夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

冬の紋別~サロマ湖~網走の遊学記【2015.2.9.~2.16.】序章 流氷は気候の神々のきまぐれ采配

2015-02-17 16:58:45 | 
私は東京の調布市の住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は国内旅行が共通趣味で、何かと北海道の旅は心身波長に合い、
幾たびか旅路を重ねてきた。

こうした中で、昨年の晩秋の時、オホーツク海に面した流氷に再会したいね、と話し合ったりした。
そして本年の2月中旬の頃に、オホーツク海に面した街の海岸に流氷が到達する時期に、
旅路の立案をし、旅行代理店に予約した。

私たちは道東地方のオホーツク海に面した地域の冬の旅路は、数えるばかり少ない。

確か14年前の2001(平成13)年の2月に、前年に勤続30年の特別休暇を頂いたので、
これを活用して、私はオーホックの流氷、家内は札幌の雪祭りを目的として、
私たち夫婦は4泊5日で周遊し、冬の北海道を初めて訪れた・・。
       
       ★掲載した写真は、この当時の私は、恥ずかしながらカメラがなく、
                       やむなく、この後に道内の冬の旅路で撮った写真を代用★

私たちは厚手のフィールド・コートと軽登山靴で、
私の登山靴はマイナス15度、家内のマイナス30度に耐えられる登山靴で、
そして私の帽子は山岳用を愛用し、家内はマフラーを被れば大丈夫という容姿で、出かけたりした。

この時の旅はJALストリーズの旅行会社を利用し、
空港から宿泊地の観光ホテルなどの利便性のある観光バスを活用した。

女満別空港に下り立った私たちは、この旅行会社の指定バスに乗り込み、
わかさぎ釣りなどされている網走湖の情景を車窓から観たりした。

そして予約していた網走港から氷海航行の『おーろら号』は、
風の為に欠航となり、私は落胆をしながら小高い山頂にある『オホーツク流氷館』に行き、
私たちは鑑賞したり、酷寒の寒さを少しばかり体験をしたりした。

この後、網走の郊外の能取岬の途中にある二ツ岩の海岸に接した観光ホテルに2泊した。

この海岸には数日前に流氷は接岸し、海辺には流氷の欠片が幾重にも見えたが、
流氷は遥か海上の沖に去っていた。

やむなく夜のひととき、空を眺めたりしていると、
夜空に満天の星、そして月が煌々と光りおびて、
マイナス15度前後であったが、寒さより確固たるまぎれもない美に見惚(みと)れた。
私は、月冴(さ)えて・・かょ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。


翌日、流氷の接岸を待ちわびたが、無念ながら海上の彼方に遠のき、
予約していたノロッコ号の列車で、網走駅より斜里駅まで乗車し、私は海辺を観たりしたが、
冬晴れの中、浪間は光り、蒼い海となり、
流氷はどこに行ったのょ、と苦笑を重ねたりした。
       

やがて終点の斜里駅で下車した後、私たちは路線バスを利用して、
知床半島の付け根のウトロまで、ひたすら流氷を求めて行った。

そしてウトロの数キロ前の峠道で、車窓からは海上を流氷の一面となり、圧倒的な流氷の荘厳な光景が観られ、
やがてウトロのバス停で下車した。

その後の私たちは、海岸付近は積雪50センチ前後の中を歩き、
海上の流氷を眺めたりした。

やがて突然に一角が平地となって、『知床ファンタジア』の会場と解ったが、
昼の一時過ぎは閑散としていた。

そして私の悪い癖のひとつであるが、会場の外れで記念として、
流氷を眺めながら、オシッコをしたりした。

その後、海岸付近と思われる雪の中を一時間ばかり歩き回り、一般道に出た時、
道路の補修をされている6人の方たちから、
なんて物好きの夫婦もいるなぁ、こような視線を私たち夫婦は受けたりした・・。

私たち夫婦は厚手の冬ズボンはもとより、厚手のフィールド・コートまで雪まみれとなり、
マイナス10度前後の中、更に微風の吹く寒さを増す中、
父親か母親の熊のように歩き廻っていたのだから、
地元の方たちから苦笑されても致しがたい、と私は納得したりした。

この後は、網走駅から札幌駅まで日中のひととき、念願の特急列車で移動した後、
小樽の市内を散策したりした後、シティホテルに宿泊した。
そして街並みを散策した後、小樽を昼過ぎに別れを告げ、雪祭りの前日の札幌に移動した。

そして網走の外れ、網走駅、斜里駅、小樽駅などの情景を観てきた為か、
札幌駅、周辺の広大さに、改めて実感させられた。
こうした思いも重なり、札幌の街並みを歩き、『さっぽろ雪まつり』の前夜祭を観たした旅路であった。
       

この後2002(平成14)年の12月になると、家内と年末年始の旅行のことで話し合ったりした。
私は前年の能登の輪島温泉滞在で、程ほど高価な費用を払ったのに、と苦い思いでがあり、
ためらったりしていた・・。

この当時の私は、定年退職は2004(平成16)年の秋であったので、
現役は残すところ1年10カ月前であった。

こうした時、通販の旅行会社のクラブツーリズムから送付されてくる小冊誌に於いて、
『ゆく年くる年 日本のてっぺんでお正月3日間』と題した、団体観光ツアーがあった。

何かしら大晦日の31日の早朝、羽田空港に集合して、午前10時過ぎに釧路空港に着陸した後、
バスで釧路湿原を通り過ぎ、屈斜路湖、摩周湖の雪の情景を鑑賞した後、紋別に宿泊する。

そして翌日の2003(平成15)年の元旦の朝、稚内を目指して、
オーホック海沿いの道をバスは長らく北上し、そして宗谷岬に午後の3時過ぎ到着した後、
日本の最北端の駅である稚内駅を観たりし、高台にある神社に初詣し、市内のシティホテルに宿泊。

そして翌日の2日、札幌を目指して、日本海を眺めながらバスは南下し、千歳空港から帰京するプランであった。

こうした風変わりな周遊観光コースであり、格安なプランであるので、
二度と企画されないかもしれない、と私は家内に言ったりし、参加したのであった。
       

大晦日の31日、羽田空港に早朝に集合時間であったので、
私はタクシーを予約して、暗い中、自宅を4時に出て羽田空港まで利用した。

そして、厳冬の屈斜路湖、摩周湖の雪の情景を鑑賞したが、私たちはそれなりの防寒服を着たりしているので、
マイナス10度ぐらいは心も身も順応できていたので、微笑んだりしていた。

少し驚いたのは、紋別に宿泊する前、蟹(カニ)食べ放題の夕食となり、
私は地酒を呑みながら、それなりに奮闘して頂いたが、
やはり蟹は毛蟹を一杯だけ頂き、ゆっくりと熱燗の地酒を呑むのが良い、と感じたりした。

そして、宿泊のホテルの部屋に戻ると、
テレビで紅白歌合戦の番組の中で、中島みゆきさんが『地上の星』を唄っていた・・。
後年、伝説となった黒部の極寒の坑道の中で、唄いあげたシーンであった。

私はファンのひとりであったので、この夜の夢は何故かしら、
みゆきさんが女神のように、私の方を見ながら微笑んでいた。


翌日の元旦の朝、稚内を目指して、オーホック海沿いの道をバスは長らく北上し、
私は冬の海の景観を眺めたりした。

そして宗谷岬に午後の3時過ぎ到着し、付近の海岸沿いを散策した。
この後、日本の最北端の駅である稚内駅を観たりした後は、高台にある神社に初詣をしたりした。

この後、付近の大きなクアハウスで湯船に入ったり休憩をした後、
市内のシティホテルに宿泊した後、
札幌を目指して、粉雪舞い降る中。日本海を眺めながらバスは南下し、新千歳空港から帰京した。


このように、道東地方のオホーツク海に面した地域の冬の旅路は、
わずか2回ばかりであるが、今でも心の片隅に残っている・・。
       

今回の旅路は、紋別の観光ホテルに3泊、そしてサロマ湖のリゾートホテル3泊、
その後は網走湖の観光ホテル1泊とし、7泊8日となった。

こうした中で、紋別港から流氷探検が出来る『カリンコ号』に乗船したりして、
荘厳な流氷を実感したり、念願のサロマ湖畔の情景、
そして旅の終わりとして網走港から氷海航行の『おーろら号』に乗船する予定とした、

☆========================================================☆

2月9日(月曜日)

私たち夫婦は羽田空港に行き、全日空の『紋別空港』行きに搭乗手続きを終え、待合所に移動しのは午前10時であった。
しかしながら私は不安を秘めたいた・・。

『羽田空港』と『紋別空港』の飛行機便は、日にたった全日空の一便の往復路だけで、
たとえば私たちが搭乗するは、『羽田空港』は10時30分発、『紋別空港』は12時20分着、
となっている。

もとより『紋別空港』は道内の空港としては、新千歳、旭川、函館、釧路、女満別、帯広よりコンパクトで、
稚内、中標津と同等の空港と私は感じたりしていたので、特に冬の天候異変多い季節に予定通り運航ができるかしら、
と危惧したりしていた。


私たち夫婦はⅠ月中旬に、クラブツーリズムの主催する北見市の郊外に温根湯温泉のある観光ホテルに4泊5日滞在する、
格安のフリープランに参加した・・。

そして私たちが搭乗する航空便は、羽田空港・12時35分・発===>女満別空港・14時20分・着、
日本航空1189便であった。

こうした中で、女満別空港は雪が降っていて着陸が不可能の場合は、羽田空港に引き返しすこともあります、
と付帯条件で、航空券を受け取ったりした。


こうした付帯条件を聞いたりした後、
私たち夫婦は昨年の湯の川温泉の旅路の出発日の時を思い重ねたりした・・。

航空券を受け取る時、何かしら前日の函館空港の風雪により、欠航便、遅延便の影響もあり、
羽田空港・発10時35分で函館空港・着11時55分の全日空853便は、
3つのフライトプランを提示されたりした。

①函館空港・着陸が不可能で、羽田空港に引き返し、改めて函館空港行きの航空便を検討します。

②やむなく新千歳空港に着陸して、その後は何らかの方法で函館市に行きます。

③予定通り、函館空港・着陸します。

この3つのフライトプランの説明を受けた私たち夫婦は、
このようなことは初めてだよねぇ、と私は戸惑いながら家内と話し合ったりした・・。

やがて予定時に航空機に搭乗できて、羽田空港を離陸できたが、
機内でも、3つのフライトプランが客室乗務員の方から報じられ、
この中のひとつの羽田空港に引き返した場合、
旅行気分の高揚感は吹き飛ばされ、余りにも惨(みじ)めだよなぁ、と私は不安が増したりした。

その後、函館空港に予定着陸時間の20分前頃に、
機長、そして客室乗務員の方から、
予定通り函館空港に着陸します・・お客さまには大変ご心配をお掛けしました、
と告知されて、私を含めて周囲の方たちも安堵の表情と言葉を重ねたりした。

やがて白い大地が観えて、函館空港に着陸態勢となった。

          
            この後、食事処の窓辺から観える空港の滑走路、小雪降る中で風が伴い、小雪は横殴り舞っていた・・。

          

このような体験をしてきた私たち夫婦は、今回の場合でも多少し遅れても女満別空港に着陸できるょ、
と私たちは言葉を交わしたりした。

やがて予定時に航空機に搭乗できて、羽田空港を30分ぐらい遅れて(私は寝ていて正確には不明)離陸できた。
40分過ぎた頃、機長から、女満別空港は雪が降っていて着陸が不可能の場合は、羽田空港に引き返し場合もあります、
と機内の客員に報じられたりした・・。

そして下北半島と北海道の南端が視(み)えた頃、
機長から、女満別空港の除雪はしていますが、滑走路の路面が滑りやすい状況でありますので、
残念ながら羽田空港に引き返します、と機内の客員に報じられたりした・・。

やがて機内の数多くのスクリーンには、本州の上部の下北半島から三陸海岸、そして関東地域の航路が映し出されて、
私たちが登場している航空機がユータンして、羽田空港を目指している白線が明示されたりした。

私たち夫婦はスクリーンを視(み)ながら、
『こうした出発地の羽田空港に引き返すこともあるんだぁ・・
スゴロクみたいだよねぇ・・』
と私は落胆を秘めながら、家内に小声で言ったりした。


その後、私たちが搭乗している航空機が、羽田空港に着陸した。

やがて到着ロビーの片隅に、クラブツーリズムの担当者が待機して下さり、
今回の温根湯温泉4泊5日のフリープランに参加した20数名の私たちに、
旅行の中止、そして旅費の全額を返金の連絡を受けたりした。

私たち夫婦は今回の参加されたメンバーを始めて知ったりしたが、
家内は、この中のひとりの60歳前後のご婦人と、
『飛行機が引き返して、旅行が中止になったは、初めてですわ・・』
このような意味合いの言葉を交わして、お互いに微苦笑したりしていた。

この後、私たち夫婦は食事処で、遅い昼食した。
『旅行の中止・・何かしら・・力が抜けてしまうよねぇ
今回は太平洋側の下北半島と羽田空港・・無料ご招待の往復の遊覧飛行のようになってしまったねぇ』
と私は家内に言ったりした。

やがて、今回の旅路も宿泊先に大きな旅行ケースを宅配便で送付したので、
宿泊先にお願いして、旅行ケースを到着払いで送付依頼をしょう、
と私たちは話し合ったりした。
            

このような苦い体験をしたりしたので、今回の『紋別空港』は何とか着陸して欲しい、と念願したりした。


幸いにも機長、客室乗務員の行いが良かったらしく、私たちが搭乗した全日空の飛行機は、
『紋別空港』に着陸体制し、やがて予定時に着陸した。

そして到着ロビーの混雑する中で、空港から紋別市内まで無料送迎バスを見つけて、
私たちは乗車した。

この無料送迎バスは、飛行機の到着に合わせて、『海洋交流館』にあるガリンコ乗場、有力な宿泊『プリンスホテル』、
私たちが宿泊する『セントラルホテル』などを利便性のある運行路と解ったりした。

やがて車窓からは海辺が視(み)えたりしたが、流氷はなく蒼い海上が広がっていた・・。

こうした中で、同乗していた女性グループのひとりが、バスのドライバーさんに、
『流氷・・全然視えませんが、明日ごろに見ることができますか?』
と訊(たず)ねられたりした。

『流氷は数週間前に観えましたが、沖に向い強い風で、20キロ先の海上に流れまして・・』
とバスのドライバーさんは、苦慮しながら大きな声で返答したりしていた。

私は流氷は気候の神々のきまぐれ采配に寄り、
時には沖合から陸地に向い、烈風が吹けば、見ることはできる、と思いながらも、
やはりオホーツク海上の流氷を視たく、この紋別に滞在する3日間で、4回ばかりガリンコ号の乗船予約をしたりしていた。

やがて市内にバスは入り、私たちは宿泊する『セントラルホテル』前で下車した。

そしてフロントでチェックインした後、4日前に自宅から宅配便で送付した大きな旅行ケースを受け取り、
私たち夫婦が指定された部屋は、最上階の客室だった為か、海上の視界に恵まれた・・。

過ぎし日に家内は、紋別の市内の『プリンスホテル』か『セントラルホテル』と懸案した結果、
海上の景観が良いと思えて選定してきた上、部屋も程ほど広く、私たちは思ったよりもよかったねぇ、と微笑んだりした。
          


この後、私たちは『海洋交流館』にあるガリンコ号の『サンセット・クルーズ』に乗船する為に、
ホテル前で乗車できる路線バスに乗り、向かった。


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《昨年の2月の旅路》定山渓温泉滞在記 最終章 旅の終わりは豊平峡温泉 

2015-02-17 13:36:20 | 旅のあれこれ
       最終章 旅の終わりは豊平峡温泉
2月14日
私たち夫婦は、定山渓温泉地の片隅にある『定山渓グランドホテル端苑』に
2日の夜より15日の朝まで13泊宿泊滞在しているが、
いよいよ明日の15日の朝に、この観光ホテルに別れを告げる為に、
家内はこの日の14日の日中は荷物整理としていた。

今回、私たちは旅行用のスーツケースは二つ用意して、
ひとつの大きなアルミ製のスーツケースは、宅配便を利用して往復させ、
程ほどの大きさの強固なナイロン地のスーツケースは、登山靴などを収納させたのを私が牽(ひ)いて、
自宅より往還させる予定で出発してきた。

いずれにしても昨年の石垣島にこの時節に9泊10日で東京の5月のような暖かい滞在と違い、
雪のある地であるので防寒に関する衣服が多いので、ふたつのスーツケースとなってしまった。

こうした衣服の整理は、我が家は家内の専業であるので、
この日の私は館内で買い求めてきた本、雑誌を読んだりしていた。
部屋の窓際の椅子に座ったり、ときにはベットに横たわりながら、
或いはロビーの片隅で読んだりしていた。
          

こうした時、今回の旅路を思い重ねたりした。
2日の夜にチェックインした後、3日は近くの『豊平峡温泉』の湯処に予期した以上に満喫した。
4日は、私が念願してきた『銭函』駅に訪れたりしてきた。

5日には定山渓の温泉街を散策し、6日には『さっぽろ雪まつり』を鑑賞したりしてきた。
そして7日の夜には、滞在している観光ホテルから歩いて10分足らずの『定山渓神社』で
『雪灯路(ゆきとうろ)』を観たりした。

8日は『北海道 開拓の村』に遠征したり、
9日は休養日として本を寄りだり、昼過ぎに露天風呂に入ったりしていた。

10日は何かしら路線バスで10余分にある小金湯温泉地の『湯元 小金湯』に行ったり、
11日は『豊平峡温泉』のオプションのスノーシューに、
私たち夫婦は生まれて初めて体験した後、この湯処で貸し個室をお借りして、
湯船の大浴場、露天風呂に満足を実感されられたり、食事処でインドカリーとナンを賞味したりした。

12日は札幌市の中心街を散策したり、
13日には小金湯温泉地のもうひとつの湯処の『まつの湯』に行ったりした。

このようなことをロビーの渓谷を視える所で、思い馳せたりした。
          
過ぎぎ去ってしまえば実に早いが、私たちは出来る限り日に一箇所を遊学してきたので、
それなりに思いが深く残影している・・。

2月15日
朝食後、大きなスーツケースを宅配便に委託する為に、ロビーの片隅の専用受付所で依頼し、
やがてチェックアウトとした後、私たちは路線バスで『豊平峡温泉』に向った。
          
私たち夫婦は3日に初めて訪れ、予期した以上に満喫し、
11日にはこの館のオプションのスノーシューに参加した後、湯に入ったりした後、
食事処でインドカリーとナンを賞味して、瞬時に好感を増したりした。

受け付けて、いつものように貸し部屋をお借りして、旅の最後として4時間とし、
圧倒的に魅せられた大浴場、そして露天風呂に入浴した後、
食事処で特有な味覚のあるインドカリーとナンを頂だいたりした。

そして部屋に戻り、窓から前景を眺めたりした。
          
その後、家内が再び入浴に行っている間、畳み状のオンドルのような暖かい部屋で、
横たわりながら本を読んだりした。

やがて家内が戻ると、支配人らしいお方から、源泉で作った石鹸、頂いたわ、
と家内は言いながら、私に手渡した。
          

お客とサービスの度合いが難しい中、この間の管理スタッフ、オプションの指導員の方でも、
お友達と違う程ほどの親睦感、そして距離感に私たち夫婦は好感してきた上、
思いのある品を頂戴し、良き記念品を頂いたねぇ、と私は家内に言ったりした。

やがて私たちは、予約していた『かっぱライナー号』の大型バスの出発時が近づいてきた。
この『かっぱライナー号』は豊平峡温泉、定山渓温泉から札幌駅までの直行便である。

やがて私たちは直行便に乗車して、名残り惜しい『豊平峡温泉』に別れを告げた。
          
そして札幌駅前に到着後、私たちはJR千歳線に乗車して、『新千歳空港』で下車した。

やがて私たちは出発ロビーで、19時30分発の航空便を待機していたが、
東京の羽田空港が過日の大雪の影響で欠航にあったし、もとより新千歳空港も影響があり、
出発ロビーはキャンセル待ちの方たちが長蛇の列で混雑していた。

結果として私たちが機内に乗席できて、離陸できたのは1時間半遅れの21時であった。
やがて羽田空港に着陸し、私たちが預けていたスーツケースを受け取ったのは、
23時過ぎてあった。
そして私たちは東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の自宅の最寄駅に着いたのは、
深夜の12時過ぎであった。

余談であるが、私たちは最寄駅でタクシーを乗ろうと思っていたが、
平素はタクシーが客待ちで数多く並んでいるが、私たちのようにタクシー待ちの長蛇の列だったので、
やむなく積雪残る夜道を歩いて帰宅できたのは、深夜の12時半であった。

そして門扉から玄関先、そして庭の大半は残雪があり、せめて門扉から玄関まで雪かきをした。
私の住む地域は冬の時節は、天上の気候の神々のきまぐれな采配により、わずか5センチ前後は降る時もあり、
何かと雪舞い降る情景にみせられて、私たちは北国の旅路をしてきたが、
家に帰ってきて早々、深夜に雪かきかょ、と私は家内に微苦笑しながら言ったりした。
                                  《連載、終了》
★コメントに関しては、自宅不在に伴い、17日まで閉鎖させて頂きます。

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《昨年の2月の旅路》定山渓温泉滞在記 第11章 札幌の中心街を散策すれば 

2015-02-17 08:07:38 | 旅のあれこれ
       第11章 札幌の中心街を散策すれば

2月12日
私たち夫婦は、定山渓温泉地の片隅にある『定山渓グランドホテル端苑』に
2日の夜より15日の朝まで宿泊滞在しているが、
私は10日の夕暮れ時から、定山渓温泉地に出ると、幾つかのコンビニに寄ったりした。

私が1970年(昭和45年)の4月から購読している総合月刊誌の『文藝春秋』が、
確か10日発売であり、最新号の3月特別号が雑誌コーナーに置いてないかしら、
と思い寄ったりしてきたが、やはりこの地にはなく、落胆してきた。
             

その上、過日に館内のロビーにある読売新聞の『書評』をたまたま読んでいた時、
山田太一・著の『月日の残像』(新潮社)の作品をノンフィクションライターの渡辺一史さんが書評され、
私は精読してしまった・・。

この後、私はノートに転記したりした・・

《 新たな自分に出会う

なんと深い余韻を残すエッセイ集だろう。

山田太一。日本を代表する脚本家であり、テレビドラマ、戯曲、そして小説にも数多くの傑作をもつ。
私は高校1年のとき、ドラマ「ふぞろいの林檎りんごたち」を観みて以来、
すっかり重症の“太一マニア”になってしまった者だが、
本書では、これまでのどんなドラマや小説でも味わえなかった、
エッセイ集ならではの円熟した言葉の妙味、文体の妙技に酔いしれた。

今年80歳になる山田さんだが、70歳の手前で、体の芯に大きな変化が来ているのを感じたという(エッセイ「減退」より)。
性欲が減退し、そっちに針が振れなくなった。
つまり、どうでもよくなってしまったのである。
しかし、「底流にいつも性欲があった世界」を離れると、街も人も自然も、以前とは違って見える。
恋愛ばかり美しく唄うたい上げる歌手が、いかに多くの現実を無視しているかが見える。
「別の世界へ足を踏み入れたぞ、という小さな興奮があった」

収録エッセイは35編。私小説を思わせるような幼~青年期の思い出や、
秀逸な寺山修司論あり、哀切な木下恵介論ありと、読みどころ満載だが、
とりわけ自らの「老い」に対するやわらかな視線と深い洞察は、
現在40代である私自身の行く末を照らす灯あかりのようにも思えた。
「この先の老いた自分からはなにが出てくるか分らないぞと思う」と山田さんは書く。

老いとは、「自分には憶おぼえのない自分に出会う」ことであり、
「私が私ではなくなって行く兆候」でもある。怖い――と常識的には思うようなことだが、
「なにか、『妙に』心をなごませるものがあるようなのだ」(エッセイ「この先の楽しみ」)

未曽有の高齢化に突入してゆく今の日本と、揺れ動く人々の心を見つめる書き手として、
山田さんほどかっこうの書き手はいまい。
いや、本書はまだほんの序の口であり、これからもっと凄すごいものが出てくるかもしれない。
そんな予感と期待を抱かせる山田太一、80歳の新境地。・・》
             
このした深い書評の寄稿文を読んだりすると、ぜひ購読したい、と私は思ったりしてきた・・。

こうした心情を秘めてきた私は、札幌の中心街に行き、本屋で買い求めたく、
幸いに家内は外湯の湯処で入浴した後にトレーナーがあると楽だわ、
と言ったりしていたので、私は家内を誘って、札幌の中心街に向った。

私たち夫婦は宿泊している近くの『定山渓車庫前』のバス停より、路線バスに乗り、      
          
地下鉄の南北線の『真駒内』駅に向かい、その後『真駒内』駅から『大通』駅に着いたが、
地上に出ると、やはり札幌市の中心街は都会だなぁ、と感じたりした。

そして昨日まで多くの市民、観光客を楽しませた『さっぽろ雪まつり』も終わり、
雪まつりの会場の撤去作業が行われたりしていた。

こうした中、街の歩道を歩いたりすると、可愛らしい雪だるまにめぐり逢い、
記念に私は撮ったりした。
          

やがて私たちは、『サッポロファクトリー』に向った。
一部の歩道は根雪のような中を歩いたり、それぞれシティホテルの前は小奇麗に雪かきがされていて、
思わず微笑んだりした。

やがて『サッポロファクトリー』に入ると、懐かしい状景を観たりした。
          

確か2008年の12月の下旬の時に、家内が『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観たく、
繁華街のすすきの4丁目より200m前後にある『ススキノ グリーンホテル 2』に4泊5日し、
この間にすすきの周辺、南三条を歩き廻ったり、もとより大通公園で『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観たり、
或いは『三越』に寄ったり、地下街の商店街を歩いたりした。

そして『サッポロファクトー』に行ったりし、中島公園にある『北海道立文学館』に訪れたりした。

この時の『サッポロファクトー』の鮮明に思いは、この前景の煙突にサンタクロースが登っている情景で、
私は微笑みながら、創案された方の感性に絶賛したりしていた。

こうした思いのある私だったが、あれから6年は過ぎてしまったか、と歳月が余りにも早く過ぎてしまった・・
感慨深く感じながら、あの頃は私は若かった、と69歳の私は微苦笑したりした。


この後、私たちは館内の本屋に入り、私は総合月刊雑誌の『文藝春秋』(3月特別号)を手に取った後、
単行本のコーナで山田太一・著の『月日の残像』(新潮社)を探し求めたりした。

そして見つからずレジの近くの山積みになっているコーナーで、
偶然に野坂幸弘・監修『ふるさと文学さんぽ 北海道』(大和書房)にめぐり逢い、
私は瞬時に手に取り、微笑んだりした。
             

そして三冊の本をレジで精算して頂いている時、女性の店員さんに、
『アマゾンなどのネット販売ですと・・こうした本に無知のままだったと思われ、
やはり本屋に寄りますと、偶然に出逢える本もありますよねぇ・・
ですから、私はネット販売で買い求めたりしません・・』
と私は明るく言ったりしすると、若き女性の店員さんは微笑んだりした。
          

この後、開放されているパン屋さんに寄り、店内は買い求めた方が軽食できる喫茶風になっている処で、
私たちは好みの菓子パンを買い求めて、コーヒーを飲みながら頂いたりした。

やがて家内は衣料品のフロアーで、トレーナーを買い求めに行っている間、
私は窓辺に近いベンチに座り、前景を眺めたりした。
          
そして購入した野坂幸弘・監修『ふるさと文学さんぽ 北海道』(大和書房)を読みはじめたりした・・。


やがて家内と合流した後、一度ぐらいは『旧本庁舎』を見よう、と私は家内を誘ったりした。
私たちは幾たびか札幌市に訪れていたが、何となく避けてきたのが『北海道庁旧本庁舎』であった。

そして中心街を歩くと、まもなく前景が観えた・・。
          
やがて正門から入門すると、雪だるまが歓迎して下さり、私たちは微笑んだりした。
          
そして赤レンガの荘厳な建物に、歴史を感じると襟を正して、私たちは入ったりした。
          

そして庁舎の2階にある各室を拝見したりした。
『北方領土』、『樺太関係』、『北海道の歴史ギャラリー』など2時間ぐらい視たりした。
          
         
やがて私たちは3時過ぎに札幌の中心街より、郊外にある定山渓に帰路した。
                                         《つづく》
★コメントに関しては、自宅不在に伴い、17日まで閉鎖させて頂きます。

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