子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」:「完璧」な芸術品だとは思うが…

2015年05月17日 13時20分14秒 | 映画(新作レヴュー)
リチャード・リンクレイターの傑作「6才の僕が,大人になるまで。」を押しのけて,アカデミー賞の主要部門を総なめにしたアレハンドロ・ゴンザレス=イニャリトゥ監督の新作は,題名に偽りありだろう。
(無知がもたらす予期せぬ奇跡)どころか,隅から隅までイニャリトゥの頭の中に描かれた構成と構図が,隙のないキャスティングとそれに応えた俳優陣の奮闘と,撮影のエマニュエル・ルベツキーを筆頭に揃えられた腕利きスタッフの高い技術とが融合したことにより,忠実に再現された作品だからだ。
ここにあるのは「奇跡」などではなく,キャストとスタッフの執念の結晶としてもたらされた「完璧さ」以外の何物でもない。

まず驚かされるのは,ヒッチコックの「ロープ」もかくやという「ワンショット(に見える)」撮影に注ぎ込まれた,エネルギーの熱量だ。カメラの動きと照明,録音との連動は勿論のこと,限定されたスペースの中でバトンを渡しながら継続して繰り広げられる役者のパフォーマンスの集中力は,終始観客の眼を鷲掴みにして離さない。特に,ほぼ出ずっぱり状態のマイケル・キートンは,役柄同様にここしばらく陽の当たる場所に出ていなかった鬱憤を晴らすような見事な演技で唸らせる。終盤近くのパンツ一丁での小走りシーンで見せた,晴れがましい一方で気恥ずかしくも役者魂を炸裂させる決意に満ちた表情は,実に見事だ。そんなティム・バートン版「バットマン」で主役を張ったキートンを筆頭に,エドワード・ノートンにエマ・ストーンと,新旧のアメコミヒーローものの出演者を揃えたキャストは,メインプロットに据えられたレイモンド・カーヴァー原作の演劇「愛について語るときに我々が語ること」の舞台に象徴される,極めて高度に精緻なアンサンブルを形成している。

加えて,全編で不穏に空気を揺らし続けるアントニオ・サンチェズ(fromパット・メセニー・グループ!)のドラム・パフォーマンスも素晴らしい。時にサンチェズ本人が画面の中にまで登場して,まるで主人公に「お前はそれで満足なのか?」と問いかけるかのように刻まれるビートは,ルベツキーの自在なカメラと同様に作品を支える太い柱となっている。

これだけ素晴らしい要素がてんこ盛りの本作なのだが,残念ながら私にとっては先に触れた「6才の僕が,大人になるまで。」の上を行く作品とはならなかった。
勿論クリエイターのコントロールが行き届いたウェルメイドな作品自体は高く評価したいし,技術の高さを難じる理由は何もないのだが,作品全体にそこはかとなく漂っていたある種の「あざとさ」を超えるような「予期せぬ奇跡」が見出せなかった,というのがその理由だ。そんな見方こそが「無知」だと断じられるかもしれないが,私がアカデミーの会員ならば,父親に「このウィルコのアルバムはビートルズの『アビーロード』に匹敵するんだよ」と聞かされて大きくなった少年の成長の方に「奇跡」の軍配を上げたい。イニャリトゥさんには申し訳ないけれど。
★★★☆
(★★★★★が最高)


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