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映画「Fake」:すれ違う思惑の谷間に沈む真実

佐村河内守氏と新垣隆氏が起こした「ゴーストライター事件」については,この作品中でも「立派な賞(大宅壮一ノンフィクション賞)を貰った」と言及されている,神山典士氏によるルポルタージュ「ペテン師と天才」がある(以下,敬称略)。その中に,ヴァイオリンを弾く隻腕の少女が,佐村河内の指示によって見世物にさせられそうになるという,この事件の核心を象徴するような重要なエピソードがあるのだが,本作の中で監督の森達也はその件には一切触れない。

一方で佐村河内が撮影中執拗に拘るのは,新垣との共同作業における自分の役割の重要性ではなく,自分が感音性難聴であるという診断結果をマスコミがちゃんと取り上げなかった,つまり本当に自分は耳が聞こえないのに,マスコミの策謀によって世間はその事実を理解してくれない,という点だ。
しかし,ラスト近くに出てくるアメリカの取材陣は,佐村河内が拘る難聴の度合いにはまったく関心を払わず,佐村河内が書いた「音楽のイメージの元となるような詳細な言葉によるシナリオ」なるものを読もうともしない代わりに,作曲への関与の度合いに関して,何度も同じ質問を続ける。「あなたが幾らかでも作曲に関与した証拠はあるのか?」。度重なる鋭い質問と要求に堪えかねた佐村河内は,「休憩が必要だ」と事実上のギブアップをして,煙草を吸うためベランダに逃避する。

更にフライヤーに「誰にも言わないでください。衝撃のラスト12分間」とあるシーンでは,新たにシンセサイザーを購入した佐村河内が作曲したメロディーが,シーケンサー(自動演奏プログラム)によって奏でられるカットが延々と続く。俗に「白玉流し」と言われる全音符でサポートされた,凡庸としか表現しようがないメロディが流れるシーンの,一体どこが「衝撃」なのか?監督は,佐村河内は実は素晴らしい作曲家だったのだ,という「真実」を提示しようとしたのか。ありとあらゆる思惑と事件を巡る事柄が,画面上で噛み合わないまますれ違い,沈黙の中に沈んでいく。

しかし佐村河内を「守さん」と呼ぶことで,監督の立ち位置を明確にした本作を,真実を追究するジャーナリスティックなドキュメンタリーとしての枠を外して見た時には,見所が一杯だ。
マスメディアへの露出が増えた新垣を観る夫妻の反応や,佐村河内の父親の言葉を佐村河内が手話なしで即座に理解してしまうシーンも興味深かったが,特にバラエティ番組への出演依頼に来たクルーとのやり取りは,それ自体がバラエティ番組を超える面白さを生み出していた。

ただ,新垣も神山も,監督の出演要求に応えようとせず,インタビューに応じなかったのはつくづく残念だった。原一男が「True」というタイトルで,新垣サイドから撮ったら,一連のストーリーの決着としては完璧なのだが。
★★★
(★★★★★が最高)
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