3月13日(土)、曇り。
天気予報では、今日は暖かになりそう。
昨日も期待をして外で仕事をしていたのですが、足首で感じる空気は冷ややか。夕方早々に仕事を切り上げました。
最近、ブログの「コメント」が、皆様からの伝達手段として大変便利なツールだということが分かりました。そのことについて触れておきます。
「コメント」は原則公開で、一旦、小生が内容を確認してから表記する仕組みを採用しています。
従って、入力しても直ぐには公開表記されません。そのため、反映できていないと2度3度入力戴くケースがありますが、当方には届くはずだとご理解ください。
ところで、投稿者の連絡先など公開が憚れる個人情報などが入っているようなときは、小生が受け取るのみで公開は控えます。
この機能を利用すれば「コメントは」当方への連絡手段としても、かなり便利な機能だということに気がつきました。
もちろん、当方からの返事で他者には憚る内容のときは、「コメント」以外の手段でいたします。
そのときは、冒頭に「非公開連絡」と書いていただければ、当方も分かりやすく、より安心です。せいぜい利用ください。
なお、当方の閲覧は夜です。
一刻も早く伝達したいときは電話かfaxでお願いします。
ーーーー
予報どおり、日中は16度を超えました。
しかし、パラぱらっと雨も降り変わりやすい天気でした。
そろそろと思っている「木地揃え」ですが、切りをつけるにはまだまだというところです。
今日のラジオ川柳で、「書道展読めず眺めて通るだけ」という投稿句が詠まれました。
「そうだよな」と思います。
最近では書道展を見に行くことがなくなりましたが、駒を作り始めの頃は勉強のため時々「書道展」に足を運びました。
その中で感動したのは、唯一、榊莫山先生が18歳のときに書いた「般若心経」です。
その頃の莫山先生は、一枚の紙にフワーッとした文字と戯れ画を書き交ぜたものを書いておられましたが、或るとき、たまたま出くわした莫山先生の若き18才の書は、丹精そのもの。一画一画に魂が宿るようで、「文字はこうあるべき」という感動でした。
魂が宿る文字といえば、奈良時代の「経文」です。
この時代と平安時代の経文。その一字一字と共通する感動でした。
ところで「書」。つまり「書かれた文字」に対する小生の考え方ですが、「読めない文字は書ではない」と思うのです。
文字は、人から人への伝達の手段です。読めなくては文字の機能を果たさない訳ですね。
もちろん、行書や草書、あるいは変体仮名などは、読むための勉強や素養が必要ですし、或る程度文字を勉強した人なら、まあまあ読める。これでないと文字は役には立ちません。
「前衛書道」と称して、誰にも読めないのがあります。
あれは単に紙に墨を塗りたくっているだけ。まあどちらかといえば「絵画」。そう思うのですネ。
「書道展読めず眺めて通るだけ」です。
小難しいことを書いてしまいました。
ソレニシテモ、感動するような「書」。これに出会いたいものです。
では、また。
天気予報では、今日は暖かになりそう。
昨日も期待をして外で仕事をしていたのですが、足首で感じる空気は冷ややか。夕方早々に仕事を切り上げました。
最近、ブログの「コメント」が、皆様からの伝達手段として大変便利なツールだということが分かりました。そのことについて触れておきます。
「コメント」は原則公開で、一旦、小生が内容を確認してから表記する仕組みを採用しています。
従って、入力しても直ぐには公開表記されません。そのため、反映できていないと2度3度入力戴くケースがありますが、当方には届くはずだとご理解ください。
ところで、投稿者の連絡先など公開が憚れる個人情報などが入っているようなときは、小生が受け取るのみで公開は控えます。
この機能を利用すれば「コメントは」当方への連絡手段としても、かなり便利な機能だということに気がつきました。
もちろん、当方からの返事で他者には憚る内容のときは、「コメント」以外の手段でいたします。
そのときは、冒頭に「非公開連絡」と書いていただければ、当方も分かりやすく、より安心です。せいぜい利用ください。
なお、当方の閲覧は夜です。
一刻も早く伝達したいときは電話かfaxでお願いします。
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予報どおり、日中は16度を超えました。
しかし、パラぱらっと雨も降り変わりやすい天気でした。
そろそろと思っている「木地揃え」ですが、切りをつけるにはまだまだというところです。
今日のラジオ川柳で、「書道展読めず眺めて通るだけ」という投稿句が詠まれました。
「そうだよな」と思います。
最近では書道展を見に行くことがなくなりましたが、駒を作り始めの頃は勉強のため時々「書道展」に足を運びました。
その中で感動したのは、唯一、榊莫山先生が18歳のときに書いた「般若心経」です。
その頃の莫山先生は、一枚の紙にフワーッとした文字と戯れ画を書き交ぜたものを書いておられましたが、或るとき、たまたま出くわした莫山先生の若き18才の書は、丹精そのもの。一画一画に魂が宿るようで、「文字はこうあるべき」という感動でした。
魂が宿る文字といえば、奈良時代の「経文」です。
この時代と平安時代の経文。その一字一字と共通する感動でした。
ところで「書」。つまり「書かれた文字」に対する小生の考え方ですが、「読めない文字は書ではない」と思うのです。
文字は、人から人への伝達の手段です。読めなくては文字の機能を果たさない訳ですね。
もちろん、行書や草書、あるいは変体仮名などは、読むための勉強や素養が必要ですし、或る程度文字を勉強した人なら、まあまあ読める。これでないと文字は役には立ちません。
「前衛書道」と称して、誰にも読めないのがあります。
あれは単に紙に墨を塗りたくっているだけ。まあどちらかといえば「絵画」。そう思うのですネ。
「書道展読めず眺めて通るだけ」です。
小難しいことを書いてしまいました。
ソレニシテモ、感動するような「書」。これに出会いたいものです。
では、また。
駒の写真集
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