子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「まぼろしの市街戦」:「まぼろし」ではなかったことを53年後に確認できた歓び

2019年06月16日 11時23分06秒 | 映画(新作レヴュー)
噂ばかりが耳に入ってきて,観たいと思いながら願い叶わず幾年月。本当はタイトル通りに「まぼろし」であり,実際には存在しない作品だったのではないかと思っていたところで,まさかの「4K修復版」の噂が。東京では既に公開されながらも札幌でこういう作品をかけてくれる可能性のある二つの劇場の内,一方の雄だったスガイが閉館した状況で,果たして残るもう一館がやってくれるかどうか,固唾をのんで見守っていたところ,見事にやってくれました,シアターキノさん。グッジョブ,感謝です。金曜日の夜,補助椅子も出た満員の劇場にあったのは,おそらくは私と同様の思いを抱えて劇場に駆け付け,見事その懸念を払拭した年輩の観客たちの幸福感だった。

第一次世界大戦末期,敗色濃厚なドイツ軍がフランスの小村から撤退したことを知り,精神病院に収容されていた患者が街に出てきて各々の妄想のままに大騒ぎを始める。ドイツ軍が残した爆弾の撤去を命じられた伝書鳩係の通信兵は,その中の一人の若い女性に恋をするが,やがて爆弾が不発に終わったことを知ったドイツ軍が村に戻ってくる。
粗筋はすでに知っており,頭の中で描いていた物語はほぼそのままに進行する。では作品から受けた感動は,予定調和的な確認作業から生じたものだったのかと言えば,まったく違う。
正常と異常が戦争という狂気の只中で逆転する,というシチュエーション自体は,決して目新しいものではないにも拘わらず,小さな空間で繰り広げられる世界が途轍もなく豊かな宇宙となり得たのは,幾つもの極めて映画的な要素が美しい調和を奏でていたからに他ならない。

その要素とは,ジョルジュ・ドリュリューの祝祭感に溢れたスコアであり,ジュヌヴィエーヴ・ビジョルドの生命感に溢れた輝くような美しさであり,公爵夫人の妖艶な胸元であり,兵士が踊る軽快なアイリッシュ・ダンスであり,色鮮やかなパラソルであり,夜空を彩る爆弾を使った花火であり,優雅なラクダの馬車(そんな表現があるのか?)であり,と思い出すだけで心浮き立つようなものばかり。街の爆破を阻止するシークエンスで披露されるバスター・キートンへのオマージュを含む,映画への愛に溢れた幾つもの要素に包まれる歓びは,言葉に尽くせないものがあった。

「ゲームの規則」なんかない,楽しむだけだ,と言いながら,「窓から眺める旅が最高だ」という冷たい諦念で締め括られるファンタジーは,映画史に残る遺産だと断言できる。是非,どこかで再公開を。
★★★★★
(★★★★★が最高)


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