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大伴家持といえば万葉集の編者である。万葉集は、古事記・日本書紀とならぶ日本の古典中の古典である。記紀が宮廷で残されたのに対し、万葉集は家持個人が収録したもので、ある時期に彼が天皇家に献上したのである。個人が所蔵していたとしたら万葉集は残らなかったかもしれない。これほどの宝物がいま私たちの手に残ったことを思えば人間の意志をこえた運命を感じざるを得ない。
万葉集は、掘れば掘るほど色々なことが出てきそうだが、端緒についたばかりの私には今後の楽しみにしたい。これからも家持のことを考えていくだろうが、今回、家持について書こうと思ったことは、親戚縁者が錯綜し、頭の中がスパゲッティ状態になったため整理しようと思ったためである。そこで筑摩書房刊、日本詩人選5「大伴家持(山本健吉著)」を読んだ。スパゲッティ状態は少し解消されたが、その内容についてふれるよりこの本のレジュメを残す方が賢い気がする。ということで以下がその内容である。あまり的を得ていないかもしれないが、興味あるところをいくつかまとめてみた。
<1>家持は旅人の晩年にできた子で、旅人の正妻・大伴郎女ではなく若い女に産ませた子である。弟・書持、妹もいたことを考えると生母は確かないちを与えられ、妻・妾の間に葛藤はなかったらしい。むしろ家持は嫡男として大事に育てられたらしい。
<2>旅人は九州に赴任中に苦労を共にした大伴郎女をなくして、異母妹の坂上郎女を九州に呼んだ。立場としては後妻というより家を取り仕切る秘書のようなものであったらしい。家持にとり坂上郎女は母であり、叔母であり、教師であった。
<3>ともかく大伴家は歴史的にも由緒があり、多くの人が出入りしていた。大伴系図もあるらしいからそれを参照すれば、少しはスッキリするだろう。
<4>万葉集は雄略天皇の歌で始まり、家持自身の正月の歌で終わっている[巻20、4516首目]。この時彼は40才、なくなったのは66~67才であるから、死ぬまでの27年間の歌がない。歌ったのか、歌わなかったのか、気になる。
<5>家持が、亡くなったのは66~67才であるが、晩年は政争などに巻き込まれ大変だったらしい。死んだときも藤原種継事件の首謀者にされ息子も処分され、自身は死んでいるにも関わらず処分され官位を剥奪されるという憂き目にあっている。特赦があり許されたのは桓武天皇の代、20年後のことだった。
大伴家持といえば万葉集の編者である。万葉集は、古事記・日本書紀とならぶ日本の古典中の古典である。記紀が宮廷で残されたのに対し、万葉集は家持個人が収録したもので、ある時期に彼が天皇家に献上したのである。個人が所蔵していたとしたら万葉集は残らなかったかもしれない。これほどの宝物がいま私たちの手に残ったことを思えば人間の意志をこえた運命を感じざるを得ない。
万葉集は、掘れば掘るほど色々なことが出てきそうだが、端緒についたばかりの私には今後の楽しみにしたい。これからも家持のことを考えていくだろうが、今回、家持について書こうと思ったことは、親戚縁者が錯綜し、頭の中がスパゲッティ状態になったため整理しようと思ったためである。そこで筑摩書房刊、日本詩人選5「大伴家持(山本健吉著)」を読んだ。スパゲッティ状態は少し解消されたが、その内容についてふれるよりこの本のレジュメを残す方が賢い気がする。ということで以下がその内容である。あまり的を得ていないかもしれないが、興味あるところをいくつかまとめてみた。
<1>家持は旅人の晩年にできた子で、旅人の正妻・大伴郎女ではなく若い女に産ませた子である。弟・書持、妹もいたことを考えると生母は確かないちを与えられ、妻・妾の間に葛藤はなかったらしい。むしろ家持は嫡男として大事に育てられたらしい。
<2>旅人は九州に赴任中に苦労を共にした大伴郎女をなくして、異母妹の坂上郎女を九州に呼んだ。立場としては後妻というより家を取り仕切る秘書のようなものであったらしい。家持にとり坂上郎女は母であり、叔母であり、教師であった。
<3>ともかく大伴家は歴史的にも由緒があり、多くの人が出入りしていた。大伴系図もあるらしいからそれを参照すれば、少しはスッキリするだろう。
<4>万葉集は雄略天皇の歌で始まり、家持自身の正月の歌で終わっている[巻20、4516首目]。この時彼は40才、なくなったのは66~67才であるから、死ぬまでの27年間の歌がない。歌ったのか、歌わなかったのか、気になる。
<5>家持が、亡くなったのは66~67才であるが、晩年は政争などに巻き込まれ大変だったらしい。死んだときも藤原種継事件の首謀者にされ息子も処分され、自身は死んでいるにも関わらず処分され官位を剥奪されるという憂き目にあっている。特赦があり許されたのは桓武天皇の代、20年後のことだった。