子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。
子供はかまってくれない
映画「ハーツ・アンド・マインズ」:ドキュメンタリー映画における揺るぎない里程標
36年前の作品だが,当時は何故か劇場公開されず,ひっそりと深夜TVでのみ放映された「幻の」アカデミー賞受賞作品だ。当時から一体どんな作品なのか,あれこれと想像を巡らせてはきたのだが,その「実物」は,ドキュメンタリー映画が具えるべき条件を,的確な選択眼と編集技術によってエンターテインメントとして昇華した見事な作品だった。あのマイケル・ムーアが「私が映画を作ろうとカメラを手にしたのは,この映画を観たからだ」と絶賛しているのも肯ける素晴らしさだ。
私が思うドキュメンタリー映画が備えるべき条件とは,多角的な視点や客観的な取材,はたまた制作者のテーマに対する熱い想い等々とは少し趣を異にする。確かに可能な限り客観的なアプローチを取るという姿勢は,ドキュメンタリーをジャーナリズムの産物として位置付けた場合には,必要な要素に数え上げられるものだ。だがいかなる場合でも,およそ「表現者」が制作するひとつの「作品」において,「完璧な客観性」とか「絶対的な真実」といったものを追求する行為にどれだけの意味があるのかは,前述のマイケル・ムーアや原一男らの作品群を観ればすぐに分かる。
ドキュメンタリー作家は,そんな「想像上の存在」でしかないものを追いかける暇があったら,ひたすらカメラを回して,対象の全貌がフレームに収まるような距離を掴む,ということに徹するべきなのだ。
つまり(私にとっての)優れたドキュメンタリーとは,切り取った映像(音声も含めて)に触れた観客が,それを一つの素材あるいは契機として,取り上げられているテーマについて,何かを感じたり,つい考えたりしてしまうような「最適の距離感」を獲得した作品を意味する。
この作品には,そんな「これから何度も思い出しては反芻する」であろうシークエンスに満ちている。その象徴とも言える場面は,ラスト近くで繋ぎ合わされた二つの映像だ。
ひとつは殺されたベトナム人兵士の棺が埋葬される時に,その墓穴に自らも一緒に落ちていこうとする老母の姿を捉えた映像であり,もうひとつは同様に戦闘で命を落としたアメリカ人兵士の両親が,子を亡くした思いをカメラに向かって語るシーンだ。
アメリカ人兵士の父親は,亡くなった子供のことをひとしきり悲しんだ後で,すぐにカメラに向かい,子供を死地に追いやったニクソンのことを「立派な尊敬すべき指導者だ」と屈託なく讃える。その背後で黙って俯く母親と父親をひとつのフレームに収めたショットの後に,泣きながら穴に飛び込もうとするベトナム人の母親の姿が続く。
一見,戦争は若者の命を奪い,老親の心を踏みつぶすという現実の分かり易い絵解きに見えるが,観客はそこから,子供の命を捧げて止むなしと考える父親を作り出した国家の教育と二人の母親の心情を推量することへ推移し,更にそこから国家と個人と戦争を結わえる関係へと,考えを巡らせるのだ。
同じアカデミー賞受賞作ながら,テーマ自体は時宜にかなっていたにも拘わらず,性急で浅薄なアプローチで,三流のプロパガンダ映画になってしまっていた「不都合な真実」とは雲泥の差があることが明らかだ。
映画は,戦争貢献者を讃えるパレードに,ベトナム戦争介入反対を叫ぶ反戦派が乱入して騒然となった様子を捉えた映像に,エンドタイトルが被さって終わる。「一体,どうなってるんだ?」というパレード参加者の呟きこそは,正にマーヴィン・ゲイの「What's Going On」そのものだった。
40年近い年月を経て,風化しない映像の強度に敬服。
★★★★☆
(★★★★★が最高)
私が思うドキュメンタリー映画が備えるべき条件とは,多角的な視点や客観的な取材,はたまた制作者のテーマに対する熱い想い等々とは少し趣を異にする。確かに可能な限り客観的なアプローチを取るという姿勢は,ドキュメンタリーをジャーナリズムの産物として位置付けた場合には,必要な要素に数え上げられるものだ。だがいかなる場合でも,およそ「表現者」が制作するひとつの「作品」において,「完璧な客観性」とか「絶対的な真実」といったものを追求する行為にどれだけの意味があるのかは,前述のマイケル・ムーアや原一男らの作品群を観ればすぐに分かる。
ドキュメンタリー作家は,そんな「想像上の存在」でしかないものを追いかける暇があったら,ひたすらカメラを回して,対象の全貌がフレームに収まるような距離を掴む,ということに徹するべきなのだ。
つまり(私にとっての)優れたドキュメンタリーとは,切り取った映像(音声も含めて)に触れた観客が,それを一つの素材あるいは契機として,取り上げられているテーマについて,何かを感じたり,つい考えたりしてしまうような「最適の距離感」を獲得した作品を意味する。
この作品には,そんな「これから何度も思い出しては反芻する」であろうシークエンスに満ちている。その象徴とも言える場面は,ラスト近くで繋ぎ合わされた二つの映像だ。
ひとつは殺されたベトナム人兵士の棺が埋葬される時に,その墓穴に自らも一緒に落ちていこうとする老母の姿を捉えた映像であり,もうひとつは同様に戦闘で命を落としたアメリカ人兵士の両親が,子を亡くした思いをカメラに向かって語るシーンだ。
アメリカ人兵士の父親は,亡くなった子供のことをひとしきり悲しんだ後で,すぐにカメラに向かい,子供を死地に追いやったニクソンのことを「立派な尊敬すべき指導者だ」と屈託なく讃える。その背後で黙って俯く母親と父親をひとつのフレームに収めたショットの後に,泣きながら穴に飛び込もうとするベトナム人の母親の姿が続く。
一見,戦争は若者の命を奪い,老親の心を踏みつぶすという現実の分かり易い絵解きに見えるが,観客はそこから,子供の命を捧げて止むなしと考える父親を作り出した国家の教育と二人の母親の心情を推量することへ推移し,更にそこから国家と個人と戦争を結わえる関係へと,考えを巡らせるのだ。
同じアカデミー賞受賞作ながら,テーマ自体は時宜にかなっていたにも拘わらず,性急で浅薄なアプローチで,三流のプロパガンダ映画になってしまっていた「不都合な真実」とは雲泥の差があることが明らかだ。
映画は,戦争貢献者を讃えるパレードに,ベトナム戦争介入反対を叫ぶ反戦派が乱入して騒然となった様子を捉えた映像に,エンドタイトルが被さって終わる。「一体,どうなってるんだ?」というパレード参加者の呟きこそは,正にマーヴィン・ゲイの「What's Going On」そのものだった。
40年近い年月を経て,風化しない映像の強度に敬服。
★★★★☆
(★★★★★が最高)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 2010年TVドラ... | 映画「インセ... » |
コメント |
コメントはありません。 |
コメントを投稿する |
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません |