4月5日(月)、曇り。
昨日、長岡京市からの帰り道。予てから尋ねて見たかった八幡市の「松花堂(しょうかどう) 」がカーナビに映ったので、立ち寄ることにしました。
しばらく行くと、淀川べりの道が大渋滞。
理由はわからないまま、2~3キロばかりのところを30分ほど行くと、理由がわかってきました。
それは、淀川が宇治川、鴨川、桂川の三つに分かれる辺り。その土手には見事な桜並木。
折りからの晴天のもとで、満開の桜を見ようと、ひと・ヒト・人。
駐車場に入る車の行列でした。
「松花堂」については、「松花堂弁当」でも知られているので、ご承知の方も多いでしょうが、説明文を張っておきます。
ーーーー
京都府指定文化財、江戸時代。
寛永の三筆のひとり「松花堂昭乗」が男山山中の坊内に建てた小方丈を松花堂という。
昭乗は、摂津堺に生まれ、兄が興福寺一乗院門跡尊勢に仕えたのに従い奈良に移住した。 17才で男山滝本坊実乗につき社僧となり、寛永4年(1627)師の跡を継ぎ滝本坊の住職となる。
昭乗は、はじめ御家流の書を、後に空海や定家の書を学び、滝本流といれる独特の書流を立て、近衛信尹・本阿弥光悦とともに寛永の三筆に数えられた。晩年の寛永14年(1637)昭乗は、弟子の乗淳に滝本坊を譲り、自身は里坊の泉坊の一隅に松花堂という小方丈を建て、そこに移り住み松花堂昭乗と名乗る。
昭乗は、絵画・和歌・茶の湯などにも精通した当代きっての文化人で、近衛信尋・尾張藩祖徳川義直・狩野山雪・小堀遠州・沢庵宗彭などとも親交があり、これらの人々が集う松花堂は寛永時代の文化サロンのひとつであった。
実はこの松花堂昭乗。水無瀬駒の愛好者でもあった可能性もあります。
水無瀬駒のふるさと、今の水無瀬神宮にも近く、神宮に残る「将棋馬日記」には「滝本坊」の名前もあリ、この時代の滝本坊は師の実乗が住職でしたが、若き昭乗はそのナンバー2でありました。
因みに「松花堂弁当」は、あの料亭「吉兆」を興した湯木貞一が、松花堂昭乗が工夫した弁当箱にヒントを得て、その名を付けたものだと聞いています。
昨日、長岡京市からの帰り道。予てから尋ねて見たかった八幡市の「松花堂(しょうかどう) 」がカーナビに映ったので、立ち寄ることにしました。
しばらく行くと、淀川べりの道が大渋滞。
理由はわからないまま、2~3キロばかりのところを30分ほど行くと、理由がわかってきました。
それは、淀川が宇治川、鴨川、桂川の三つに分かれる辺り。その土手には見事な桜並木。
折りからの晴天のもとで、満開の桜を見ようと、ひと・ヒト・人。
駐車場に入る車の行列でした。
「松花堂」については、「松花堂弁当」でも知られているので、ご承知の方も多いでしょうが、説明文を張っておきます。
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京都府指定文化財、江戸時代。
寛永の三筆のひとり「松花堂昭乗」が男山山中の坊内に建てた小方丈を松花堂という。
昭乗は、摂津堺に生まれ、兄が興福寺一乗院門跡尊勢に仕えたのに従い奈良に移住した。 17才で男山滝本坊実乗につき社僧となり、寛永4年(1627)師の跡を継ぎ滝本坊の住職となる。
昭乗は、はじめ御家流の書を、後に空海や定家の書を学び、滝本流といれる独特の書流を立て、近衛信尹・本阿弥光悦とともに寛永の三筆に数えられた。晩年の寛永14年(1637)昭乗は、弟子の乗淳に滝本坊を譲り、自身は里坊の泉坊の一隅に松花堂という小方丈を建て、そこに移り住み松花堂昭乗と名乗る。
昭乗は、絵画・和歌・茶の湯などにも精通した当代きっての文化人で、近衛信尋・尾張藩祖徳川義直・狩野山雪・小堀遠州・沢庵宗彭などとも親交があり、これらの人々が集う松花堂は寛永時代の文化サロンのひとつであった。
実はこの松花堂昭乗。水無瀬駒の愛好者でもあった可能性もあります。
水無瀬駒のふるさと、今の水無瀬神宮にも近く、神宮に残る「将棋馬日記」には「滝本坊」の名前もあリ、この時代の滝本坊は師の実乗が住職でしたが、若き昭乗はそのナンバー2でありました。
因みに「松花堂弁当」は、あの料亭「吉兆」を興した湯木貞一が、松花堂昭乗が工夫した弁当箱にヒントを得て、その名を付けたものだと聞いています。
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