子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。
子供はかまってくれない
映画「シャイン・ア・ライト」:もう一つの「ラスト・ワルツ」を狙うべきだったか
編集者として「ウッドストック」に関わり,ザ・バンドの解散コンサートを記録した傑作「ラスト・ワルツ」を監督したマーティン・スコセッシが,ローリング・ストーンズとがっぷり四つに組んで撮り上げたドキュメンタリー。
しかし,劇中で出てくる台詞のように,スポットライトで熱せられたミック・ジャガーの尻から炎が吹き上がることはなく,淡々と2時間は過ぎていく。この責めは,撮影当時63歳という年齢を忘れさせるような熱演を見せたミック・ジャガーではなく,エゴを通しきれなかったように見えるスコセッシが負わなければならないだろう。
冒頭で,ステージの美術に文句を付け,ステージのセット・リスト(演奏曲目リスト)を直前までスコセッシに渡そうとしないストーンズ(主にミック)と,撮影においては観客も美術の一部でしかないと考えているように見えるスコセッシの間での,火花散る(かのように演出されたように見える)やり取りが描かれる。
本当かどうかは判然としないが,1曲目を演奏し始める直前にリストがスコセッシの手に渡り,紙を手にしたスコセッシが「最初はジャンピング・ジャック・フラッシュだ!」と叫ぶ姿が,見事にステージのオープニングを告げるショットになっている。
そこから始まる演奏が持つ熱量は確かに凄く,会場に合わせて工夫されたセットリストも見事だ。ステージで歌って踊って観客をのせ続けるミックのエネルギーは「びっくり人間大集合」クラスのものだし,チャーリー・ワッツのドラミングは,陶器を作り続けて50年という文化勲章受章者の枯れ具合に通じるものがある。「ロニー(ロン・ウッド)とあなた,ギターはどちらが上手いですか?」と訊かれて,「どっちも下手だが,一緒にやれば最高だ」と答えるキース・リチャーズの「間」は,最早「禅」の領域に入っているように見える(聞こえる)。
しかし彼らのステージの記録としては既に,1981年の全米ツアーを故ハル・アシュビー(「チャンス」,「帰郷」等の監督)が20台のキャメラを駆使して捉えた入魂のドキュメンタリー「LET'S SPEND THE NIGHT TOGETHER」がある。
まだ30代ながら,スタジアムという箱の特性を知悉し,伸びやかな演奏と大仕掛けな演出でスタジアム・ツアーの原型を作り上げた彼らの姿を余すところなく捉えた映像は,四半世紀経った今も脳裡に鮮明に蘇る。
当然先行する作品としてその存在を意識したに違いないスコセッシは「ラスト・ワルツ」で成功を収めた,インタビューやスタジオ・ライブ,スナップ・ショットを演奏の合間に挿入する方式を半ば踏襲して,過去の記録フィルムを演奏に挟み込むことによって先行作との違いを鮮明にしようという作戦に出た。デビュー当時の彼ら自身が語っていた将来像と,ステージで躍動する現在の姿を対比させて,タイムカプセルを開けた瞬間の興奮を再現しようとした訳だ。
しかしそんな狙いは,残念ながら微妙に的を外してしまい,ステージの連続性だけでなく映像のリズムをも乱す結果となってしまっているように見える。
過去のフィルムだけでなく,冒頭で描かれた,彼らが普段使い慣れていない小さい箱(ステージ)に戸惑う様子と,それを特別な選曲や客席のダイレクトな反応によって克服していく過程を,インタビューやバックステージの様子も含めた「ラスト・ワルツ」的なパッケージ化を更に押し進めることによって描く,という割り切りに徹した方が,却って「ビーコンシアターで演奏するローリング・ストーンズ」の臨場感を,生で捉えられたはずだ。
推測だが,そうした大胆な構成を良しとしなかったのは,ミック(ストーンズ側)ではなく,「ローリング・ストーンズ」というイコンの輝きによって我知らず自己規制してしまったスコセッシの方だったのでは,という気がしてならない。全く必然性がないのに,ラストで再度顔を見せるという演出は,大監督の照れ隠し以外の何物でもない。
結果的に作品のハイライトになっているのは,ジャック・ホワイト,バディ・ガイ,そしてクリスティーナ・アギレラという個性的な3人との共演シーンであったことが,この作品が21世紀の「ラスト・ワルツ」になり損ねたという事実を如実に物語っている。実に残念だ。
しかし,劇中で出てくる台詞のように,スポットライトで熱せられたミック・ジャガーの尻から炎が吹き上がることはなく,淡々と2時間は過ぎていく。この責めは,撮影当時63歳という年齢を忘れさせるような熱演を見せたミック・ジャガーではなく,エゴを通しきれなかったように見えるスコセッシが負わなければならないだろう。
冒頭で,ステージの美術に文句を付け,ステージのセット・リスト(演奏曲目リスト)を直前までスコセッシに渡そうとしないストーンズ(主にミック)と,撮影においては観客も美術の一部でしかないと考えているように見えるスコセッシの間での,火花散る(かのように演出されたように見える)やり取りが描かれる。
本当かどうかは判然としないが,1曲目を演奏し始める直前にリストがスコセッシの手に渡り,紙を手にしたスコセッシが「最初はジャンピング・ジャック・フラッシュだ!」と叫ぶ姿が,見事にステージのオープニングを告げるショットになっている。
そこから始まる演奏が持つ熱量は確かに凄く,会場に合わせて工夫されたセットリストも見事だ。ステージで歌って踊って観客をのせ続けるミックのエネルギーは「びっくり人間大集合」クラスのものだし,チャーリー・ワッツのドラミングは,陶器を作り続けて50年という文化勲章受章者の枯れ具合に通じるものがある。「ロニー(ロン・ウッド)とあなた,ギターはどちらが上手いですか?」と訊かれて,「どっちも下手だが,一緒にやれば最高だ」と答えるキース・リチャーズの「間」は,最早「禅」の領域に入っているように見える(聞こえる)。
しかし彼らのステージの記録としては既に,1981年の全米ツアーを故ハル・アシュビー(「チャンス」,「帰郷」等の監督)が20台のキャメラを駆使して捉えた入魂のドキュメンタリー「LET'S SPEND THE NIGHT TOGETHER」がある。
まだ30代ながら,スタジアムという箱の特性を知悉し,伸びやかな演奏と大仕掛けな演出でスタジアム・ツアーの原型を作り上げた彼らの姿を余すところなく捉えた映像は,四半世紀経った今も脳裡に鮮明に蘇る。
当然先行する作品としてその存在を意識したに違いないスコセッシは「ラスト・ワルツ」で成功を収めた,インタビューやスタジオ・ライブ,スナップ・ショットを演奏の合間に挿入する方式を半ば踏襲して,過去の記録フィルムを演奏に挟み込むことによって先行作との違いを鮮明にしようという作戦に出た。デビュー当時の彼ら自身が語っていた将来像と,ステージで躍動する現在の姿を対比させて,タイムカプセルを開けた瞬間の興奮を再現しようとした訳だ。
しかしそんな狙いは,残念ながら微妙に的を外してしまい,ステージの連続性だけでなく映像のリズムをも乱す結果となってしまっているように見える。
過去のフィルムだけでなく,冒頭で描かれた,彼らが普段使い慣れていない小さい箱(ステージ)に戸惑う様子と,それを特別な選曲や客席のダイレクトな反応によって克服していく過程を,インタビューやバックステージの様子も含めた「ラスト・ワルツ」的なパッケージ化を更に押し進めることによって描く,という割り切りに徹した方が,却って「ビーコンシアターで演奏するローリング・ストーンズ」の臨場感を,生で捉えられたはずだ。
推測だが,そうした大胆な構成を良しとしなかったのは,ミック(ストーンズ側)ではなく,「ローリング・ストーンズ」というイコンの輝きによって我知らず自己規制してしまったスコセッシの方だったのでは,という気がしてならない。全く必然性がないのに,ラストで再度顔を見せるという演出は,大監督の照れ隠し以外の何物でもない。
結果的に作品のハイライトになっているのは,ジャック・ホワイト,バディ・ガイ,そしてクリスティーナ・アギレラという個性的な3人との共演シーンであったことが,この作品が21世紀の「ラスト・ワルツ」になり損ねたという事実を如実に物語っている。実に残念だ。
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