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映画「DUNE/デューン 砂の惑星」:ドニ・ヴィルヌーヴでなければならなかったのかは疑問だが

山椒は小粒でピリリと辛い,という印象の「作家」だったカナダ出身の俊英ドニ・ヴィルヌーヴが,何故か立て続けにSF超大作を手掛ける「大家」になってしまったのは,やはり「メッセージ」の成功が大きく影響しているのだろう。テッド・チャンの原作を大きな画角を駆使しながら,ヴィルヌーヴらしい運命に翻弄される人間の心の移ろいを巧みに物語に盛り込んだ同作は,ヴィルヌーヴのフィルモグラフィーの中でも,特別の場所に位置している。けれども,その勢いを買われて挑んだリドリー・スコットの名作のまさかの続編「ブレードランナー2049」では,スコットの呪いというでも言いたくなるような呪縛に足を取られたせいなのか,重たい映像の雪原に前のめりに倒れ込むような演出で落胆させられた。そして本作。あのデヴィッド・リンチも挑んだものの,映画史的には「砂に埋もれてしまった」印象の作品の映画化に,再度チャレンジすることになったのだが,果たして流砂に飲み込まれることなく帰還することは出来たのだろうか。

物語は砂に覆われた惑星デューンに存在する香料を巡って,宇宙の支配者とその命令でデューンに移住することとなったポール(ティモシー・シャラメ)とその母が,支配者とデューンに住む巨大生物を相手に闘う,という極めてシンプルな冒険譚。様々なSF作品に影響を与えたと言われるフランク・ハーバートの原作を読んでおらず,リンチ作品はスティングの決闘シーンしか覚えてないので,大丈夫かと思ったが,心配は的中した。やはりこの物語の何処に「宇宙を舞台にした指輪物語」とも呼ばれる深遠さが存在し,「SF史上最高に壮大な小説」などと称せられるのかは,まったく分からなかった。宇宙の支配者でポールたちを殲滅しようとする支配者が,やけに「地獄の黙示録」のマーロン・ブランドみたいだなと思っていたら名優ステーラン・スガルスガルドだったとクレジットを見て驚いたし,シャーロット・ランプリングに至ってはほぼ顔が見えない「いじわる婆さん」としてワン・シーンに出るだけ。母役のレベッカ・ファーガソンがシャラメの母というのも,若すぎて無理筋のキャスティングだろう。考えようによっては,そんな些細な瑕疵も映像の分厚さで糊塗してしまうほどに贅を尽くした作品と捉えることも可能かもしれないが,不思議なことに2時間半を超える上映時間にも拘わらず「2049」の時に感じたような「長い」「重い」と感じることはなかった。

ひとつにはシャラメが完璧に主人公にはまっていた,ということが大きい。自分が持っているかもしれない超能力の兆しを持て余しながら,夢に出てくる女性を追いかけて砂漠に歩み出て行くポールの体温は,間違いなくリンチ版のカイル・マクラクランよりもシャラメが数段的確に捉えていたと見えた。更にほぼ色彩設計を必要としないように見えたデューンの造形能力の点でも,本作はリンチ作品を凌駕していた。虫の羽ばたきを模した宇宙船の飛行形態も含めて「こういうことがやりかたったんだよ」という制作スタッフの歓びが,砂嵐を越えて伝わってくるという点をはじめ「2049」の窮屈な単調さを上回るものが確実に存在していた。
とは言え,物語が動き出したところで終わった本シリーズの真骨頂はあくまで次作だろう。ヴィルヌーヴ特有の,弱者の感情の動きを掬い取るという側面が,物語の新たなターボとして機能することを期待したい。
★★★
(★★★★★が最高)
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