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映画「ブルーノ」:テーマは人類の貧歩と調和なのだ

これは凄い。「品格」とか「中庸」とか「バランス」といった言葉や概念を蹴飛ばし,ただひたすら「有名になること」を目指して無表情で突っ走るサシャ・バロン・コーエンの姿は,21世紀の孤高のヒーロー(見方によっては「ヒロイン」かもしれないけれど…)として美しく光り輝いている。たった80分という上映時間ながら,詰め込まれた批評精神の総量に対抗するためには,観客にも全エネルギーを出し切る覚悟が必要だ。その点を考慮すると,万人に受ける映画ではないことは間違いないが,この時代に作られた意義は喩えようもなく大きい。

前作「ボラット」は,カザフスタンからやって来たTVレポーター(コーエン)が,アメリカ人の保守的な気質や文化や慣習を身体を張って笑い飛ばす快作だったが,新作「ブルーノ」も同様のスタイルを取っている。今度はオーストリアのゲイのファッション・レポーターが,母国の芸能界から締め出されたことをきっかけに,アメリカ更には中東,アフリカ,フランス等を股にかけ,ただひたすら有名人になるためにあらゆる手段に打って出る。
その道中で,人々(主に保守的なアメリカ人)が「性」や「政治」や「平和」や「宗教」などに対して抱いている様々な偏見,更には「原理主義」や「人道主義」に付きものの一種の「うさんくささ」が,くっきりと炙り出されていく。

正直,ストーリーやお笑いのパターンが「ボラット」とかなり似通った箇所があり,映画の構造的な部分だけを見ればマンネリに陥っていると感じた箇所もいくつかあった。占い師のところでブルーノが披露するパフォーマンスや,スワッピングの現場で鞭を持った女に叩き出されるシークエンスなどからは,ひたすら過剰になることで,そういった陥穽から抜け出そうとしている節も感じられた。

それでも,そういった点を凌駕するだけの確信犯的な勇気と知性と自由な精神が,至る所に溢れている。中東に出向いて行き,ちょっと聴くと訳の分からない,しかし宗教的な対立を嘲笑う歌を歌い出す場面や,アフリカでiPodと引換に貰い受けた養子をネタに,ワイドショーに出て大騒ぎを起こすシーンが持つ批評眼は,他に類を見ないほどの鋭さを備えている。特に養子に関する件には,存命中のセレブへの批評に加えて,いつの間にか負(=闇)の部分への批判が封じられてしまったように見える,既に故人となった大物アーティストに対する容赦のない刃も感じられて強烈だ。

ただし,予想通り客の入りは芳しくなかった。土曜日の18時45分の回の観客は,私を入れてちょうど10人。途中で出ていった人もいたので,面白かったと評価する人は更に少ないと思うが,下の評価は敢えてそういった状況とバランスを取った結果でも,感涙のラストシーンで人間椅子に座って伴奏するエルトン・ジョンの姿に感銘を受けたから,というだけでもないので,念のため。
★★★★☆
(★★★★★が最高)
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