子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」:伊福部テーマは嬉しいけれど

2019年06月22日 17時12分32秒 | 映画(新作レヴュー)
5月の連休に「ゴジラ」を札響の生演奏で鑑賞するイベントがあり,久しぶりにオリジナル東宝版の初代作品を堪能した。太平洋戦争の記憶がまだ生々しく残る1954年という制作年を強く意識させる描写は勿論のこと,脚本に美術,半ば主役とも言える音楽も含めて,細部まで丁寧に練られたプロダクションは,明らかに大人を対象にした「ホラー作品」を意識したものだということを改めて感じさせられた。
そのイベントから間髪入れず公開されたマイケル・ドハティによるハリウッド版の最新作「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」は果たしてどうだったか。

初代「ゴジラ」には,特殊撮影の円谷英二が本多猪四郎からの「ゴジラが発する光線で溶ける高圧鉄塔」というオーダーに対して,蝋で鉄塔を作り大量の白熱電球で溶かして見せた,という伝説がある。そんなアイデアと熱意が作品の隅々に息づいていたが,最新作ではおそらくどんなオーダーでも全て,高速・高性能のグラフィックス用CPUが解決してしまったのだろう。別にオリジナル作品が持つレガシーに拘泥する意図は微塵もないが,結果的に少なくとも「怖さ」は,スクリーンのどこにも存在しない。

予告編で「ラドン」が翼を広げるショットを観たときから,嫌な予感はしていた。とにかく怪獣がデカ過ぎるのだ。或るものの大きさを明示するために,昔は新聞の写真でよく使われていたタバコの役目を果たす建物が高層化していることに合わせたのかどうか,ヒューマンスケールを超えた大きさを割り振られた怪獣たちの姿にまず面食らってしまう。にも拘わらず,人間はバトルを繰り広げる怪獣たちの足元を平気で走り回る。そこには怪獣たちに踏みつぶされまいと逃げ惑う人間たちの恐怖はない。そう,そこにあるのは傑作「サンダ対ガイラ」にあった本気モードの「死の恐怖」が醸し出していた暗い空気感とは真逆の,一種のゲーム感覚で淡々とバトルがこなされていく感覚なのだ。

違和感はそれだけではない。冒頭のモスラの幼虫が立っているショットと成虫になった時の異様な造形,核兵器・放射能の雑な扱い,そして唯一大人のドラマに引き戻す可能性を感じさせていたサリー・ホーキンスの早期退場と,あらゆる要素が「大人向けホラー」とは反対方向に進むエンジンとして機能し,退屈度はクライマックスに向かって上昇していく。
伊福部昭の曲を使い,芹沢博士,オキシジェン・デストロイヤーまで動員してオリジナルへの敬意を表しながら,「ラドン」ではなく「ロダン」という命名でとどめを刺された。「シン・ゴジラ」を見直そうっと。

(★★★★★が最高)


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