熊澤良尊の将棋駒三昧

生涯2冊目の本「駒と歩む」。ペンクラブ大賞受賞。送料込み5000円。
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作品 文章 写真 販売品

ある原稿

2010-04-13 19:42:16 | 文章
4月13日(火)、曇り。

勤務していた会社の先輩から勧められて、OB会会報誌への原稿を作成しました。
駒に携わるきっかけやら、その後の経緯に触れていますので、ブログにも掲載しておきます。

[硝友会報/原稿、H22.4.15]

                     幸運の女神
                                       熊澤良尊
  硝友会の先輩方や同期の方々から相次いで手紙や電話を頂戴しました。3月23日付
 け日本経済新聞・文化欄に「水無瀬駒・王道の歩み」と題する小文が掲載され、それを
 ご覧になっての有りがたいお便りでした。この場を借りて重ねて御礼申し上げます。
   将棋の駒は「吹けば飛ぶよな・・」と歌われておりますが、安土桃山時代の水無瀬兼
 成という貴族が漆で書いた水無瀬駒は、端正な形と優美な文字・品格。そして作られた
 時代背景など、国宝か重要文化財になってもおかしくはない実用品であり歴史的工芸
 品なのですが、このことは残念ながら余り知られておりません。概略は記事をご覧いた
 だくこととして、ここでは小生の将棋駒との出会いや経緯近況についてご報告させてい
 ただきます。
                        ◇
  29歳の時、当時は専門の駒師が作るものとおよそ決まっていた駒の自作を思い立ちま
 した。独学でやり始めたところこれが楽しく、おまけに初作の駒が中原名人対加藤(一)
 九段の記念対局に使用されるという幸運で、やがて、駒の歴史研究にも手を染めるように
 なりました。たまたま深く研究されていない分野だったことに加え、周りの環境にめぐまれ
 たことが幸運でした。   
  出だしの頃、全国の将棋ファンに呼びかけて「駒づくりを楽しむ会」を立ち上げようと思い
 立ったとき、会社以外の業務を禁じた職務規則に違反しないかが気掛かりでした。
  当時の人事係長出原さんに相談すると言下に許可が出て、勇気百倍の力を得た思いで
 した。
  毎月の残業100時間を超える職務に日々精励する中、楽しい「駒」は、土曜・日曜・ 休
 日のほか、毎日は寝るまでの短い時間を充てました。1日24時間が短く、せめて2~ 3
 時間増えればという思いでした。8ページほどの会報紙発行を年4回。事績調査は専門
 誌を通じてレポート。その合間に行う自身の駒づくりは年間に4組程度。東京・横浜・大阪・
 京都・四日市で毎年仲間の作品を集めては作品展を開催。その間に趣味道楽の延長で
 上梓した「名駒大鑑」は唯一の専門書として評価され、大山名人が館長を務める将棋博
 物館に協力するうちに知らぬ間に顧問になるなど、「駒」がライフワークとなりました。
  40歳を過ぎたころ、家族の了解も得てゆくゆくは55歳での定年選択を思い描いており
 ましたが、平成7年52歳で早期退職する道を選びました。
  翌年、銀座大通りと心斎橋筋で開催した「熊澤良尊・駒づくりプロ宣言展」は、斯界の
 長老・原田九段の支援をいただいて「原田泰夫・書作展」とのコラボレーションが実現。
 これは望外の喜びでした。自ら提案した近代将棋誌への連載は「熊澤良尊・駒に生きる」
 のタイトル名を与えられて11年132回を重ね、この間、駒は名人戦などタイトル戦でたび
 たび採用されるようになり、ひとえに関係者皆様のお蔭と感謝しています。
  平成16年には、ひょんなことで奈良国立博物館「やまとの匠・近世から現代まで」展で、
 「谷川浩司書」など小生作の駒3点が奈良の著名な工芸作家作品とともに陳列されました。
 将棋駒が国立博物館で陳列されるのは初めてとのことだったそうで、これも人と人との繋り
 と幸運の賜物です。
  一昨年は福井県で室町幕府15代将軍・足利義昭が注文した象牙駒が見つかり、昨年
 は大阪府島本町の水無瀬神宮に遺されている安土桃山時代の駒が町文化財第1号に指
 定されて、幸いにもそのどちらにも立ち会うことができました。   
  ブログ「熊澤良尊 将棋駒工房」を始めて2年。今年67歳となりました。何かをやり続け
 ていると何処かで「幸運の女神」が微笑んでくれるようです。夢は400年前の水無瀬兼成
 卿にならい88歳で駒を作ること。「まだまだ健康で」これが私の願いです。(完)
コメント (2)
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駒の写真集

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