子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「歩いても 歩いても」:時にすれ違い,時にぶつかり,みんなそれぞれ生きてゆく

2008年08月24日 08時59分10秒 | 映画(新作レヴュー)
結婚して家を出た子供達が,自分の伴侶と子供を伴って実家に帰る。食事をして,墓参りをして,子供たち同士が少し遊んで,また来るねと約束をして,帰って行く。残された両親は,子供たちがいる間のお互いの振る舞いにひとしきり意見をした後,また静かな日常に戻っていく。
親と子,妻と夫,祖父母と孫,それぞれがすれ違い,ぶつかり,ため息を飲み込み,やがて腰を上げて,「誰とも比べられない」人生の時間という距離を泳ぎ切るべく,懸命に息継ぎをしながら水の中を進んでいく。日本中の,いや,世界中の家庭で,これまで何千億回も繰り返されてきたであろう休日の光景を,是枝裕和は人間の所作の細部を見つめることで,普遍的な,無常観を伴うドラマに引き上げることに成功した。

「ドラマ」と言ったが,劇中でドラマティックな出来事は何も起こらない。強いて言えば,黄色い蝶が家の中に迷い込み,ラスト近くでお向かいに住む加藤治子が胸痛を訴えて救急車で運ばれることくらいだ。
しかし淡々と流れる時間の中で,登場人物全員が吐き出せない思いを抱え,それを理解して欲しいという希望を所々で溢れさせつつ,本音と意地,エゴと愛情が様々なベクトルを取って交差する様は,痛いほどに沁みてくる。

時にユーモアを交えつつ,ゆっくりと進んでいく作劇の肝は,多分医者を引退したばかりの父親夫婦,原田芳雄と樹木希林の造型にあるのではないかという気がする。
海辺の町,風景の使い方,居間における会話,親と子の確執と愛情,作品中にちりばめられた様々な要素が小津作品を連想させるが,決定的に違うのは,この二人が人生の辛酸をなめ尽くしてきたにも拘わらず,決して「笠智衆」化していないことだ。
つまり,照れや愛情や気遣いといった小津作品の中核を為す感情だけでなく(勿論それも豊かに盛られてはいるのだが),厭みや恨みに,見栄や偏見といった負の要素を二人に背負わせることによって,現代における親子関係の修復という困難な課題に,正面から取り組む手掛かりがしっかりと確保されたように見えるのだ。

全編を包む緩いユーモアが,作品に心地よい温もりを与えているが,それに最も寄与しているのは,台所や居間における樹木希林とYOUの掛け合いだ。特にYOUのコメディセンスは凄い。「素」と作り込んだ台詞回しの間を自在に行き来する呼吸は,天才的だ。
傑作ドラマ「結婚できない男」の再現となった夏川結衣と阿部寛は,ドラマとはまた違った雰囲気のカップルを,巧みに演じてしっかり屋台骨を支えている。
原田芳雄は,「ヒポクラテスたち」において演じた医者役の30年後を想像させるが,急変した加藤治子を助けることが出来ないながら,救急車の隊員に「脈はいくつだ?」と大声で尋ね,完全に無視されて引き下がる場面で観客の胸を衝く。人はこうして社会の表舞台から去っていくのだと。

すれ違う息子と父親。私にとってはどちらの役も身につまされることばかりで,途中からはメモでも取りながら観ていたい気分だった。阿部寛の台詞にあるとおり「ちょっとだけ間に合わない」まま人生は終わってしまうことを突きつけながら,明るくなった場内に満ちていたのは,「それもまた,ちょっと良いわね」というたくさんの笑顔だった。素晴らしきエンタテインメント。


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