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映画「さよなら,人類」:深夜に大声で語られる哲学

セルフサービスの食堂で,ビールとサンドイッチの代金を支払い終えた男が心臓発作を起こして倒れる。救急隊員の懸命の救助活動も実らず,男は息絶える。それを傍で見ていたレジの女性は途方に暮れて,食堂にいる客たちに声をかける。「誰か,この人が代金を払ったビールとサンドイッチ,無料でいいから引き取って!」。果たして,男がこの世に残した最後の遺産を引き取る客は現れるのか?

そんな死を巡る3つのエピソードで幕を開けるロイ・アンダーソンの「さよなら,人類」は,カメラが切り取るすべてのフレームにおいて,観客の脇腹をくすぐり,「身に覚えがあるんじゃないかい?」と問いかけ,「偉そうにしてたって,こんなもんだよ,人類は」と嘯いてみせ,最後は「へんてこりんな荷物を詰め込んだ鞄を抱えてよたよたと歩き続けるのが人類の務めさ」という哲学を,深夜には相応しくない音量で語りかけてくる。

まったく動かないカメラは,冷徹でありながら,起こり得るすべての出来事を逃してはいけない,という使命を帯びているかのように,繊細かつ的確なアングルによって,大勢の人間たちの右往左往を見つめ続ける。
サムとヨナタンという二人組のセールスマンの珍道中を描いた一種のロードムービーという体裁を取りながら,時に日常の些事,時に時空を飛び越えたファンタジー,そしてひょっとすると実際に起こったかもしれないと思わせるような架空且つショッキングな出来事まで,短くも多様なエピソードが挟み込まれる構成には,ヴェネチアでグランプリを争った「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」にも通ずる高度な企みが強く感じられる。
しかし本作の方が,脈絡のないエピソードの連続にも拘わらず,惹きつけるグリップの強さを感じるのは,映像表現のあざとさを越える人間洞察の深みと,北欧人が持つ独特の間の抜けたユーモアの力のせいかもしれない。

日時を間違えて何度も約束した場所に来てしまう男のエピソードは,まるでエドワード・ホッパーの絵のようである一方で,アフリカらしき場所で繰り広げられる巨大人間バーベキューや,黒沢清の「CURE」を思い起こさせる猿の実験装置などは悪趣味この上ない。このノーブルとグロテスクの絶妙な配合は,同じスウェーデン出身のイングリッド・バーグマンの娘,イザベラ・ロッセリーニの「ブルー・ベルベット」での痴態にも通じるものがある。頼もしき後輩が成し遂げたこの偉業,是非ともベルイマンの感想を聞いてみたいものだ。
★★★★★
(★★★★★が最高)
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