熊澤良尊の将棋駒三昧

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雛祭り

2012-03-01 18:40:59 | 写真
加茂船屋雛祭りの映像。










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書き駒について

2012-03-01 06:45:04 | 文章
3月1日(木)、曇り。

いよいよ3月。
今日から加茂の雛祭り。
正式な名称は「加茂船屋雛まつり」。
「船屋」とは、加茂にある古くからの地名で、舟の泊り屋があったことに由来しているようです。
その昔、大坂辺りとの物資の行き来は木津川(百人一首では「いずみ川」)が使われて「木津」は「木の津」、つまり「木材の積み出し港」。
と言う訳でした。

その船屋通り数10軒の旧家のお雛様を通りから眺めていただこうと、加茂町商工会が数年前から始めたのが「加茂船屋雛祭り」。
当方は、雛人形は持ち合わせておりませんが、呼びかけに応じて昨年から参加。
今年は、古い雛道具の「3面(将棋・碁・双六)盤」のほか、江戸時代の大名道具の将棋盤・駒などを数点並べてご覧戴きます。
昨日もその準備をしましたが、午後からお客様があったり電話があったり。
今日は、展示品を並べる作業から始めます。
小生の作品も、1~2点ご覧頂くことに。
最終は5日まで。
よろしければ、明るい時間帯にお出でください。

ーーーー
「書き駒」。
「書き駒」について、世間ではかなり知識不足と言うか誤解が多いようです。
そのあたり、思っていることを思いつくままに、何回かに分けて述べることにします。

そもそもの駒は、全て「書き駒」が始まり。
最初の頃は、あり合わせの「ヘギ(木片)」を削って墨書。
自給自足の時代です。
しかし、汗で黒く汚れたり滲んだり。
各地の遺跡で発掘されている駒は、そのような粗末なものです。

やがて漆を知る人は、漆で駒の文字を書くことを思いつきます。
そして「適材適所」指向。
駒型にしたのは工作に長けた下僕かもしれませんが、平安時代の貴族は「黄楊」を削って均整のとれた5角形にして漆で文字を書いた。
しかし、当時の遺跡からは、全く発見されておりません。
理由は、黄楊が腐敗菌に非常に弱いと言うこと。
そのことは、前に書きました。

墨書手習いは、公家の基本素養の一つですが、漆書きにはそれなりにプラスした技量が必要。
漆の駒書きは、誰でもできると言うものでも無いので、ある人は上手な公家仲間に頼んで作ってもらう。
そう言うことも多かったことでしょう。
勿論、下々の僧侶、武士、庶民たちは、それぞれのレベルで自作中心で、二極分化の時代が続きました。

下って16世紀。
頂点を極める代表が、三条西実隆だったり孫の水無瀬兼成だったリ。
やがて、駒は「水無瀬」と言われるようになりました。
庶民の手が届かない超高級品です。
以降、江戸時代に入っても水無瀬家では三代にわたってそれが引き継がれ、その他にも字の上手な公家が駒を書いた時代が続きます。
玉将駒のお尻に「銘」を入れるようになったのはこの時代。
「俊光」の駒は、そのようなもの1つ。
未だ解明できておりませんが、「清安」辺りもそのような人に違いありません。
無銘ながら「兼成卿写」「八十二才」と入った紫檀に朱漆の駒を蔵しておりますが、丁度、この時代のものではないかと思っています。

そのような時代、江戸時代の半ば頃には庶民にも将棋愛好者が拡大。
需要に応えて駒の職人が何人も生まれます。
書き駒だけでなく、彫り駒が多く作られたりしたのがこの時期。
文字を満足に書けなくても、彫り駒は作れると言う訳です。
ある者は書き駒だったリ、彫り駒だったリ。
「安清」は、その経過の時代で多くの駒を作った代表と言えましょう。


今日の時間が無くなりました。
続きはまた今度。







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駒の写真集

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