先週の土曜日に、祖父の十七回忌と叔父の七回忌の法要がありました。
祖父は元号が平成になった年の7月に亡くなり、叔父は6年前の5月に亡くなっており、今回一緒の法事となりました。
当日は、私の家族や従兄弟の親類など十数人が菩提寺に集まり、本堂でお経をあげてもらったあと、二人が眠るお墓に花と線香を手向け、故人の冥福を祈りました。
亡くなって年が経つにつれ、日々に薄れ行く故人の思い出ですが、せめて命日には一族が集まって、故人の生前の姿を心の中に想い描くと同時に、こうして集まった一族が互いの結束を確認し合い、今後とも仲良く暮らすことを御霊の前で誓うことが大事であると、これはお経をあげていただいた住職の弁。
昭和天皇と同い年である明治34年(1901年)生まれの祖父は、くしくも没年も同じとなったのですが、父親のいない私にとって文字通り父親代わりの存在でした。
長年小田原・箱根の山道を自転車を引きながら、印章(はんこ)などの行商を行い、家を空けていることが多かった祖父ですが、寡黙で温厚な性格にもかかわらず、家にいるときの存在感は大きなものでした。
家にいるときは、庭先で飼っていたミツバチの世話をしているときが一番楽しいと、常々言っていました。
真面目の上に「クソ」が付くほどの堅い人で、ギャンブルなどには手を染めず、テレビの相撲やプロレス放送を見ては、ときどき晩酌に少しのお酒を飲み、まれに酔って歌を歌うようなこともありました。
祖母(妻)を愛し、家族を愛し、仕事を愛し、ミツバチを愛し、釣りを愛した人生でした。
「人に善く」「仕事と道糞は後(あと)を見られる」というのが口癖で、他人にはできるだけ親切に、またどんなに些細な仕事にも手を抜かない几帳面な性格も持っていました。
上記の二つの言葉は、私の座右の銘としています。
私が大人になったころには、好きな酒やタバコも医師や家族から止められていて、一緒に酒を酌み交わす機会も多くはなかったのですが、夜東京から帰ってくる私を笑顔で迎えてくれた姿が今でも忘れられません。
今高校に通っている私の二男が生まれたときに、実家でひ孫を抱っこしているビデオが残っています。翌年88歳で亡くなった祖父の最後の映像になりました。