ことサッカーに関しては,全くもって大雑把な括りで恐縮だが,頭抜けた突破力を持つエゴイストのFWが点を取って勝つチームよりも,ヨハン・クライフ以来バルセロナやオランダ代表で受け継がれてきた「全員でボールを廻して相手を崩す」ことを追求するチームを応援してきた。だからという訳でもないのだが,私はアカデミー賞の主演男女優賞受賞作に関して「賞狙いの芸達者な役者が,特異なキャラクターを大仰に熱演した作品のオンパレード。真に観るべきものは少ない」という持論,というか偏見に近い考えを持っている。しかし本作はそんな偏屈な持論を覆すような,演技者,脚本,演出,音楽,撮影等々の要素が,精緻に織り上げられた見事な作品だ。
落ちぶれたカントリー歌手の転落と再起の物語という手垢の付いた題材だが,小さいけれどもしっかりとした重さを感じさせるエピソードを幾つも組み合わせて紡いだ脚本を,ビート感を前面に打ち出した新しいカントリー・ミュージックを背景にして,抑制の効いた描写でまとめ上げた監督のスコット・クーパーの手腕には,メジャーの経験とインディペンデント独自の視点の両方を感じさせるものがある。
ワン・ナイト・スタンド(一夜限りの公演)のバックを務める若者,主人公にヒロインのジャーナリスト,ジーン(マギー・ギレンホール)を紹介するクラブの経営者,主人公の親友(ロバート・デュバル),そしてジーン親子。彼らと主人公の交流を綴った幾つものプロットが,リアルで血の通ったものになったことが,すべてのエピソードの中心にいるジェフ・ブリッジスの戴冠に繋がったことは間違いない。
そして特筆すべきは,米国の伝統音楽をその持ち味を殺さず現代風にアレンジする手腕では右に出るもののない辣腕プロデューサーであるT・ボーン・バーネットと,作品の完成を待たずにこの世を去ったスティーブン・ブルトンの音楽が,物語の背骨を作っていることだ。そして彼らが作り出す,力強くも艶っぽい曲を歌いこなすジェフ・ブリッジスとコリン・ファレルの歌は,オルタナ・カントリーの隠れた実力派シンガーと言っても通用するレヴェルに達している。
主人公の薫陶を受け,今や大スターとなったトミー・スウィート(コリン・ファレル)のコンサートの前座としてステージに上がった主人公のバッド・ブレイク(ジェフ・ブリッジス)がトミーと共演する瞬間が,物語の一つのハイライトとなり得たのは,そこで演奏される音楽の骨太なビートが,バッドのプライドとトミーの師を慕う笑顔を結びつける役目を,完璧なまでに果たしているからだ。
メインのクレジットや宣伝材料からコリン・ファレルの名前が落ちていなければ,☆をひとつ追加したのに,これは何故?
★★★★
(★★★★★が最高)
落ちぶれたカントリー歌手の転落と再起の物語という手垢の付いた題材だが,小さいけれどもしっかりとした重さを感じさせるエピソードを幾つも組み合わせて紡いだ脚本を,ビート感を前面に打ち出した新しいカントリー・ミュージックを背景にして,抑制の効いた描写でまとめ上げた監督のスコット・クーパーの手腕には,メジャーの経験とインディペンデント独自の視点の両方を感じさせるものがある。
ワン・ナイト・スタンド(一夜限りの公演)のバックを務める若者,主人公にヒロインのジャーナリスト,ジーン(マギー・ギレンホール)を紹介するクラブの経営者,主人公の親友(ロバート・デュバル),そしてジーン親子。彼らと主人公の交流を綴った幾つものプロットが,リアルで血の通ったものになったことが,すべてのエピソードの中心にいるジェフ・ブリッジスの戴冠に繋がったことは間違いない。
そして特筆すべきは,米国の伝統音楽をその持ち味を殺さず現代風にアレンジする手腕では右に出るもののない辣腕プロデューサーであるT・ボーン・バーネットと,作品の完成を待たずにこの世を去ったスティーブン・ブルトンの音楽が,物語の背骨を作っていることだ。そして彼らが作り出す,力強くも艶っぽい曲を歌いこなすジェフ・ブリッジスとコリン・ファレルの歌は,オルタナ・カントリーの隠れた実力派シンガーと言っても通用するレヴェルに達している。
主人公の薫陶を受け,今や大スターとなったトミー・スウィート(コリン・ファレル)のコンサートの前座としてステージに上がった主人公のバッド・ブレイク(ジェフ・ブリッジス)がトミーと共演する瞬間が,物語の一つのハイライトとなり得たのは,そこで演奏される音楽の骨太なビートが,バッドのプライドとトミーの師を慕う笑顔を結びつける役目を,完璧なまでに果たしているからだ。
メインのクレジットや宣伝材料からコリン・ファレルの名前が落ちていなければ,☆をひとつ追加したのに,これは何故?
★★★★
(★★★★★が最高)