11月21日の講演レジュメを作成しました。
当日、来れない方もいらっしゃると思いますので、掲載しておきます。
大阪府島本町歴史的文化財指定記念・H21.11.21講演要旨 将棋駒研究・熊澤良尊
1、大阪府島本町
百人一首と「水無瀬の里」 後鳥羽上皇と「水無瀬宮」
楠正成親子の別れ「桜井の駅」 将棋駒のメッカ「水無瀬神宮」
2、王将と玉将
3、千年余の伝統、日本文化の「将棋」
伝来と創造・日本人の叡知 正倉院には無いのが残念
『二中歴』の「平安大将棋」と「平安小将棋」
京都・奈良は、将棋の中心地
4、将棋駒にロマンを求めて
32年前「安土桃山時代の古い駒がある・・」
『八十二才・水無瀬駒』と『象戯圖』
忠寿宮司「こんなものもある・・」と、衝撃の出会い『将棊馬日記』
5、出土駒と伝世駒
両者には大きな違いがある
最古は、奈良・興福寺旧境内から出土した墨書の駒
多くは、自給自足の粗雑な桧・杉の類
出土駒は、捨てられた「不要物」
伝世駒は、大切に伝えられてきた「お宝」
由緒ある最古の駒は、四百十年前の水無瀬駒
6、水無瀬家と水無瀬兼成の将棋駒
江戸時代の言い伝え=「将棋駒は水無瀬家を家となす・・」
「(庶民は)濫りに弄すべからずと云えり・・」
水無瀬家と、権中納言・水無瀬兼成の血筋
能筆な公卿が書いた将棋の文字 祖父・三条西実隆の影響
勅命(正親町上皇/後陽成天皇)
7、水無瀬兼成卿の時代
室町(足利)時代・戦国時代、そして豊臣から徳川の時代へ
16世紀は、「能」「茶」「香道」など日本文化の黎明期
将棋駒は自給自足の時代から、専門家が造る時代への転換期
風土記に「摂津・将棋駒」
8、水無瀬駒の素材と特徴
白檀・桑・楠・象牙・沈香もあるが、93%は黄楊
揺るぎない端正な駒形に、見事な筆跡の「漆書き」
木地加工には下職「馬削忍斎」の存在 他に「馬屋春介」も
9、『将棊馬日記』で分かった水無瀬駒の製作数と譲渡先
兼成77才(天正18年)から89才まで、13年間で737組
天皇から公卿・武将・僧侶・社家・数寄者・大商人までがリピーター
天 皇 = 正親町上皇・後陽成天皇
豊臣家 = 関白秀次・秀頼・淀・羽柴秀勝
徳川家 = 家康・家康息
徳川家康は最多。関が原の戦いの前後に53組
大 名 = 前田利家・毛利元就・福島正則・細川幽斎・池田輝政ら
その他 = 足利義昭(15代将軍)・足利義尚・小西行長・松花堂昭乗・
久林玄昌(北政所の従兄弟)・本願寺門跡など僧侶・社家・数寄者
「某」は、一見さん。しかし、庶民は憚られた
10、現存する兼成筆の『水無瀬駒』
水無瀬神宮=「八十二才」の小将棋駒(黄楊木に漆書)
「八十六才」の中将棋駒(黄楊木に墨書)
徳川美術館=国宝・「胡蝶蒔絵調度」の小将棋駒(名古屋市、黄楊木に漆書)
木村名人家=「伝・関白秀次愛用の小将棋駒」(神奈川県、黄楊木に漆書)
「伝・後水尾天皇真筆小将棋駒」(神奈川県、桑木に漆書)
本妙寺 =中将棋駒(熊本県、黄楊木に漆書)
個人蔵 =「八十五才」の小将棋駒(福井県、象牙に漆書)
=「八十八才」の小将棋駒(東京都、黄楊木に漆書)
その他として、3組程度存在
11、『将棊馬日記』の信憑性を裏付ける「八十五才・象牙駒」
昨年、福井県で発見された「八十五才」の象牙駒が、『将棊馬日記・慶長3
(1593)年の36組目「象牙 道休」の記述と一致
「道休」は、室町15代将軍「足利義昭」(天正15年入道して「道休」)
象牙は、道休を含め「久林・内府(家康)・次郎兵衛・秀頼」5組のみ
12、水無瀬兼成の『象戯圖』に、6種類の将棋
初期配置図が描かれている最古の資料
嘉吉3(1443)年に書かれた曼殊院宮が所持する筆写本を天正19(1592)年に、
兼成が借り受けて筆写したとある(古事類苑によれば、さらに古い原本の存在
があったとされる)
天正19年と20年に、『象戯圖』を6種の将棋駒とともに関白秀次に献上
序文に、「身分の上下のへだたりなく・・」とある
水無瀬神宮に2巻、東京都立中央図書館に1巻、某所に1巻が現存
13、兼成以降の水無瀬駒
水無瀬親具(ちかとも=兼成の養子、一斎)、「六十五才・一斎」の駒
水無瀬兼俊(かねとし=兼成の嫡孫)、水無瀬神宮ほか未確認ながら2組存在
(兼俊は、祖父の筆跡を真似た駒を造っていた形跡)
江戸時代以降、兼成の筆跡を手本とした「水無瀬流」の駒が造られてきた
(一方、明治大正期以降は、銘を「水無瀬書」あるいは「大納言水無瀬兼俊卿
筆跡」とした駒を見かけるようになるが、大納言は誤りであり文字そのものも
出所不明のものであり、比較的新しい時代での創作が疑われる)
以上
当日、来れない方もいらっしゃると思いますので、掲載しておきます。
大阪府島本町歴史的文化財指定記念・H21.11.21講演要旨 将棋駒研究・熊澤良尊
1、大阪府島本町
百人一首と「水無瀬の里」 後鳥羽上皇と「水無瀬宮」
楠正成親子の別れ「桜井の駅」 将棋駒のメッカ「水無瀬神宮」
2、王将と玉将
3、千年余の伝統、日本文化の「将棋」
伝来と創造・日本人の叡知 正倉院には無いのが残念
『二中歴』の「平安大将棋」と「平安小将棋」
京都・奈良は、将棋の中心地
4、将棋駒にロマンを求めて
32年前「安土桃山時代の古い駒がある・・」
『八十二才・水無瀬駒』と『象戯圖』
忠寿宮司「こんなものもある・・」と、衝撃の出会い『将棊馬日記』
5、出土駒と伝世駒
両者には大きな違いがある
最古は、奈良・興福寺旧境内から出土した墨書の駒
多くは、自給自足の粗雑な桧・杉の類
出土駒は、捨てられた「不要物」
伝世駒は、大切に伝えられてきた「お宝」
由緒ある最古の駒は、四百十年前の水無瀬駒
6、水無瀬家と水無瀬兼成の将棋駒
江戸時代の言い伝え=「将棋駒は水無瀬家を家となす・・」
「(庶民は)濫りに弄すべからずと云えり・・」
水無瀬家と、権中納言・水無瀬兼成の血筋
能筆な公卿が書いた将棋の文字 祖父・三条西実隆の影響
勅命(正親町上皇/後陽成天皇)
7、水無瀬兼成卿の時代
室町(足利)時代・戦国時代、そして豊臣から徳川の時代へ
16世紀は、「能」「茶」「香道」など日本文化の黎明期
将棋駒は自給自足の時代から、専門家が造る時代への転換期
風土記に「摂津・将棋駒」
8、水無瀬駒の素材と特徴
白檀・桑・楠・象牙・沈香もあるが、93%は黄楊
揺るぎない端正な駒形に、見事な筆跡の「漆書き」
木地加工には下職「馬削忍斎」の存在 他に「馬屋春介」も
9、『将棊馬日記』で分かった水無瀬駒の製作数と譲渡先
兼成77才(天正18年)から89才まで、13年間で737組
天皇から公卿・武将・僧侶・社家・数寄者・大商人までがリピーター
天 皇 = 正親町上皇・後陽成天皇
豊臣家 = 関白秀次・秀頼・淀・羽柴秀勝
徳川家 = 家康・家康息
徳川家康は最多。関が原の戦いの前後に53組
大 名 = 前田利家・毛利元就・福島正則・細川幽斎・池田輝政ら
その他 = 足利義昭(15代将軍)・足利義尚・小西行長・松花堂昭乗・
久林玄昌(北政所の従兄弟)・本願寺門跡など僧侶・社家・数寄者
「某」は、一見さん。しかし、庶民は憚られた
10、現存する兼成筆の『水無瀬駒』
水無瀬神宮=「八十二才」の小将棋駒(黄楊木に漆書)
「八十六才」の中将棋駒(黄楊木に墨書)
徳川美術館=国宝・「胡蝶蒔絵調度」の小将棋駒(名古屋市、黄楊木に漆書)
木村名人家=「伝・関白秀次愛用の小将棋駒」(神奈川県、黄楊木に漆書)
「伝・後水尾天皇真筆小将棋駒」(神奈川県、桑木に漆書)
本妙寺 =中将棋駒(熊本県、黄楊木に漆書)
個人蔵 =「八十五才」の小将棋駒(福井県、象牙に漆書)
=「八十八才」の小将棋駒(東京都、黄楊木に漆書)
その他として、3組程度存在
11、『将棊馬日記』の信憑性を裏付ける「八十五才・象牙駒」
昨年、福井県で発見された「八十五才」の象牙駒が、『将棊馬日記・慶長3
(1593)年の36組目「象牙 道休」の記述と一致
「道休」は、室町15代将軍「足利義昭」(天正15年入道して「道休」)
象牙は、道休を含め「久林・内府(家康)・次郎兵衛・秀頼」5組のみ
12、水無瀬兼成の『象戯圖』に、6種類の将棋
初期配置図が描かれている最古の資料
嘉吉3(1443)年に書かれた曼殊院宮が所持する筆写本を天正19(1592)年に、
兼成が借り受けて筆写したとある(古事類苑によれば、さらに古い原本の存在
があったとされる)
天正19年と20年に、『象戯圖』を6種の将棋駒とともに関白秀次に献上
序文に、「身分の上下のへだたりなく・・」とある
水無瀬神宮に2巻、東京都立中央図書館に1巻、某所に1巻が現存
13、兼成以降の水無瀬駒
水無瀬親具(ちかとも=兼成の養子、一斎)、「六十五才・一斎」の駒
水無瀬兼俊(かねとし=兼成の嫡孫)、水無瀬神宮ほか未確認ながら2組存在
(兼俊は、祖父の筆跡を真似た駒を造っていた形跡)
江戸時代以降、兼成の筆跡を手本とした「水無瀬流」の駒が造られてきた
(一方、明治大正期以降は、銘を「水無瀬書」あるいは「大納言水無瀬兼俊卿
筆跡」とした駒を見かけるようになるが、大納言は誤りであり文字そのものも
出所不明のものであり、比較的新しい時代での創作が疑われる)
以上
駒の写真集
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