松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

学をなせば日々に益し -老子(道徳経)より-

2008-06-11 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
数年前から「老子(道徳経)」なるものを読み続けています。
ご存知の方も多いとは思いますが、
「老子」はその内容から大きく2つの章に分けられます。
前半は道(dao4)について、後半は徳(de2)について
語られていることから、道徳経と呼ばれています。

一応は通読しましたが、
読み終える頃には、はじめの方の内容は忘れており、
なんだかな~といった感じで…。
そこでまずは老子に親しむ方が先だろうということで
その日に無作為に開いたページの一節だけを読んでいこうと。
ほとんど遊び感覚ですね。

やり始めてほどなく気づきましたが
どうも開きやすい箇所というのがありますね。
最初の方とか最後の方は、なかなか読む機会に恵まれません。
で、今回のタイトルにあげた一節は
比較的開きやすい箇所にあるものです。


 為学日益、為道日損。損之又損、以至於無為。
 無為而無不為。
 取天下、常以無事。及其有事、不足以取天下。


 学問を修めていると知識は一日一日とふえてくるが
 道を修めていると一日一日とその知識は減ってゆく。
 減らした上にまた減らし、どんどん減らしていって
 ついにはことさらな“しわざ”のない「無為」の立場にゆきつくと
 そのしわざのない「無為」のままにいて、
 それですべてのことを立派になしとげるようになる。
 世界を制覇するのは必ず格別な仕事をしないで、
 あるがままにまかせていくことによってである。
 もし格別な仕事を少しでもしようものなら、世界を制覇することはできない。
             (「老子」無知無欲のすすめ 訳:金谷 治)



最近、先生から言われていることをつらつら思い返しながら読むと
なんというか…「聴く耳を持てよ」と言われているような気もしてきたり。

まったく気づかなかったことに気づき出すと
それに意識が傾きがちなんですが、
それはまたある意味で新たな枠をつくりかねないものでもあり、
しかも自ら仕掛けていく、いわゆる作為的な“しわざ”にも
繋がっていくような気もしてくるわけで。

例えば自分の場合は
生来の考え過ぎの性格ゆえに気の消耗を招きやすく、
さらには気の巡りもよろしくないわけですから
養生的にみてもコントロールできた方がよいわけで。

だからといって悲観しているわけでもないのです。
枠ができたらできたでいいじゃないかと。
できちゃった枠を壊していければいいってことだから。

いままでは枠を増やさないようにしたいとか
枠を減らすにはどうしたらいいのかと
腐心していたように思います。
この腐心が無用な消耗になるんですよね。

枠を壊すというのは捨てることにも通ずるんだろうなと
思い始めています。
枠とは境界線のようなものかもしれません。
何かしら限定するようなもの。
そこには経験や既成概念なども含まれるかもしれません。
枠を壊すとは、価値観や考え方も含めて
一度は身につけたものを潔く捨てることでもあるのかな。
もしかしたら発想の転換(のようなもの)なのかも。

納得できれば捨てられるかもと言いそうな自分。
納得する主体が自分だとすれば、
そもそも自分という枠がすでに存在しているわけで。
また自分とは何をもって存在するのか、
そもそも何なんだということにもなるわけで。
肉体としては存在するけれども
意識というか考えを巡らしている主体は
脳なのか肉体なのか。
人をコントロールするもの、主司とはいったい何なのか。
このあたりの問答をいま先生と展開中です。

その内容ですか? それはまだヒミツです。
なかなか理解するまで至りませんです。



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