3月31日(水)、晴れ。
加茂駅前のさくら。開花し始めたところです。
このブログへの復帰に、蕾も綻び花が咲き始めました。
この1週間は、gooのログイン画面の次は、何を入れても入れなくっても「ページが表示できません・・」となって、すべて蹴られる状況でした。
今は、再発しないかと、おっかなびっくりの心境でログインし書き込んでいます。
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今日は、「錦旗」を彫り始めました。
それまでは「董仙」を2組です。
「錦旗」も2組を予定しています。
森信雄七段から、5月3日の「一門の祝賀パーティ」案内状が届きました。
早速、「出席」の返事を出しました。
明日は4月1日のエイプリルフール。
4月1日で思い出すのは、「香順」さんこと木村茂夫さんがなくなった日です。
木村さんは、小生が「駒づくりを楽しむ会」を立ち上げて大阪・名古屋・東京で講習会を開いたとき、東京で親子の2人3脚でで参加され、これをきっかけに駒づくりを始められました。
茂夫さんは、いわば軍師役。実際の駒づくりは、息子の恭二さん。彫りも盛り上げの筋もよく上品な駒を作っておられました。恭二さんのお兄さんが作る駒箱も大したもので、お父さんは息子を駒師にしたかったようでした。
加茂駅前のさくら。開花し始めたところです。
このブログへの復帰に、蕾も綻び花が咲き始めました。
この1週間は、gooのログイン画面の次は、何を入れても入れなくっても「ページが表示できません・・」となって、すべて蹴られる状況でした。
今は、再発しないかと、おっかなびっくりの心境でログインし書き込んでいます。
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今日は、「錦旗」を彫り始めました。
それまでは「董仙」を2組です。
「錦旗」も2組を予定しています。
森信雄七段から、5月3日の「一門の祝賀パーティ」案内状が届きました。
早速、「出席」の返事を出しました。
明日は4月1日のエイプリルフール。
4月1日で思い出すのは、「香順」さんこと木村茂夫さんがなくなった日です。
木村さんは、小生が「駒づくりを楽しむ会」を立ち上げて大阪・名古屋・東京で講習会を開いたとき、東京で親子の2人3脚でで参加され、これをきっかけに駒づくりを始められました。
茂夫さんは、いわば軍師役。実際の駒づくりは、息子の恭二さん。彫りも盛り上げの筋もよく上品な駒を作っておられました。恭二さんのお兄さんが作る駒箱も大したもので、お父さんは息子を駒師にしたかったようでした。
将棋駒工房の看板。1年前の写真を使って、ブログの書き込みテストをしています。
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◇23日付 日本経済新聞 文化面 原文
「水無瀬駒・王道の歩み」 熊澤良尊
安土桃山時代の貴族が残した将棋駒づくりの記録がある。「将棊馬(しょうぎうま)日記」。能筆家として知られた水無瀬兼成(1514~1602年)が残した記録だ。「棊」は現在の「棋」。「馬」は「駒」を意味する。
兼成が漆書きした駒の数は日記によると737組。現在でも最も適した素材とされる黄楊(ツゲ)を使い、端正な五角形の駒形にして漆で文字を書いていた。兼成が没してまもなく、生前の記録が「駒日記」としてまとめ直されたようだ。それが大阪府島本町にある水無瀬神宮に残されていた。
◇勅命で作り始める
私が初めて日記を目にしたのは、趣味で駒作りを始めたころの1978年。当時はまだサラリーマンだったが、将棋駒の歴史研究にも興味を広げ、名駒や古駒があると聞けば、全国どこでも赴き、写真に収めてきた。1998年に会社を早期退職し、将棋駒作りをなりわいとする駒師になった。その間、水無瀬駒の調査はずっと続けている。
日記の書き出しは1590年(天正18年)。兼成が数えで77歳の時だ。能筆家として知られた兼成がこの歳でにわかに駒を作り始めたのは考えづらく、以前から駒づくりの素地と環境があったと思われる。兼成は、当代一の博識家で書家・歌人としても知られた三条西実隆の孫で、水無瀬家に養子に入っている。実隆も将棋駒づくりの経験があり、自身の「実隆公記」には、しばしば仲間から頼まれて駒を書いたとの記述がある。
同年の「中将棊」の冒頭には「一面(組)、上」とある。「上」とは天皇を意味し、後に後陽成天皇のことだと分かった。古来、水無瀬家による駒書きには「勅命によって始まった」との伝承があった。それを裏付ける記述である。
総数737組の駒のうち、現在の将棋と同じ「小将棋(駒数40枚)」は620組。当時の貴族に好まれた「中将棋(駒数92枚)」が106組。そのほか駒数130枚の「大将棋駒」や同192枚の「摩訶(まか)大々将棋駒」などの記述もある。
最も多く製作したのが、1599年(慶長4年)。前年に豊臣秀吉が亡くなり、翌年には天下分け目の関ケ原の合戦が起こる。そんな動乱期のまっただ中に、貴族や大名らの間では将棋が盛んに遊ばれていたことが分かる。
◇家康が武将に贈る
関ケ原の合戦があった1600年前後に徳川家康が合計53組もの水無瀬駒を購入していた。周囲の武将や配下の主だった者たちへの付け届けの品として贈ったらしい。家康が好んだということは、駒として水無瀬駒が天下を制したと言えなくもない。ほかの譲り渡し先も豪華だ。天皇、上皇、公家衆、名だたる武将、文化人、僧侶、豪商など。繰り返し手にしたリピーターも多く、後陽成天皇もその一人だった。
駒づくりの子細がうかがえる記述もある。1592年、「七面、千二百八十二枚を二月朔日(ついたち)より書き始めて六日に書き了える」とある。昼が短いこの季節、1日平均で2百枚余りを書き上げた計算になる。
明るい日中の作業時間を6時間と仮定すると、1時間当たり40枚。駒1枚の表裏を1分半で書かなければならない。この速さは驚き。ものすごい集中力と長年培った習練がなせる技としか言いようがない。
2008年には福井県の愛棋家が所有する徳川家葵紋が入った蒔絵の将棋盤とセットになった象牙駒が見つかった。玉将に「八十五才」と書いてある。日記によれば象牙駒は5組しか作られておらず、紛れもなく兼成がしたためた水無瀬駒だと分かった。
しかも「一面、象牙 道休(室町幕府15代将軍・足利義昭のこと)」とある慶長3年の記述ともピッタリと一致する。400年前につくられた駒が出自記録で特定できたのは異例のことで、駒と日記双方のù?信憑性(しんぴょうせい)が格段に高まったといえる。
♤ ♤ ♤
◇気品漂う優雅な筆跡
09年4月、水無瀬神宮の地元・島本町で「水無瀬駒関連の品々」が町指定文化財の第1号になった。水無瀬駒の歴史を研究している者としてうれしい限りだ。昨秋には「八十五才」の銘が入った象牙駒が400年ぶりに里帰りし、水無瀬神宮に残る「八十二才」の水無瀬駒と対面することになり、その場にも立ち会わせてもらった。
水無瀬駒は兼成の手による優雅な筆跡で美術的な価値は高い。筆跡には気品が漂い、今見ても超一流品で、「近代将棋駒」のルーツと呼ぶにふさわしい。駒づくりだけでなく私が歴史について調べているのも、少しでも多くの人に将棋駒の持つ文化性を知ってもらいたいと思っているからだ。(くまざわ・りょうそん=駒師)
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◇23日付 日本経済新聞 文化面 原文
「水無瀬駒・王道の歩み」 熊澤良尊
安土桃山時代の貴族が残した将棋駒づくりの記録がある。「将棊馬(しょうぎうま)日記」。能筆家として知られた水無瀬兼成(1514~1602年)が残した記録だ。「棊」は現在の「棋」。「馬」は「駒」を意味する。
兼成が漆書きした駒の数は日記によると737組。現在でも最も適した素材とされる黄楊(ツゲ)を使い、端正な五角形の駒形にして漆で文字を書いていた。兼成が没してまもなく、生前の記録が「駒日記」としてまとめ直されたようだ。それが大阪府島本町にある水無瀬神宮に残されていた。
◇勅命で作り始める
私が初めて日記を目にしたのは、趣味で駒作りを始めたころの1978年。当時はまだサラリーマンだったが、将棋駒の歴史研究にも興味を広げ、名駒や古駒があると聞けば、全国どこでも赴き、写真に収めてきた。1998年に会社を早期退職し、将棋駒作りをなりわいとする駒師になった。その間、水無瀬駒の調査はずっと続けている。
日記の書き出しは1590年(天正18年)。兼成が数えで77歳の時だ。能筆家として知られた兼成がこの歳でにわかに駒を作り始めたのは考えづらく、以前から駒づくりの素地と環境があったと思われる。兼成は、当代一の博識家で書家・歌人としても知られた三条西実隆の孫で、水無瀬家に養子に入っている。実隆も将棋駒づくりの経験があり、自身の「実隆公記」には、しばしば仲間から頼まれて駒を書いたとの記述がある。
同年の「中将棊」の冒頭には「一面(組)、上」とある。「上」とは天皇を意味し、後に後陽成天皇のことだと分かった。古来、水無瀬家による駒書きには「勅命によって始まった」との伝承があった。それを裏付ける記述である。
総数737組の駒のうち、現在の将棋と同じ「小将棋(駒数40枚)」は620組。当時の貴族に好まれた「中将棋(駒数92枚)」が106組。そのほか駒数130枚の「大将棋駒」や同192枚の「摩訶(まか)大々将棋駒」などの記述もある。
最も多く製作したのが、1599年(慶長4年)。前年に豊臣秀吉が亡くなり、翌年には天下分け目の関ケ原の合戦が起こる。そんな動乱期のまっただ中に、貴族や大名らの間では将棋が盛んに遊ばれていたことが分かる。
◇家康が武将に贈る
関ケ原の合戦があった1600年前後に徳川家康が合計53組もの水無瀬駒を購入していた。周囲の武将や配下の主だった者たちへの付け届けの品として贈ったらしい。家康が好んだということは、駒として水無瀬駒が天下を制したと言えなくもない。ほかの譲り渡し先も豪華だ。天皇、上皇、公家衆、名だたる武将、文化人、僧侶、豪商など。繰り返し手にしたリピーターも多く、後陽成天皇もその一人だった。
駒づくりの子細がうかがえる記述もある。1592年、「七面、千二百八十二枚を二月朔日(ついたち)より書き始めて六日に書き了える」とある。昼が短いこの季節、1日平均で2百枚余りを書き上げた計算になる。
明るい日中の作業時間を6時間と仮定すると、1時間当たり40枚。駒1枚の表裏を1分半で書かなければならない。この速さは驚き。ものすごい集中力と長年培った習練がなせる技としか言いようがない。
2008年には福井県の愛棋家が所有する徳川家葵紋が入った蒔絵の将棋盤とセットになった象牙駒が見つかった。玉将に「八十五才」と書いてある。日記によれば象牙駒は5組しか作られておらず、紛れもなく兼成がしたためた水無瀬駒だと分かった。
しかも「一面、象牙 道休(室町幕府15代将軍・足利義昭のこと)」とある慶長3年の記述ともピッタリと一致する。400年前につくられた駒が出自記録で特定できたのは異例のことで、駒と日記双方のù?信憑性(しんぴょうせい)が格段に高まったといえる。
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◇気品漂う優雅な筆跡
09年4月、水無瀬神宮の地元・島本町で「水無瀬駒関連の品々」が町指定文化財の第1号になった。水無瀬駒の歴史を研究している者としてうれしい限りだ。昨秋には「八十五才」の銘が入った象牙駒が400年ぶりに里帰りし、水無瀬神宮に残る「八十二才」の水無瀬駒と対面することになり、その場にも立ち会わせてもらった。
水無瀬駒は兼成の手による優雅な筆跡で美術的な価値は高い。筆跡には気品が漂い、今見ても超一流品で、「近代将棋駒」のルーツと呼ぶにふさわしい。駒づくりだけでなく私が歴史について調べているのも、少しでも多くの人に将棋駒の持つ文化性を知ってもらいたいと思っているからだ。(くまざわ・りょうそん=駒師)
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