私は東京の調布市の住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は国内旅行が共通趣味で、何かと北海道の旅は心身波長に合い、
幾たびか旅路を重ねてきた。
こうした中で、昨年の晩秋の時、オホーツク海に面した流氷に再会したいね、と話し合ったりした。
そして本年の2月中旬の頃に、オホーツク海に面した街の海岸に流氷が到達する時期に、
旅路の立案をし、旅行代理店に予約した。
私たちは道東地方のオホーツク海に面した地域の冬の旅路は、数えるばかり少ない。
確か14年前の2001(平成13)年の2月に、前年に勤続30年の特別休暇を頂いたので、
これを活用して、私はオーホックの流氷、家内は札幌の雪祭りを目的として、
私たち夫婦は4泊5日で周遊し、冬の北海道を初めて訪れた・・。
★今回、掲載した写真のすべては、この当時の私は、恥ずかしながらカメラがなく、
やむなく、この後に道内の冬の旅路で撮った写真を代用★
私たちは厚手のフィールド・コートと軽登山靴で、
私の登山靴はマイナス15度、家内のマイナス30度に耐えられる登山靴で、
そして私の帽子は山岳用を愛用し、家内はマフラーを被れば大丈夫という容姿で、出かけたりした。
この時の旅はJALストリーズの旅行会社を利用し、
空港から宿泊地の観光ホテルなどの利便性のある観光バスを活用した。
女満別空港に下り立った私たちは、この旅行会社の指定バスに乗り込み、
わかさぎ釣りなどされている網走湖の情景を車窓から観たりした。
そして予約していた網走港から氷海航行の『おーろら号』は、
風の為に欠航となり、私は落胆をしながら小高い山頂にある『オホーツク流氷館』に行き、
私たちは鑑賞したり、酷寒の寒さを少しばかり体験をしたりした。
この後、網走の郊外の能取岬の途中にある二ツ岩の海岸に接した観光ホテルに2泊した。
この海岸には数日前に流氷は接岸し、海辺には流氷の欠片が幾重にも見えたが、
流氷は遥か海上の沖に去っていた。
やむなく夜のひととき、空を眺めたりしていると、
夜空に満天の星、そして月が煌々と光りおびて、
マイナス15度前後であったが、寒さより確固たるまぎれもない美に見惚(みと)れた。
私は、月冴(さ)えて・・かょ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。
翌日、流氷の接岸を待ちわびたが、無念ながら海上の彼方に遠のき、
予約していたノロッコ号の列車で、網走駅より斜里駅まで乗車し、私は海辺を観たりしたが、
冬晴れの中、浪間は光り、蒼い海となり、
流氷はどこに行ったのょ、と苦笑を重ねたりした。
やがて終点の斜里駅で下車した後、私たちは路線バスを利用して、
知床半島の付け根のウトロまで、ひたすら流氷を求めて行った。
そしてウトロの数キロ前の峠道で、車窓からは海上を流氷の一面となり、圧倒的な流氷の荘厳な光景が観られ、
やがてウトロのバス停で下車した。
その後の私たちは、海岸付近は積雪50センチ前後の中を歩き、
海上の流氷を眺めたりした。
やがて突然に一角が平地となって、『知床ファンタジア』の会場と解ったが、
昼の一時過ぎは閑散としていた。
そして私の悪い癖のひとつであるが、会場の外れで記念として、
流氷を眺めながら、オシッコをしたりした。
その後、海岸付近と思われる雪の中を一時間ばかり歩き回り、一般道に出た時、
道路の補修をされている6人の方たちから、
なんて物好きの夫婦もいるなぁ、こような視線を私たち夫婦は受けたりした・・。
私たち夫婦は厚手の冬ズボンはもとより、厚手のフィールド・コートまで雪まみれとなり、
マイナス10度前後の中、更に微風の吹く寒さを増す中、
父親か母親の熊のように歩き廻っていたのだから、
地元の方たちから苦笑されても致しがたい、と私は納得したりした。
この後は、網走駅から札幌駅まで日中のひととき、念願の特急列車で移動した後、
小樽の市内を散策したりした後、シティホテルに宿泊した。
そして街並みを散策した後、小樽を昼過ぎに別れを告げ、雪祭りの前日の札幌に移動した。
そして網走の外れ、網走駅、斜里駅、小樽駅などの情景を観てきた為か、
札幌駅、周辺の広大さに、改めて実感させられた。
こうした思いも重なり、札幌の街並みを歩き、『さっぽろ雪まつり』の前夜祭を観たした。
この時、どんよりとした曇り空で根雪もあり、家内は寒いというので、
ロシア物産の即売店で、ロシア婦人が被(かぶ)る帽子を買い求め、今日も愛用している。
そして郊外の豊平川を見下ろせるシティホテルに宿泊し、
翌日は快晴の中、 『さっぽろ雪まつり』の初日の情景を観たりした。
やがて付近の自衛隊の基地でも雪まつりに協賛した祭りがあると学び、
私たちは地下鉄の南北線の『自衛隊前』駅で下車して、
自衛隊の貴地は私たちような国民にも、この祭りの時は解放されていた。
そして自衛隊の歴史の歩みなど多々教示させられたが、
何よりも魅了させられたのは、若き10代、20代の溌剌とした自衛隊諸兄諸姉の言動であり、
私は圧倒的に好感した。
やがて、札幌の市内の中心街を散策したりして、その後は、予定通り新千歳空港に行き、帰京した。
この後2002(平成14)年の12月になると、家内と年末年始の旅行のことで話し合ったりした。
私は前年の能登の輪島温泉滞在で、程ほど高価な費用を払ったのに、と苦い思いでがあり、
ためらったりしていた・・。
この当時の私は、定年退職は2004(平成16)年の秋であったので、
現役は残すところ1年10カ月前であった。
こうした時、通販の旅行会社のクラブツーリズムから送付されてくる小冊誌に於いて、
『ゆく年くる年 日本のてっぺんでお正月3日間』と題した、団体観光ツアーがあった。
何かしら大晦日の31日の早朝、羽田空港に集合して、午前10時過ぎに釧路空港に着陸した後、
バスで釧路湿原を通り過ぎ、屈斜路湖、摩周湖の雪の情景を鑑賞した後、紋別に宿泊する。
そして翌日の2003(平成15)年の元旦の朝、稚内を目指して、
オーホック海沿いの道をバスは長らく北上し、そして宗谷岬に午後の3時過ぎ到着した後、
日本の最北端の駅である稚内駅を観たりし、高台にある神社に初詣し、市内のシティホテルに宿泊。
そして翌日の2日、札幌を目指して、日本海を眺めながらバスは南下し、千歳空港から帰京するプランであった。
こうした風変わりな周遊観光コースであり、格安なプランであるので、
二度と企画されないかもしれない、と私は家内に言ったりし、参加したのであった。
大晦日の31日、羽田空港に早朝に集合時間であったので、
私はタクシーを予約して、暗い中、自宅を4時に出て羽田空港まで利用した。
そして、厳冬の屈斜路湖、摩周湖の雪の情景を鑑賞したが、私たちはそれなりの防寒服を着たりしているので、
マイナス10度ぐらいは心も身も順応できていたので、微笑んだりしていた。
少し驚いたのは、紋別に宿泊する前、蟹(カニ)食べ放題の夕食となり、
私は地酒を呑みながら、それなりに奮闘して頂いたが、
やはり蟹は毛蟹を一杯だけ頂き、ゆっくりと熱燗の地酒を呑むのが良い、と感じたりした。
そして、宿泊のホテルの部屋に戻ると、
テレビで紅白歌合戦の番組の中で、中島みゆきさんが『地上の星』を唄っていた・・。
後年、伝説となった黒部の極寒の坑道の中で、唄いあげたシーンであった。
私はファンのひとりであったので、この夜の夢は何故かしら、
みゆきさんが女神のように、私の方を見ながら微笑んでいた。
翌日の元旦の朝、稚内を目指して、オーホック海沿いの道をバスは長らく北上し、
私は冬の海の景観を眺めたりした。
そして宗谷岬に午後の3時過ぎ到着し、付近の海岸沿いを散策した。
この後、日本の最北端の駅である稚内駅を観たりした後は、高台にある神社に初詣をしたりした。
この後、付近の大きなクアハウスで湯船に入ったり休憩をした後、
市内のシティホテルに宿泊した後、
札幌を目指して、粉雪舞い降る中。日本海を眺めながらバスは南下した。
旅の終わりの寸前、郊外の厚く根雪となった羊が丘で散策している時、
札幌の市内の灯りが満天の星のように観える中、
お正月の旅行も終ったね、と私は家内と笑いあったりしていた。
この後、私はまもなく中島みゆきさんが創られた『根雪』の歌が心の中で流れたりした・・。
私は音楽業界のあるレコード会社に勤めていたが、
1998(平成10)年に業界全体の売上げピークは1998(平成10)年で、
デパート業界と同様にかげりが見えたりした。
この前後に各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。
これに伴ない、正社員のリストラが行われ、人事配置転換による他部門の異動、出向、
早期退職優遇制度により退職が行われた。
私が勤めていた会社でも、先輩、同僚、後輩の一部の人が、
第二の人生を選択し、早期退職優遇制度に申請を出され、
私も出向となり、取引会社のひとつの音楽商品のCD、DVDなどを扱う物流会社に勤めた。
私が定年を迎える頃まで、いくたびかリストラが実施され、
長年苦楽を共にした先輩、同僚、後輩たちと別れを告げたりした。
そして、出向の物流会社も何度かリストラで、お世話になった方たちの送別会に出たりした。
私は出向先で、リストラ烈風の中、人員削減の荒波から退避したような立場となり、
心身とも辛い日々を過ごしていた・・。
こうしたことが札幌の街並みを眺め、♪いつか時が経てば 忘れられる あんたなんか・・、
思いだされてきたのである。
この当時の私は、やむなく業界から立ち去った先輩、同僚、後輩の一部の人たちが浮かび、
愛惜感でいっぱいで、胸が熱くなった日々であった。
このように、道東地方のオホーツク海に面した地域の冬の旅路は、
わずか2回ばかりであるが、今でも心の片隅に残っている・・。
今回の旅路は、紋別の観光ホテルに3泊、そしてサロマ湖のリゾートホテル3泊、
その後は網走湖のリゾートホテル1泊とし、7泊8日となった。
こうした中で、紋別港から流氷探検が出来る『カリンコ号』に乗船したりして、
荘厳な流氷を実感したり、念願のサロマ湖畔の情景、
そして旅の終わりとして網走港から氷海航行の『おーろら号』に乗船する予定となっている。
果たして、夢の片隅に残っているオホーツク海上の流氷は・・、
と私は夢想を重ねて、私たち夫婦は旅立つ。
尚、旅行の9日から16日まで、投稿文に関して、
私は《昨年の2月の旅》として題して、昨年のほぼ同時期の旅路を13話ばかり写真を含めて再編集をしますので、
この間、予約セットし公開しますので、お読み頂き、ご笑話を願えれば幸いであります。
そしてコメントに関しては、本日より17日まで閉鎖させて頂きます。
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私たち夫婦は国内旅行が共通趣味で、何かと北海道の旅は心身波長に合い、
幾たびか旅路を重ねてきた。
こうした中で、昨年の晩秋の時、オホーツク海に面した流氷に再会したいね、と話し合ったりした。
そして本年の2月中旬の頃に、オホーツク海に面した街の海岸に流氷が到達する時期に、
旅路の立案をし、旅行代理店に予約した。
私たちは道東地方のオホーツク海に面した地域の冬の旅路は、数えるばかり少ない。
確か14年前の2001(平成13)年の2月に、前年に勤続30年の特別休暇を頂いたので、
これを活用して、私はオーホックの流氷、家内は札幌の雪祭りを目的として、
私たち夫婦は4泊5日で周遊し、冬の北海道を初めて訪れた・・。
★今回、掲載した写真のすべては、この当時の私は、恥ずかしながらカメラがなく、
やむなく、この後に道内の冬の旅路で撮った写真を代用★
私たちは厚手のフィールド・コートと軽登山靴で、
私の登山靴はマイナス15度、家内のマイナス30度に耐えられる登山靴で、
そして私の帽子は山岳用を愛用し、家内はマフラーを被れば大丈夫という容姿で、出かけたりした。
この時の旅はJALストリーズの旅行会社を利用し、
空港から宿泊地の観光ホテルなどの利便性のある観光バスを活用した。
女満別空港に下り立った私たちは、この旅行会社の指定バスに乗り込み、
わかさぎ釣りなどされている網走湖の情景を車窓から観たりした。
そして予約していた網走港から氷海航行の『おーろら号』は、
風の為に欠航となり、私は落胆をしながら小高い山頂にある『オホーツク流氷館』に行き、
私たちは鑑賞したり、酷寒の寒さを少しばかり体験をしたりした。
この後、網走の郊外の能取岬の途中にある二ツ岩の海岸に接した観光ホテルに2泊した。
この海岸には数日前に流氷は接岸し、海辺には流氷の欠片が幾重にも見えたが、
流氷は遥か海上の沖に去っていた。
やむなく夜のひととき、空を眺めたりしていると、
夜空に満天の星、そして月が煌々と光りおびて、
マイナス15度前後であったが、寒さより確固たるまぎれもない美に見惚(みと)れた。
私は、月冴(さ)えて・・かょ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。
翌日、流氷の接岸を待ちわびたが、無念ながら海上の彼方に遠のき、
予約していたノロッコ号の列車で、網走駅より斜里駅まで乗車し、私は海辺を観たりしたが、
冬晴れの中、浪間は光り、蒼い海となり、
流氷はどこに行ったのょ、と苦笑を重ねたりした。
やがて終点の斜里駅で下車した後、私たちは路線バスを利用して、
知床半島の付け根のウトロまで、ひたすら流氷を求めて行った。
そしてウトロの数キロ前の峠道で、車窓からは海上を流氷の一面となり、圧倒的な流氷の荘厳な光景が観られ、
やがてウトロのバス停で下車した。
その後の私たちは、海岸付近は積雪50センチ前後の中を歩き、
海上の流氷を眺めたりした。
やがて突然に一角が平地となって、『知床ファンタジア』の会場と解ったが、
昼の一時過ぎは閑散としていた。
そして私の悪い癖のひとつであるが、会場の外れで記念として、
流氷を眺めながら、オシッコをしたりした。
その後、海岸付近と思われる雪の中を一時間ばかり歩き回り、一般道に出た時、
道路の補修をされている6人の方たちから、
なんて物好きの夫婦もいるなぁ、こような視線を私たち夫婦は受けたりした・・。
私たち夫婦は厚手の冬ズボンはもとより、厚手のフィールド・コートまで雪まみれとなり、
マイナス10度前後の中、更に微風の吹く寒さを増す中、
父親か母親の熊のように歩き廻っていたのだから、
地元の方たちから苦笑されても致しがたい、と私は納得したりした。
この後は、網走駅から札幌駅まで日中のひととき、念願の特急列車で移動した後、
小樽の市内を散策したりした後、シティホテルに宿泊した。
そして街並みを散策した後、小樽を昼過ぎに別れを告げ、雪祭りの前日の札幌に移動した。
そして網走の外れ、網走駅、斜里駅、小樽駅などの情景を観てきた為か、
札幌駅、周辺の広大さに、改めて実感させられた。
こうした思いも重なり、札幌の街並みを歩き、『さっぽろ雪まつり』の前夜祭を観たした。
この時、どんよりとした曇り空で根雪もあり、家内は寒いというので、
ロシア物産の即売店で、ロシア婦人が被(かぶ)る帽子を買い求め、今日も愛用している。
そして郊外の豊平川を見下ろせるシティホテルに宿泊し、
翌日は快晴の中、 『さっぽろ雪まつり』の初日の情景を観たりした。
やがて付近の自衛隊の基地でも雪まつりに協賛した祭りがあると学び、
私たちは地下鉄の南北線の『自衛隊前』駅で下車して、
自衛隊の貴地は私たちような国民にも、この祭りの時は解放されていた。
そして自衛隊の歴史の歩みなど多々教示させられたが、
何よりも魅了させられたのは、若き10代、20代の溌剌とした自衛隊諸兄諸姉の言動であり、
私は圧倒的に好感した。
やがて、札幌の市内の中心街を散策したりして、その後は、予定通り新千歳空港に行き、帰京した。
この後2002(平成14)年の12月になると、家内と年末年始の旅行のことで話し合ったりした。
私は前年の能登の輪島温泉滞在で、程ほど高価な費用を払ったのに、と苦い思いでがあり、
ためらったりしていた・・。
この当時の私は、定年退職は2004(平成16)年の秋であったので、
現役は残すところ1年10カ月前であった。
こうした時、通販の旅行会社のクラブツーリズムから送付されてくる小冊誌に於いて、
『ゆく年くる年 日本のてっぺんでお正月3日間』と題した、団体観光ツアーがあった。
何かしら大晦日の31日の早朝、羽田空港に集合して、午前10時過ぎに釧路空港に着陸した後、
バスで釧路湿原を通り過ぎ、屈斜路湖、摩周湖の雪の情景を鑑賞した後、紋別に宿泊する。
そして翌日の2003(平成15)年の元旦の朝、稚内を目指して、
オーホック海沿いの道をバスは長らく北上し、そして宗谷岬に午後の3時過ぎ到着した後、
日本の最北端の駅である稚内駅を観たりし、高台にある神社に初詣し、市内のシティホテルに宿泊。
そして翌日の2日、札幌を目指して、日本海を眺めながらバスは南下し、千歳空港から帰京するプランであった。
こうした風変わりな周遊観光コースであり、格安なプランであるので、
二度と企画されないかもしれない、と私は家内に言ったりし、参加したのであった。
大晦日の31日、羽田空港に早朝に集合時間であったので、
私はタクシーを予約して、暗い中、自宅を4時に出て羽田空港まで利用した。
そして、厳冬の屈斜路湖、摩周湖の雪の情景を鑑賞したが、私たちはそれなりの防寒服を着たりしているので、
マイナス10度ぐらいは心も身も順応できていたので、微笑んだりしていた。
少し驚いたのは、紋別に宿泊する前、蟹(カニ)食べ放題の夕食となり、
私は地酒を呑みながら、それなりに奮闘して頂いたが、
やはり蟹は毛蟹を一杯だけ頂き、ゆっくりと熱燗の地酒を呑むのが良い、と感じたりした。
そして、宿泊のホテルの部屋に戻ると、
テレビで紅白歌合戦の番組の中で、中島みゆきさんが『地上の星』を唄っていた・・。
後年、伝説となった黒部の極寒の坑道の中で、唄いあげたシーンであった。
私はファンのひとりであったので、この夜の夢は何故かしら、
みゆきさんが女神のように、私の方を見ながら微笑んでいた。
翌日の元旦の朝、稚内を目指して、オーホック海沿いの道をバスは長らく北上し、
私は冬の海の景観を眺めたりした。
そして宗谷岬に午後の3時過ぎ到着し、付近の海岸沿いを散策した。
この後、日本の最北端の駅である稚内駅を観たりした後は、高台にある神社に初詣をしたりした。
この後、付近の大きなクアハウスで湯船に入ったり休憩をした後、
市内のシティホテルに宿泊した後、
札幌を目指して、粉雪舞い降る中。日本海を眺めながらバスは南下した。
旅の終わりの寸前、郊外の厚く根雪となった羊が丘で散策している時、
札幌の市内の灯りが満天の星のように観える中、
お正月の旅行も終ったね、と私は家内と笑いあったりしていた。
この後、私はまもなく中島みゆきさんが創られた『根雪』の歌が心の中で流れたりした・・。
私は音楽業界のあるレコード会社に勤めていたが、
1998(平成10)年に業界全体の売上げピークは1998(平成10)年で、
デパート業界と同様にかげりが見えたりした。
この前後に各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。
これに伴ない、正社員のリストラが行われ、人事配置転換による他部門の異動、出向、
早期退職優遇制度により退職が行われた。
私が勤めていた会社でも、先輩、同僚、後輩の一部の人が、
第二の人生を選択し、早期退職優遇制度に申請を出され、
私も出向となり、取引会社のひとつの音楽商品のCD、DVDなどを扱う物流会社に勤めた。
私が定年を迎える頃まで、いくたびかリストラが実施され、
長年苦楽を共にした先輩、同僚、後輩たちと別れを告げたりした。
そして、出向の物流会社も何度かリストラで、お世話になった方たちの送別会に出たりした。
私は出向先で、リストラ烈風の中、人員削減の荒波から退避したような立場となり、
心身とも辛い日々を過ごしていた・・。
こうしたことが札幌の街並みを眺め、♪いつか時が経てば 忘れられる あんたなんか・・、
思いだされてきたのである。
この当時の私は、やむなく業界から立ち去った先輩、同僚、後輩の一部の人たちが浮かび、
愛惜感でいっぱいで、胸が熱くなった日々であった。
このように、道東地方のオホーツク海に面した地域の冬の旅路は、
わずか2回ばかりであるが、今でも心の片隅に残っている・・。
今回の旅路は、紋別の観光ホテルに3泊、そしてサロマ湖のリゾートホテル3泊、
その後は網走湖のリゾートホテル1泊とし、7泊8日となった。
こうした中で、紋別港から流氷探検が出来る『カリンコ号』に乗船したりして、
荘厳な流氷を実感したり、念願のサロマ湖畔の情景、
そして旅の終わりとして網走港から氷海航行の『おーろら号』に乗船する予定となっている。
果たして、夢の片隅に残っているオホーツク海上の流氷は・・、
と私は夢想を重ねて、私たち夫婦は旅立つ。
尚、旅行の9日から16日まで、投稿文に関して、
私は《昨年の2月の旅》として題して、昨年のほぼ同時期の旅路を13話ばかり写真を含めて再編集をしますので、
この間、予約セットし公開しますので、お読み頂き、ご笑話を願えれば幸いであります。
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