子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「ラスト,コーション」:絡み合う視線と肢体

2008年04月01日 23時19分59秒 | 映画(新作レヴュー)
私の前列に座った中年の男女ペアの男性の方が,途中で何度も携帯電話を開けていた。どうやら,時間を確かめているようだった。しまいには,いつまで経ってもお目当てのシーンが始まらないせいなのか,頭が前後にグラグラし出してしまった。ありゃりゃ。
そして,トニー・レオンが座ったベッドのシーツの皺が暗転するラストシーンに,クレジットが被さるや否や,その男性は「あれー」と小声で呟いて,余韻に浸って画面を観ている気配の女性に,早く立つよう催促しながらもう一度「あれー」を発した。うーん,ご愁傷様。

ヴェネツィアで金熊賞を獲得する一方で,過激な性描写が話題となったアン・リーの最新作は,その話題性のおかげもあってか,「様々」な観客を巻き込んでロングランを続けている。動機は何にしても,これだけ格調が高く,ドラマとしての面白さと芸術性を高い次元で統合させることで,160分近い長尺を一瞬も弛むことなく見せきった傑作が,多くの人の目に触れることは喜ばしい。勿論,件の男性も含めて。

確かに話題のシーンにはインパクトがある。中国ではほぼ全面的にカットされて公開された,というニュースも肯けるくらいに。
だが映画を観れば分かるとおり,トニー・レオンとタン・ウェイの過激な性行為は,猜疑と不審と背信に満ちた空気を日々呼吸することでしか生きられない主人公(トニー・レオン)の,人間同士の本質の触れ合いに対する渇望の具現として描かれる。だから,アクロバチックで過激,という印象は受けても,決して扇情的ではない。

むしろ,観るものを煽るという意味では,映画の前半部,香港における二人の視線のやり取りの方が,よほど「官能面」での貢献度は高い。
練達のフィルム・メイカーであるアン・リーは,まるで網膜同士が直に触れ合うかのように見えて,やがて二人を破局に誘う視線の交差劇を,冒頭の麻雀シーンにおける緊張感に満ちたカット割りから,実に滑らか,かつエレガントに導いていく。
感情を直截に描くことよりも,別のものに置換することで,その芯となるようなものを克明に描き出す術の巧さは,「恋人たちの食卓」の料理や,「アイス・ストーム」における車の鍵を持ち出すまでもないだろう。

更に伝統を重んじるリーは,舞台となる香港と上海,そして主人公の人生そのものがどれだけ虚ろな存在であるかという,言葉にしてみると如何にも陳腐な前提を,オーソン・ウェルズの「上海から来た女」を想起させる「鏡と硝子」という伝統的な小道具を操ることによって,見事に映像化してみせた。
小さいときから慣れ親しんできた武侠映画に「グリーン・デスティニー」で返礼し,この作品で,これまで培ってきた映画的呼吸とロドリゴ・プエルテのシャープな映像によって,気品漂う40年代のメロドラマを換骨奪胎してみせたリーこそ,現在最高の(本来の意味での)グローバルなシネアストだ。


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