞食」ということである。
老いた爺は、勧進となって放浪の旅に出たのである。つまり、自殺への旅である。全国どこに行ってのたれ死にするかわからない。それでも結構ということである。旭市網戸の岩井太郎兵衛という人が、勧進の許可証を出していたようである。もっとも、これは出羽三山信仰等も関わってくるのであろうが、私は研究者でもなんでもないから、このまま書き進める。
老人ばかりではない。
幼児たちも七歳になると奉公に出た。
食い扶持減らしのためである。悲惨な生活をしていた。もっとも、私の住んでいた東北はもっと悲惨であった。近世の飢饉があった時にどれだけの死者が出たかということを考えると気が滅入る。しかし、唯一、山形県の米沢藩は、名君上杉鷹山が出たから、飢饉に対しても万全の対策を講じていた。餓死者がでなかった藩であった。産業を育成していたからである。経済を重視している現政権にも鷹山のことを勉強していただきたいくらいである。ケネディ大統領も、尊敬する日本人として鷹山をあげているくらいである。
米沢藩は、徳川幕府にとってよほど目障りであったらしく、実は藩内に天領がある。今の、高畠町である。ここが上杉一派のお目付役であったらしい。赤湯は市町村合併で南陽市となったが、高畠町は未だに独立独歩である。相容れないのであろう。拙ブログにも書いてみたいのであるが、まだまだ東北の歴史まで手が及ばないからちょっと無理である。
房総に戻ろう。
とここまで書いて、字数が気になりはじめた。
一気に打鍵することもない。
私の楽しみで書いているだけであるから。
それに、これから学生さんをやってこなくちゃならない。じーさんになっても、結構忙しいのである。
次回また書かせていただくことにする。
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飯岡駅
房総の地に飯岡駅というのがある。
千葉駅から電車に乗って、一時間三〇分はかかる。各駅停車である。現在は旭市という市と合併しているのだが、合併前の海上町というところにある。飯岡駅という名前で、海上町にあるのである。不思議な駅名である。海上町の隣が飯岡町である。だから、実際は、海上駅がふさわしいのだろうが、どういうわけか飯岡駅という名になっている。
今からちょうど四〇年前に、この駅に降り立ったのが私である。二三歳と二ヶ月になったばかりであった。まだ若々しい青年であった。というよりも未熟者というのがふさわしい。
亡父にもらった古めかしい背広を着ていた。着慣れないわけである。寸法が違っていた。ツンツルテンであったのである。
東北にある温泉町の赤湯というところから、はるばるやってきたのである。急行で来たのだが、上野駅まで七時間はかかった記憶がある。そして乗り換えて総武線で千葉駅まで、一時間。そこから総武本線で一時間三〇分。当時はもっと遅くて、二時間はかかったような気がする。ずいぶん遠い土地だなと思った。今は、東北新幹線があって、赤湯までかなり速い。東京から三時間もかからないのではないか。もっとも、帰省する時はクルマであるから正確には知らない。
生まれて初めて来た土地である。かなり不安であった。飯岡という場所も、九十九里というところも知らなかったからである。そしてそこから私の房総生活が始まるのである。就職のためにやってきたのであった。ま、そのあたりのことはまたオイオイと書くことにするが、今日の記事は、飯岡町に伝わる飯岡助五郎のことである。
旭市の公式HPには以下のとおり書いてある。平成26年12月11日(木)現在である。
(http://www.city.asahi.lg.jp/kanko/tanbou/10/)
古くから漁業で繁栄した旭市。飯岡助五郎は、江戸時代、海難事故により途絶えかけた漁師の人材の確保をはじめ、海岸侵食を防ぐための堤防工事など、旭市の漁業振興に力を注いだ人物でした。
また、網元として成功するかたわら、「十手持ち」として近隣の治安にあたるほか、江戸相撲を興行するなど、地域振興に活躍した人物でもあります。光台寺には助五郎の墓があります。
【天保水滸伝】
浪曲や講談でおなじみの「天保水滸伝」では、笹川(現在の東庄町)一帯を中心に勢力を拡大する笹川繁蔵一派との勢力争いが「大利根の決闘」として語られています。
この決闘で一度は笹川方に大敗した飯岡方ですが、のちに繁蔵を討ち果たします。その時討ち取られた繁蔵の首は飯岡助五郎によって、定慶寺の境内に丁重に葬られたといわれています。
助五郎の墓と繁蔵の首塚
飯岡助五郎の墓(光台寺)
助五郎の墓は、菩提寺である光台寺に残されています。(入口に案内図あり)
法名: 発信院釈断流居士(ほっしんいんしゃくだんりゅうこじ)
本名: 石渡助五郎 屋号: 三浦屋
笹川繁蔵の首塚(定慶寺)
光台寺から半町(1町は約109メートル)ほど離れた定慶寺に、笹川繁蔵の首塚があります。
光台寺~定慶寺付近は道が細いのでご注意ください。
映画にもなったから、ご存じの方も多いだろうと推察している。
ロケで、旭市に来たときは、旭駅前の旅館に泊まっていたという。助五郎の女房役に、女優の大竹しのぶがいたそうな。雨でも降ると映画を製作していた方々は、朝から酒を呑んでいたそうで、さすが芸能関係の人はひと味違う。もっとも、大竹しのぶ嬢は酒を呑んではいなかっただろうけれども。
房総の土地は、九十九里の海が荒々しいだけに、酒が似合う。美味い魚と、純粋の醤油が名産であるから、いきのいい刺身を肴に日本酒をぐいっとやる人が多い。それに土地柄もあって、非常に陽気な人が多い。房州人の特徴であろう。なんでも明るく物事を考え、くよくよ悩まない。おそらく鬱病なんていうものと縁のない土地として、日本屈指の土地ではあるまいかと思っている。
裏日本とか呼ばれて、大雪に囲まれて鬱々と過ごしていた私は、この土地の人々の陽気さにびっくりしたからである。
さらに太平洋があまりにも広大である。
隣はあのアメリカなのである。海岸の向こうにはアメリカがあるのである。夏涼しくて、冬はとてつもなく暖かい。土地の人々の人柄そのものである。涼やかで、性根が暖かいのである。くよくよ悩まない。
ついでに言えば、食糧自給率は全国一だということである。納得できる。海には魚がたくさんいる。さらに、房総丘陵、九十九里平野では野菜がとれる。
旭農業高校という「農業」の名を冠した高校が旭にあるのを見ても、農業が盛んであることはわかっていただけるように思う。ちなみに農業自営率では日本一であるときいたことがある。農業の名前を冠した高等学校は房総の高等学校で唯一となったが、創立一〇〇年を超えた伝統校であり、土地の名士はこの学校の卒業生が殆どである。
酒が似合うということは、雨が降ったら、仕事がなくなるということにも結びつく。海で漁をやっていた人も、農業をやっていた人も、そういうときは博打をしたらしい。江戸時代の時である。
そういうときに飯岡助五郎のような人が出てきたのであるが、これにはもう一つの因縁がある。
それは米所の東北から米が海路銚子まで運ばれてきたという事情がある。千石船という大船で米が、今でいう石巻あたりから運ばれてきた。銚子までである。銚子で米を積み替えるわけである。そして、銚子から舟底の平たい船で利根川を遡上して、今でいう関宿あたりまで運んだ。関宿から、今度は江戸まで舟で運搬していった。運搬人が必要であった。
当然、腕力・体力のいる仕事である。
だから助五郎のような人が必要になったというわけである。今でいう人材派遣業者みたいなものである。
国道の126号を北上すると、風光明媚で有名な刑部岬がある。飯岡町である。この刑部岬もそのうちに書いてみたいが、その国道脇に、飯岡助五郎の墓の看板が立っている。光台寺である。毎月八日に住職の話を聞くことができる。浄土真宗でいう聞法である。なかなか威厳のある立派な寺である。私も、一度だけ聞法に行ったことがある。中央仏教学院で勉強していた時期もあったし、住職がその学校の先輩でもあったからなんとなく親近感があったからである。もっとも、信仰心の薄い私はそれきり行っていないのだけれども。
飯岡駅からは遠い。
タクシーを使われたほうがいい。
近世の歴史が好きな方は、一度は訪問なされた方がいい。
次回は、助五郎さんそのものについて書いてみたいが、いつになるやら。
とほほ。
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