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映画「スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師」:食品偽装の極北

黒澤明と三船敏郎。ジョン・フォードとジョン・ウェイン。マーティン・スコセッシとロバート・デ・ニーロ等々。映画監督が特定の役者とコンビを組むことによって,朧げなヴィジョンに独自かつ明確な形を与えるよすがとしてきた例は,洋の東西を問わず数多い。
現在の映画界であれば,まず真っ先に名前が挙がるであろうティム・バートンとジョニー・デップのコンビによる新作も,まず配役ありきでプロダクションが進んだことは明白だ。
しかし出来上がったフィルムには,予想された通りのダークで緻密な世界が刻まれてはいたものの,二つの才能は足されることに留まり,劇中出てくる「ミートパイ」のように,かけ合わされて思いもよらない成果を生み出すまでには至らなかったようだ。

剃刀,精神病院,地下の厨房,(物語の鍵を握っているらしい)浮浪者。まさに前作の「チャーリーとチョコレート工場」の裏バージョンと呼ぶに相応しい舞台装置は,美術のダンテ・フェレッティと衣装のコリーン・アトウッドという匠の手によって,美術品のようなインパクトを持ち得ている。それをクレーンや移動を駆使し,映像として切り取った撮影監督ダリウス・ウォルスキーの技も,場面によって異なる色調を極力自然に見せた編集との共同作業も,ほぼ完璧と言える出来映えだ。

にも関わらず,亡き妻への愛とそこから生まれた憎悪をバネとする復讐劇が,映像の濃密さとの間で,予想外の乖離を生じてしまった最大の原因は,主人公が無差別大量殺人に至った動機の説得力,という部分だったのではないかという気がする。
おそらくブロードウェイの原作劇では暗示や間接的表現に留まっていたであろう殺人シーンが,本作ではほぼモノクロームに近い色彩設計の中,おびただしい血の赤が屹立してしまったことによって,真実が明らかになるラストの悲劇を,かえって浮かせてしまったという感じだ。

「チョコレート工場のダークサイド」というのが,バートン=デップという稀代のチームが狙った線だとすれば,カカオの含有量に拘りすぎて,チョコレート全体の風味の調整がやや後回しになってしまった,というのはあまりにベタな比喩か。
しかしデップ,ヘレナ・ボナム=カーター,アラン・リックマン,いずれの歌声も含めて,素材は高級だっただけに,ドラマの構造的な欠陥がもたらした誤謬が,かえすがえすも悔やまれる。
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