水俣病の実態を世界中に発信したユージン・スミスと当時の妻だったアイリーンによる写真集が既に廃版となっており,本作「MINAMATA」の公開に合わせて復刻されることになった,ということは,映画公開の一連のキャンペーンの中で初めて知った。映画においてもクライマックスに据えられている「入浴する智子と母」の公開を止めるよう,被写体となった当人から求められていたという経緯もあったのだろうが,被害申請をした人のうち被害者として認定された人がいまだ1割未満に留まるという現実を改めて世に問うという意味でも,一連の出来事がこうして映画化されたことの意義は大きい。
水俣で起きている水銀中毒の実態を撮影して,世界に伝えて欲しい。後に妻となる女性から求められたカメラマンのユージン・スミスは,1971年段階で既に「写真広告誌」と化しつつあった「LIFE」から派遣される形で水俣に入る。スミスはそこで見た惨状に動揺しながらも精力的に撮影を始めるが,その原因とされたメチル水銀化合物質を海中に廃棄していた工場によると思われる妨害工作によって,ラボを焼かれてしまう。それでも使命感に突き動かされたスミスは,株主総会の会場に出向き,シャッターを切り続けるが,またもや妨害を受け,今度は大怪我を負ってしまう。そんなスミスの姿を見て,最初は撮影を拒否していたある家族が,写真に撮られることを承諾し,スミスはアイリーンの助力を得て撮影に臨む。
既に1970年代とは大きく様相を変えてしまった水俣をスクリーンに再現するために,監督のアンドリュー・レヴィタスが選んだロケ地はセルビアとモンテネグロだった。特に海辺のほとんどのシーンを撮影したというモンテネグロの穏やかな風景は,公害の悲惨さと対照を為しつつも,声高に社会悪を糾弾する映画とはアプローチを異にする,凛とした品格を作品にもたらして見事だ。
作品の骨格は,企業の社長に國村隼を起用した手堅さに代表されるように,想像の範囲を超える部分はなく,映画的なサプライズは皆無なのにも拘わらず,そんな風景に溶け込んで暮らす漁村の人々の悲しみが,ジョニー・デップの抑制された演技を通じて静かに浸透してくる。既に終わったと思われたキャリアが,水俣と出会うことで復活したところは,そのままスミスの人生と重なる。
上述した「入浴する智子と母」の撮影シーンにおいて,アイリーンがポーズをつけたことを再現するリアリティを,海外進出の経験が豊富な日本の俳優陣が支えていることも嬉しい。本当は,日本人の手によって作られるべき作品だったかもしれないけれども。
★★★★
(★★★★★が最高)
水俣で起きている水銀中毒の実態を撮影して,世界に伝えて欲しい。後に妻となる女性から求められたカメラマンのユージン・スミスは,1971年段階で既に「写真広告誌」と化しつつあった「LIFE」から派遣される形で水俣に入る。スミスはそこで見た惨状に動揺しながらも精力的に撮影を始めるが,その原因とされたメチル水銀化合物質を海中に廃棄していた工場によると思われる妨害工作によって,ラボを焼かれてしまう。それでも使命感に突き動かされたスミスは,株主総会の会場に出向き,シャッターを切り続けるが,またもや妨害を受け,今度は大怪我を負ってしまう。そんなスミスの姿を見て,最初は撮影を拒否していたある家族が,写真に撮られることを承諾し,スミスはアイリーンの助力を得て撮影に臨む。
既に1970年代とは大きく様相を変えてしまった水俣をスクリーンに再現するために,監督のアンドリュー・レヴィタスが選んだロケ地はセルビアとモンテネグロだった。特に海辺のほとんどのシーンを撮影したというモンテネグロの穏やかな風景は,公害の悲惨さと対照を為しつつも,声高に社会悪を糾弾する映画とはアプローチを異にする,凛とした品格を作品にもたらして見事だ。
作品の骨格は,企業の社長に國村隼を起用した手堅さに代表されるように,想像の範囲を超える部分はなく,映画的なサプライズは皆無なのにも拘わらず,そんな風景に溶け込んで暮らす漁村の人々の悲しみが,ジョニー・デップの抑制された演技を通じて静かに浸透してくる。既に終わったと思われたキャリアが,水俣と出会うことで復活したところは,そのままスミスの人生と重なる。
上述した「入浴する智子と母」の撮影シーンにおいて,アイリーンがポーズをつけたことを再現するリアリティを,海外進出の経験が豊富な日本の俳優陣が支えていることも嬉しい。本当は,日本人の手によって作られるべき作品だったかもしれないけれども。
★★★★
(★★★★★が最高)