子供はかまってくれない

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映画「オオカミは嘘をつく」:ものすごく痛くて深い復讐譚

2015年01月11日 18時36分43秒 | 映画(新作レヴュー)
毎年,映画祭で受賞するような芸術作品からエログロ満載の三流アクションまで,ありとあるゆる映画をチェックしては,その年のベストテンを選んで発表しているクエンティン・タランティーノの批評眼を,見逃していた優秀作品の「落ち穂拾い」の指針にしている映画ファンは私だけではないはずだ。
そんな人間にとって,チラシに記された『「今年のナンバーワンだ!」クエンティン・タランティーノ大絶賛』という言葉ほど,魅力的な惹句はない。
そんな宣伝にまんまと乗せられて観た「オオカミは嘘をつく」は,人間の愚かさと一面的な正義の危うさ・脆さを,「痛み」と「笑い」を通して描いた野心作だった。

かくれんぼをしていた少女が失踪し,その後,森の中で首なし死体で発見される。警察の一部は一人の学校教師を犯人と睨んで不法な拷問により自白を迫るが,そこに被害者の父親と,さらに祖父までもが絡んで被疑者の拷問は想像を絶する段階へとエスカレートしていく。
R18+に指定された暴力描写は凄まじいが,そこはタランティーノの保証印が刻印された作品のこと。拷問の途中で鳴り響く携帯電話の間抜けた着信音や,被疑者の胸をバーナーで炙った祖父がその臭いを嗅いで呟く「妻に強制的に菜食主義させられている今の俺にはたまらん」という台詞など,思わず吹き出してしまうようなブラックな笑いも満載だ。

作品そのものの評価を問われたならば,容疑者である教師のキャラクターが最後まで曖昧だったり,最初の殺人の犯人が最後まで明らかにされないなど,観客の判断に委ねる部分の多さは,アンダーグラウンドなカルト作としてなら許される範囲かもしれないが,スリラーとしての中途半端さは否めない,と答える。
それでも,作品全体が表象する,悲鳴と流血を伴いながら非情にも回り続ける復讐のサイクルの愚かさは,イスラエルの過去と現在と未来までをも俯瞰しようという試みに映ることも,また確かだ。

痛さが最高潮に達する物語の後半で,観客が一息つくオアシスのような場所が,本来ならイスラエルにとっては敵対する存在であり,何故かカウボーイみたいな出で立ちで2度登場するサウジアラビア人に関するプロットだ。ラスト近く,拘禁されていた地下室から何とか逃げ出した刑事が,行き合わせた「カウボーイ」から携帯電話を借りて警察に電話をする姿をロングで捉えたショットはまるで,深夜に闇から浮かび上がる場所を好んで取り上げたエドワード・ホッパーの絵のようだ。人が持つ本来の温もりに満ちたそのショットと,最後に移動カメラが捉えるベッドに横たわる少女の姿の温度差は,今も私を凍り付かせている。
★★★☆
(★★★★★が最高)


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