松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

わたしはラグビーボール  自然であること-2-

2009-03-12 | 心韻-こころの逸話(エピソード)-
最近の練習は内容も緻密になってきて忙しいです。
その上、なんだか哲学まで加わってきています。

動作練習を終えて検証してるときなどに
ふっと浮かんできたことを
後で先生にお話すると「それは哲学ですね」とのお答えが。
意外にも哲学って身近な存在でした。



唐突で申し訳ないのですが、
たとえば“まるい円”といったら
あなたはどんな円をイメージしますか?

何となくまんまるの円、正円を
イメージしていませんか。
楕円をイメージする人って
なんだか少ないような気がするんです。
同じように球体といえば
一般的な丸いボールのことであって、
ラグビーボールのようなものを思い浮かべる人は
ごく稀ではないかと思われるのです。

改めて考えてみると不思議ですね。

人によってその大きさは違うとは思うけれど
“まんまる”の円や球体には変わりがなさそうです。
楕円や楕円球(なんて言い方あり?)
ほとんど意識されないのは、どうしてなのでしょう。

人はそれぞれ固有な存在でありながらも、
求めるもののイメージは
もしかしたら共通しているのかもしれません。
人間って、完全無欠、完璧なものに
魅かれるものなのかなぁ。
ということは、人間にはもともと欠けてるところがある
いわゆる未完成な存在ってことなのかしらん。

そして自身を省みれば
強いところも弱いところもありますし、
傷もあったり摩耗もしてますし、
何かといびつな感じがしてきます。
やっぱりラグビーボールなんじゃないのかな。

そんな自分をちゃんと認識することもせずに
ただ、まんまるになりたい(と思い)
なろうとしていただけなのかもしれません。

現在の自分の状態を知って
それに適った範囲で要求を満たせれば、
たとえラグビーボールのごとく
多少のいびつさ(要求充足度の差)はあったとしても
それなりの“和み球体”となるのかもしれませんね。
それはたぶんラグビーボールが
ラグビーボールとして機能していることになるのでしょう。

そうなるためにもまずは自然であること、ですね。
無理をせず、ことさらな仕業をしないこと。
対抗せずに受けとめること。


1 コメント

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欠乏感の出所はバランス感覚? (yuehua(月華))
2009-03-17 09:48:15
ヒトが完全なものを求めているというよりも、
頭が求めているのかもしれません。
目に見えて(あきらかに)欠けている場合もないとはいえませんが、
たいていの場合は目には見えない何ものかに対して
「“まだ”足りない」という思いや感覚を抱いているような…。
これって比較やバランスの問題ですよね。

ということは…
わたしはラグビー・ボール(みたい)と感じているのだって
ホントかどうかはわからない?
(現実的にはボールではないことは
当たり前のことなのですが)

もしかしたらホントは足りているかもしれないのに
頭がそれに気づかずに(認識できずに)
欲しがっているだけという
場合だってあるかもしれません。
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