4月23日(金)、曇り。
昨日、ある老舗店から次のような質問がありました。
「お客様から質問があって、世の中には水無瀬の銘が付けられた駒が何種類もあって、それぞれの文字書体が違ってややこしい。
熊澤さんの作った水無瀬兼成の文字が一番オリジナルに近いようで、お薦めしようと思っている。この際、知識を整理しておきたいので、それぞれの由来とかどうなっているのかを教えて欲しい」、とのことでした。
「確かにややこしいですね。私に言わせれば、似ても似つかぬ文字が多く作られ売られている。それに対しては、次のような見解」であることを伝えました。
1、現在、多く作られている「水無瀬書」は、出所不明の書体文字で、これは明治時代の後
半に現れた書体文字で、小生の推論では豊島太郎吉の創作か翻案の可能性が高い。
2、理由としては、江戸時代以前にはこの書体文字は確認されていないことと、小生の持っ
ている太郎吉作と思われる古駒の玉将裏には「水無瀬大納言兼俊卿筆跡」とあり、しか
も、小生が豊島家から譲り受けた太郎吉・数次郎の遺品にも、この書体・銘文の紙が複
数枚残っている。水無瀬大納言は間違い。兼成の孫、兼俊は参議)
現在「水無瀬書」として普通に市販されている駒の文字は、この駒に倣って作られたも
のであること。
3、明治時代以前、幕末の頃までは「兼成卿写」とか「水無瀬形」と言った銘の駒がありま
した。文字や雰囲気は、水無瀬神宮にある水無瀬兼成の駒によく似ているが、なぜかこ
の流れの駒は現在は作られなくなっている。
4、一方、近年は「水無瀬兼成書」と言う銘で駒が出回っているが、これはもともとは大阪
の駒師・赤松元一が作っていた文字書体で、赤松さんが作った「水無瀬兼成書」の駒を
誰かさんが別の駒師に持ち込んで、「これと同じ文字で作ってくれ」と言った経過で、
以後、作られ市販されるようになった。
しかしながら、文字はその赤松さんのオリジナルともかなり変わってしまっている。
5、小生の「古水無瀬」は、水無瀬神宮のオリジナル駒と、木村名人所蔵(旧大橋家伝来、
将棋博物館蔵)で「伝・後水尾天皇真筆駒」(実際は水無瀬兼成の筆跡と鑑定する)と
を下敷きにして、現代の小生の感性で翻案した文字書体であること。
6、一方、今回お尋ねがあった小生の「水無瀬兼成卿写」は、2年ほど前に初めて400年
前の水無瀬神宮蔵のオリジナルをそのまま再現しようと、宮司さんの許可をもらい、作
ったもの。駒形は35年ほど前に初めて拝見したとき、半紙を駒に押し当てて形を写し
て、資料として残しておりました。
このときから作りたい思いはありましたが、国宝のようなものなので「犯すべからず」
との思いで作ることを控えておりました。それを思い切って申し出て、許可をいただい
た訳です。
7、そのほか、「古流水無瀬」などの名で別の方が作ったり、駒の世界はとにかくコピー品
のコピー品、そしてまた、そのコピー品が作られるという百花繚乱状態ということ。
8、もうひとつ、兼成以降の水無瀬家での駒づくりですが、子供の親具筆の駒は力強い筆 跡で現在の「水無瀬書」とは違うもの。
孫の兼俊の駒は、水無瀬神宮とそのほかにも複数組が残っています。しかし、これらは
兼俊自身の筆跡で作られた駒というより、祖父・兼成の筆跡を真似て作られたもので、
筆使いがぎこちなく、兼成筆ほどの良さはありませんし、兼俊本来の筆跡の駒は、今の
ところ見つかっていない。
以上です。
なお、前回の写真は、6項の関連で掲載しました。
ーーーー
先ほど大阪から戻ってきました。
今朝は10時半に出立、谷町・難波・四ツ橋・を経由して福島区へ。
将棋会館では2時間ほどの用事を17時に終了。
帰りは直帰。車なら、関西将棋会館から1時間はかからずでした。
昨日、ある老舗店から次のような質問がありました。
「お客様から質問があって、世の中には水無瀬の銘が付けられた駒が何種類もあって、それぞれの文字書体が違ってややこしい。
熊澤さんの作った水無瀬兼成の文字が一番オリジナルに近いようで、お薦めしようと思っている。この際、知識を整理しておきたいので、それぞれの由来とかどうなっているのかを教えて欲しい」、とのことでした。
「確かにややこしいですね。私に言わせれば、似ても似つかぬ文字が多く作られ売られている。それに対しては、次のような見解」であることを伝えました。
1、現在、多く作られている「水無瀬書」は、出所不明の書体文字で、これは明治時代の後
半に現れた書体文字で、小生の推論では豊島太郎吉の創作か翻案の可能性が高い。
2、理由としては、江戸時代以前にはこの書体文字は確認されていないことと、小生の持っ
ている太郎吉作と思われる古駒の玉将裏には「水無瀬大納言兼俊卿筆跡」とあり、しか
も、小生が豊島家から譲り受けた太郎吉・数次郎の遺品にも、この書体・銘文の紙が複
数枚残っている。水無瀬大納言は間違い。兼成の孫、兼俊は参議)
現在「水無瀬書」として普通に市販されている駒の文字は、この駒に倣って作られたも
のであること。
3、明治時代以前、幕末の頃までは「兼成卿写」とか「水無瀬形」と言った銘の駒がありま
した。文字や雰囲気は、水無瀬神宮にある水無瀬兼成の駒によく似ているが、なぜかこ
の流れの駒は現在は作られなくなっている。
4、一方、近年は「水無瀬兼成書」と言う銘で駒が出回っているが、これはもともとは大阪
の駒師・赤松元一が作っていた文字書体で、赤松さんが作った「水無瀬兼成書」の駒を
誰かさんが別の駒師に持ち込んで、「これと同じ文字で作ってくれ」と言った経過で、
以後、作られ市販されるようになった。
しかしながら、文字はその赤松さんのオリジナルともかなり変わってしまっている。
5、小生の「古水無瀬」は、水無瀬神宮のオリジナル駒と、木村名人所蔵(旧大橋家伝来、
将棋博物館蔵)で「伝・後水尾天皇真筆駒」(実際は水無瀬兼成の筆跡と鑑定する)と
を下敷きにして、現代の小生の感性で翻案した文字書体であること。
6、一方、今回お尋ねがあった小生の「水無瀬兼成卿写」は、2年ほど前に初めて400年
前の水無瀬神宮蔵のオリジナルをそのまま再現しようと、宮司さんの許可をもらい、作
ったもの。駒形は35年ほど前に初めて拝見したとき、半紙を駒に押し当てて形を写し
て、資料として残しておりました。
このときから作りたい思いはありましたが、国宝のようなものなので「犯すべからず」
との思いで作ることを控えておりました。それを思い切って申し出て、許可をいただい
た訳です。
7、そのほか、「古流水無瀬」などの名で別の方が作ったり、駒の世界はとにかくコピー品
のコピー品、そしてまた、そのコピー品が作られるという百花繚乱状態ということ。
8、もうひとつ、兼成以降の水無瀬家での駒づくりですが、子供の親具筆の駒は力強い筆 跡で現在の「水無瀬書」とは違うもの。
孫の兼俊の駒は、水無瀬神宮とそのほかにも複数組が残っています。しかし、これらは
兼俊自身の筆跡で作られた駒というより、祖父・兼成の筆跡を真似て作られたもので、
筆使いがぎこちなく、兼成筆ほどの良さはありませんし、兼俊本来の筆跡の駒は、今の
ところ見つかっていない。
以上です。
なお、前回の写真は、6項の関連で掲載しました。
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先ほど大阪から戻ってきました。
今朝は10時半に出立、谷町・難波・四ツ橋・を経由して福島区へ。
将棋会館では2時間ほどの用事を17時に終了。
帰りは直帰。車なら、関西将棋会館から1時間はかからずでした。
駒の写真集
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