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映画「ヒトラーの贋札」:「ヨーロッパの執念」に応えたハリウッド映画人の心意気の方に感じ入る

2008年05月04日 21時50分11秒 | 映画(新作レヴュー)
6年前,初めてドイツに渡った時に,街並みや歴史的遺構などを差し置いて,私を最も驚かせたのは,ホテルの部屋で観た二つの番組だった。
一つは深夜にやっていたスポーツ番組の中の「大相撲ダイジェスト」。星取表は勿論のこと,ちゃんとしたドイツ語の実況と解説付きで上位の取り組みを全て放送していたのだ。アナウンサーが,「若の里」をドイツ語読みで「バカノサト」と発音していたのを聞いて,深夜にひとりで笑い転げたものだった。
そしてもう一つが,気が滅入ってくるくらい重苦しい旋律をバックにして,ヒトラーの記録映像を延々と流す番組だった。それは,ドイツ国内で増え続けていると危惧されていたネオ・ナチのためのものでは,勿論なく,現代ドイツに生きる国民が,60年前に行った事を歴史的事実として語り継いでいこうとする国民全体の意志の現れであり,社会の要請だ,と通訳の方から教わった。

「ヒトラーの贋札」は,ナチス・ドイツに飲み込まれた隣国オーストリアの監督の手になる合作作品だが,様々な証言や資料を掘り起こすことによって,戦争の記憶を繋ぎ止めていこうとする「ヨーロッパの執念」のようなものを感じるという点では,上記のドキュメンタリーの延長上に位置している。
違いは,史実の片隅に埋もれていた題材を,声高に掲げてみせるというアプローチを取らずに,二律背反の命令に悩む人間の,普遍的なドラマとして成立させているという点だ。

今年のアカデミー外国語映画部門で見事に栄冠に輝いたのも,その落ち着いた語り口に,広く観られることこそが歴史を風化させない最も有効な方法だと考えた(多分)制作者の意志を,ハリウッドが認めた故だろう。
確かに大人が楽しめるドラマとして,過不足ない出来ではある。しかし,「贋札づくり」という実に映画的で,映像としても魅力的(あくまでも喩えです)な犯罪が主軸に据えられているにも関わらず,反戦映画というバイアスを外して観た時の出来はそこそこと言わざるを得ない。

その一番大きな理由は,贋札づくりのリーダーとして仲間の延命とナチスへの協力という板挟みに苦しむ主人公に対して,ナチスへの非協力を主張して対立するブルガーのキャラクターが弱いことだ。いまだ存命中であり,原作者でもある実在の「ブルガーさん」が,自らを単純で主人公に突っかかるだけの役柄として描くことを許した度量の広さには感心するが,この構造的欠陥がドラマとしての深みを欠くことに繋がったことは間違いない。ナチスのリーダーの描写が,幅を持っていたのに比べると,余計にその紋切り度合いが目立っている。

もう一つは,最も効率的な犯罪と思われながら,チャレンジされる(と表現して良いのかどうかは分からないのだが…)ことが少ないのは,何より「割に合わない」からだと言われる贋金づくりの実際が,しっかりと描写されていないことだ。
ここでロベール・ブレッソンを持ち出すのもどうかとは思うが,人間の行為を細部まで克明に描く作業は,単純に見えて実はとても難しい,という事実を,ブレッソンの「抵抗」や「スリ」が証明している。そして,その描写こそが,時として作品全体のトーンを決めてしまうということも我々は知っている。にも拘わらず,この作品において,唯一主人公の天才が発揮されるのは,ポンド札の触感を再現するために,布の繊維を偽紙幣に混ぜることを思いつく場面だけ。
精緻な印刷技術を発揮しようと努力する技術者達の奮闘を,しっかりと映像で表現することが,彼らの生き延びようとする意志の表現になる,というヴィジョンは,残念ながら監督のステファン・ルツォヴィッキーにはなかったようだ。

更に私が乗れなかったもう一つの理由は,主人公の顔が,清水エスパルスのミッド・フィルダー,伊東輝悦にそっくりだったことだ。おかげで観ている間中,私の頭には「マイアミの奇跡」と語り継がれる(第2次世界大戦の記憶と次元は異なるのだが…)ブラジル戦のゴールの場面が,何度も蘇ってきて困った。
まぁ,さすがにその点についてはオーストリア人の監督に,何の責任もないのは分かっているのだが,一事が万事,私のすれっからしの網膜に敷かれたカテナチオを感動の涙がこじ開けるシーンは来ないまま,戦争も映画も終幕を迎えるのだった。


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