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映画「愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」:R-15と聞いて,官能的なるものを期待した私がバカでした

マルコ・ベロッキオという名前を聞いて,間違いなく聞き覚えがあるのに,どうしても作品が思い出せないと思って作品のHPを見たら,ほぼ四半世紀前に観た「肉体の悪魔」の監督だということが分かり,全てが腑に落ちた。あの時も今作と同様に,美しい女優と題名に誘われてフラフラと劇場に入ったまでは良かったのだが,期待した官能的なるものはスクリーンの何処にもなく,ひたすら人間の孤独と世界の理不尽が観念的に繰り広げられる様を眺めていたのだった。人間(私のことだが)は成長しないということが身に沁みた2時間8分だった。

後にムッソリーニとなる男を愛し,全てを捧げたにも拘わらず捨てられ,全てを失う女を描いた悲劇。ストーリーだけを追えば,フランソワ・トリュフォーの「アデルの恋の物語」に似ているようにも思えるが,主人公である女性イーダ(ジョヴァンナ・メッゾジョルノ)のキャラクターは少し異なる。
愛に全てを捧げた挙げ句に,最愛の男とすれ違ってもそれと気付かなくなってしまうアデルと異なり,精神病院に収容されながらも,イーダは最後までムッソリーニを世に出した女としての尊厳を失わない。病院の鉄格子によじ登り,自分がムッソリーニの妻であるということを訴える手紙を外界に向けて投げるシーンは,哀しみに満ちて胸を打つ。

目元がマリオン・コティヤールに少し似ているジョヴァンナ・メッゾジョルノは,身体全体から自然に発する情熱と尊厳で観客を圧倒する。特にラスト,息子に会うため病院を抜け出して妹の自宅を訪ねた時の表情は,静かな諦念を湛えて凄みさえ感じさせる。一方のムッソリーニ役のフィリッポ・ティーミは,一見威厳がありそうに見えながらも,実は扇情的で薄っぺらな人間性を,眼差しと演説によって巧みに再現してみせる。アントン・コービンの「ラスト・ターゲット(未見)」でジョージ・クルーニーと共演を果たしたらしいが,さぞかし濃いツーショットだったことだろう。

以上,格調高い演出と上手な役者によって,どこから見ても崇高で芸術的な作品に仕上がってはいる。だが,イーダが貫いた愛の勝利に感動したかと問われれば,それはまた別の話で,愛した男の非人道的な振る舞いに毅然と立ち向かう女の姿は,私にはどこまでも観念的なものにしか映らなかったというのが正直な感想だ。絶賛している蓮見重彦さん,ごめんなさい,という感じ。
★★★
(★★★★★が最高)
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