子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。
子供はかまってくれない
映画「生きる LIVING」:オリジナル作よりスマートになって新たな要素も
黒澤明がまだ戦後の空気が濃厚に残る1953年に,三船敏郎と並んで黒澤組の象徴的俳優と言える志村喬を主役に据えて監督した作品「生きる」。日系英国人のノーベル賞作家カズオ・イシグロが物語をほぼそのままロンドンにアダプトさせ,イギリス映画の新作として甦った「生きる LIVING」は,「フェイク1950年代作品」であることを堂々と宣言するかのような冒頭のタイトルからワクワクさせてくれる。陰影の濃いモノクローム撮影が作品のトーンを形作っていたオリジナル作品との第一の違いが,まずこちらは「カラー作品」である,ということを観客に明確に示すことで,重厚からスマートへというリメイクの意義が鮮やかに伝わる。初めて観るオリヴァー・ハーマナス監督作品だが,既にクラシックとなっている作品への敬意の表し方は,イシグロの脚本による映画的な飛翔と相俟って,洗練された品格を感じさせるものだ。
突っ込みどころは幾つかある。何よりも主役のビル・ナイが,イギリスの役所にもあるであろう公務員の標準的な定年を大幅に超える高齢者にしか見えないところだ。これからも長く続いていくはずだったサラリーマン生活が思いがけない病によって突然断ち切られる,という物語のベースとなる設定が,どうしても「この年齢なら(=仕方ないかな…)」と思えてしまうキャスティングは,物語を成立させる要素としては明らかな弱点だろう。また,役所の上司が貴族らしい,というイギリス特有の事情も活かされているとは言い難い。ナイが自然と醸し出す貫禄は,立ち止まって頭を垂れる部下よりも,悠々と通り過ぎる上司の方により相応しいからだ。
その一方で主人公が職場の同僚に「厳格(で厄介)な堅物」と評されているのに,至る所で人の良さが滲み出てしまうのが結果的に映画全体のフットワークを軽くしていることは,オリジナル作と異なる点だ。志村喬が公園造成に奔走する表情に悲愴感が溢れていたのに比べると,本作におけるナイの所作には確固たる決断を背景にしている割には常に飄々とした空気が漂っているところにリメイクの芯が感じられる。
そんな主人公のキャラクターが別の一面を見せるのは葬儀のシーン。オリジナル作と異なり,主人公の覚醒の媒体となった若い女性(エイミー・ルー・ウッド,好演)が葬儀にも参列するのだが,彼女が息子と交わす会話によって,他人が知っていた父親の病気を息子である自分が知らされなかった事実に直面する冷徹なシーンは,一時的に熱を帯びた職場が元に戻っていくお決まりのプロットを越えて心に迫ってくる。リメイクかくあるべしの見事な好例だ。
★★★★
(★★★★★が最高)
突っ込みどころは幾つかある。何よりも主役のビル・ナイが,イギリスの役所にもあるであろう公務員の標準的な定年を大幅に超える高齢者にしか見えないところだ。これからも長く続いていくはずだったサラリーマン生活が思いがけない病によって突然断ち切られる,という物語のベースとなる設定が,どうしても「この年齢なら(=仕方ないかな…)」と思えてしまうキャスティングは,物語を成立させる要素としては明らかな弱点だろう。また,役所の上司が貴族らしい,というイギリス特有の事情も活かされているとは言い難い。ナイが自然と醸し出す貫禄は,立ち止まって頭を垂れる部下よりも,悠々と通り過ぎる上司の方により相応しいからだ。
その一方で主人公が職場の同僚に「厳格(で厄介)な堅物」と評されているのに,至る所で人の良さが滲み出てしまうのが結果的に映画全体のフットワークを軽くしていることは,オリジナル作と異なる点だ。志村喬が公園造成に奔走する表情に悲愴感が溢れていたのに比べると,本作におけるナイの所作には確固たる決断を背景にしている割には常に飄々とした空気が漂っているところにリメイクの芯が感じられる。
そんな主人公のキャラクターが別の一面を見せるのは葬儀のシーン。オリジナル作と異なり,主人公の覚醒の媒体となった若い女性(エイミー・ルー・ウッド,好演)が葬儀にも参列するのだが,彼女が息子と交わす会話によって,他人が知っていた父親の病気を息子である自分が知らされなかった事実に直面する冷徹なシーンは,一時的に熱を帯びた職場が元に戻っていくお決まりのプロットを越えて心に迫ってくる。リメイクかくあるべしの見事な好例だ。
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