子供はかまってくれない

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映画「コズモポリス」:街の喧騒から離れた宇宙を彷徨う現代人

2013年05月14日 22時17分26秒 | 映画(新作レヴュー)
ドン・デリーロの原作を,台詞も忠実に映画化したデヴィッド・クローネンバーグの新作は,都会に生きる若者の孤独をスタイリッシュに描いて,カイエ・デュ・シネマのベストテンでレオス・カラックスのカムバック作「ホーリー・モーターズ」に次いで第2位という高い評価を得た。
かつて「ヴィデオドローム」や「スキャナーズ」そして「デッドゾーン」で私を魅了したデヴィッド・クローネンバーグは,いつの間にか「MOVING PICTURE」の作り手から,「映画」を媒体とする格調高い表現者へと華麗な進化を遂げたようだ。

期せずして「ホーリー・モーターズ」と同様に,リンカーン・コンチネンタルの後部座席に陣取った主人公(ロバート・パティンソン)の1日を描いた「コズモポリス」は,しかし「ホーリー・モーターズ」のような,懐かしくもエネルギッシュなめくるめく映画体験をさせてくれるような作品ではなかった。少なくとも私にとっては。

どうやら巨額の資産を持っているらしい主人公が,車の中から「元」の売り買い(2003年に出版された原作では「円」だったそう)を行い,大きな損失を被ることによってのみ,辛うじて実世界との接点を保っているという設定を,スクリーン上でどうやってヴィヴィッドに表現するかという課題は,このヴェテラン監督にとっても大きなチャレンジだったはずだ。
だが「アーティスト」へと転身してしまったクローネンバーグは,画面からほとばしるようなエネルギーや,観客を揺り動かすようなアクティブな表現といったものには,最早興味がないように見える。
リムジンの後部座席という閉塞空間の空気を入れ替えることなく,そこに人々を出入りさせ,次第に酸欠状態となっていく主人公をひたすら見つめることによって,都会人の孤独を炙り出そうとする手法は,両作家(デリーロとクローネンバーグ)が持っているものと同程度の想像力を要求する。そこに,週末のささやかな娯楽を求める平凡な中年サラリーマンの座る席はなかった。

かつてカラックス作品のミューズだったジュリエット・ビノシュが,主人公と身体を繋ぐシーンが,とても哀しい。
★★
(★★★★★が最高)


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