私は東京の調布市の住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は国内旅行が共通趣味で、何かと北海道の旅は心身波長に合い、
幾たびか旅路を重ねてきた。
こうした中で、昨年の晩秋の時、オホーツク海に面した流氷に再会したいね、と話し合ったりした。
そして本年の2月中旬の頃に、オホーツク海に面した街の海岸に流氷が到達する時期に、
旅路の立案をし、旅行代理店に予約した。
私たちは道東地方のオホーツク海に面した地域の冬の旅路は、数えるばかり少ない。
確か14年前の2001(平成13)年の2月に、前年に勤続30年の特別休暇を頂いたので、
これを活用して、私はオーホックの流氷、家内は札幌の雪祭りを目的として、
私たち夫婦は4泊5日で周遊し、冬の北海道を初めて訪れた・・。
★掲載した写真は、この当時の私は、恥ずかしながらカメラがなく、
やむなく、この後に道内の冬の旅路で撮った写真を代用★
私たちは厚手のフィールド・コートと軽登山靴で、
私の登山靴はマイナス15度、家内のマイナス30度に耐えられる登山靴で、
そして私の帽子は山岳用を愛用し、家内はマフラーを被れば大丈夫という容姿で、出かけたりした。
この時の旅はJALストリーズの旅行会社を利用し、
空港から宿泊地の観光ホテルなどの利便性のある観光バスを活用した。
女満別空港に下り立った私たちは、この旅行会社の指定バスに乗り込み、
わかさぎ釣りなどされている網走湖の情景を車窓から観たりした。
そして予約していた網走港から氷海航行の『おーろら号』は、
風の為に欠航となり、私は落胆をしながら小高い山頂にある『オホーツク流氷館』に行き、
私たちは鑑賞したり、酷寒の寒さを少しばかり体験をしたりした。
この後、網走の郊外の能取岬の途中にある二ツ岩の海岸に接した観光ホテルに2泊した。
この海岸には数日前に流氷は接岸し、海辺には流氷の欠片が幾重にも見えたが、
流氷は遥か海上の沖に去っていた。
やむなく夜のひととき、空を眺めたりしていると、
夜空に満天の星、そして月が煌々と光りおびて、
マイナス15度前後であったが、寒さより確固たるまぎれもない美に見惚(みと)れた。
私は、月冴(さ)えて・・かょ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。
翌日、流氷の接岸を待ちわびたが、無念ながら海上の彼方に遠のき、
予約していたノロッコ号の列車で、網走駅より斜里駅まで乗車し、私は海辺を観たりしたが、
冬晴れの中、浪間は光り、蒼い海となり、
流氷はどこに行ったのょ、と苦笑を重ねたりした。
やがて終点の斜里駅で下車した後、私たちは路線バスを利用して、
知床半島の付け根のウトロまで、ひたすら流氷を求めて行った。
そしてウトロの数キロ前の峠道で、車窓からは海上を流氷の一面となり、圧倒的な流氷の荘厳な光景が観られ、
やがてウトロのバス停で下車した。
その後の私たちは、海岸付近は積雪50センチ前後の中を歩き、
海上の流氷を眺めたりした。
やがて突然に一角が平地となって、『知床ファンタジア』の会場と解ったが、
昼の一時過ぎは閑散としていた。
そして私の悪い癖のひとつであるが、会場の外れで記念として、
流氷を眺めながら、オシッコをしたりした。
その後、海岸付近と思われる雪の中を一時間ばかり歩き回り、一般道に出た時、
道路の補修をされている6人の方たちから、
なんて物好きの夫婦もいるなぁ、こような視線を私たち夫婦は受けたりした・・。
私たち夫婦は厚手の冬ズボンはもとより、厚手のフィールド・コートまで雪まみれとなり、
マイナス10度前後の中、更に微風の吹く寒さを増す中、
父親か母親の熊のように歩き廻っていたのだから、
地元の方たちから苦笑されても致しがたい、と私は納得したりした。
この後は、網走駅から札幌駅まで日中のひととき、念願の特急列車で移動した後、
小樽の市内を散策したりした後、シティホテルに宿泊した。
そして街並みを散策した後、小樽を昼過ぎに別れを告げ、雪祭りの前日の札幌に移動した。
そして網走の外れ、網走駅、斜里駅、小樽駅などの情景を観てきた為か、
札幌駅、周辺の広大さに、改めて実感させられた。
こうした思いも重なり、札幌の街並みを歩き、『さっぽろ雪まつり』の前夜祭を観たした旅路であった。
この後2002(平成14)年の12月になると、家内と年末年始の旅行のことで話し合ったりした。
私は前年の能登の輪島温泉滞在で、程ほど高価な費用を払ったのに、と苦い思いでがあり、
ためらったりしていた・・。
この当時の私は、定年退職は2004(平成16)年の秋であったので、
現役は残すところ1年10カ月前であった。
こうした時、通販の旅行会社のクラブツーリズムから送付されてくる小冊誌に於いて、
『ゆく年くる年 日本のてっぺんでお正月3日間』と題した、団体観光ツアーがあった。
何かしら大晦日の31日の早朝、羽田空港に集合して、午前10時過ぎに釧路空港に着陸した後、
バスで釧路湿原を通り過ぎ、屈斜路湖、摩周湖の雪の情景を鑑賞した後、紋別に宿泊する。
そして翌日の2003(平成15)年の元旦の朝、稚内を目指して、
オーホック海沿いの道をバスは長らく北上し、そして宗谷岬に午後の3時過ぎ到着した後、
日本の最北端の駅である稚内駅を観たりし、高台にある神社に初詣し、市内のシティホテルに宿泊。
そして翌日の2日、札幌を目指して、日本海を眺めながらバスは南下し、千歳空港から帰京するプランであった。
こうした風変わりな周遊観光コースであり、格安なプランであるので、
二度と企画されないかもしれない、と私は家内に言ったりし、参加したのであった。
大晦日の31日、羽田空港に早朝に集合時間であったので、
私はタクシーを予約して、暗い中、自宅を4時に出て羽田空港まで利用した。
そして、厳冬の屈斜路湖、摩周湖の雪の情景を鑑賞したが、私たちはそれなりの防寒服を着たりしているので、
マイナス10度ぐらいは心も身も順応できていたので、微笑んだりしていた。
少し驚いたのは、紋別に宿泊する前、蟹(カニ)食べ放題の夕食となり、
私は地酒を呑みながら、それなりに奮闘して頂いたが、
やはり蟹は毛蟹を一杯だけ頂き、ゆっくりと熱燗の地酒を呑むのが良い、と感じたりした。
そして、宿泊のホテルの部屋に戻ると、
テレビで紅白歌合戦の番組の中で、中島みゆきさんが『地上の星』を唄っていた・・。
後年、伝説となった黒部の極寒の坑道の中で、唄いあげたシーンであった。
私はファンのひとりであったので、この夜の夢は何故かしら、
みゆきさんが女神のように、私の方を見ながら微笑んでいた。
翌日の元旦の朝、稚内を目指して、オーホック海沿いの道をバスは長らく北上し、
私は冬の海の景観を眺めたりした。
そして宗谷岬に午後の3時過ぎ到着し、付近の海岸沿いを散策した。
この後、日本の最北端の駅である稚内駅を観たりした後は、高台にある神社に初詣をしたりした。
この後、付近の大きなクアハウスで湯船に入ったり休憩をした後、
市内のシティホテルに宿泊した後、
札幌を目指して、粉雪舞い降る中。日本海を眺めながらバスは南下し、新千歳空港から帰京した。
このように、道東地方のオホーツク海に面した地域の冬の旅路は、
わずか2回ばかりであるが、今でも心の片隅に残っている・・。
今回の旅路は、紋別の観光ホテルに3泊、そしてサロマ湖のリゾートホテル3泊、
その後は網走湖の観光ホテル1泊とし、7泊8日となった。
こうした中で、紋別港から流氷探検が出来る『カリンコ号』に乗船したりして、
荘厳な流氷を実感したり、念願のサロマ湖畔の情景、
そして旅の終わりとして網走港から氷海航行の『おーろら号』に乗船する予定とした、
☆========================================================☆
2月9日(月曜日)
私たち夫婦は羽田空港に行き、全日空の『紋別空港』行きに搭乗手続きを終え、待合所に移動しのは午前10時であった。
しかしながら私は不安を秘めたいた・・。
『羽田空港』と『紋別空港』の飛行機便は、日にたった全日空の一便の往復路だけで、
たとえば私たちが搭乗するは、『羽田空港』は10時30分発、『紋別空港』は12時20分着、
となっている。
もとより『紋別空港』は道内の空港としては、新千歳、旭川、函館、釧路、女満別、帯広よりコンパクトで、
稚内、中標津と同等の空港と私は感じたりしていたので、特に冬の天候異変多い季節に予定通り運航ができるかしら、
と危惧したりしていた。
私たち夫婦はⅠ月中旬に、クラブツーリズムの主催する北見市の郊外に温根湯温泉のある観光ホテルに4泊5日滞在する、
格安のフリープランに参加した・・。
そして私たちが搭乗する航空便は、羽田空港・12時35分・発===>女満別空港・14時20分・着、
日本航空1189便であった。
こうした中で、女満別空港は雪が降っていて着陸が不可能の場合は、羽田空港に引き返しすこともあります、
と付帯条件で、航空券を受け取ったりした。
こうした付帯条件を聞いたりした後、
私たち夫婦は昨年の湯の川温泉の旅路の出発日の時を思い重ねたりした・・。
航空券を受け取る時、何かしら前日の函館空港の風雪により、欠航便、遅延便の影響もあり、
羽田空港・発10時35分で函館空港・着11時55分の全日空853便は、
3つのフライトプランを提示されたりした。
①函館空港・着陸が不可能で、羽田空港に引き返し、改めて函館空港行きの航空便を検討します。
②やむなく新千歳空港に着陸して、その後は何らかの方法で函館市に行きます。
③予定通り、函館空港・着陸します。
この3つのフライトプランの説明を受けた私たち夫婦は、
このようなことは初めてだよねぇ、と私は戸惑いながら家内と話し合ったりした・・。
やがて予定時に航空機に搭乗できて、羽田空港を離陸できたが、
機内でも、3つのフライトプランが客室乗務員の方から報じられ、
この中のひとつの羽田空港に引き返した場合、
旅行気分の高揚感は吹き飛ばされ、余りにも惨(みじ)めだよなぁ、と私は不安が増したりした。
その後、函館空港に予定着陸時間の20分前頃に、
機長、そして客室乗務員の方から、
予定通り函館空港に着陸します・・お客さまには大変ご心配をお掛けしました、
と告知されて、私を含めて周囲の方たちも安堵の表情と言葉を重ねたりした。
やがて白い大地が観えて、函館空港に着陸態勢となった。
この後、食事処の窓辺から観える空港の滑走路、小雪降る中で風が伴い、小雪は横殴り舞っていた・・。
このような体験をしてきた私たち夫婦は、今回の場合でも多少し遅れても女満別空港に着陸できるょ、
と私たちは言葉を交わしたりした。
やがて予定時に航空機に搭乗できて、羽田空港を30分ぐらい遅れて(私は寝ていて正確には不明)離陸できた。
40分過ぎた頃、機長から、女満別空港は雪が降っていて着陸が不可能の場合は、羽田空港に引き返し場合もあります、
と機内の客員に報じられたりした・・。
そして下北半島と北海道の南端が視(み)えた頃、
機長から、女満別空港の除雪はしていますが、滑走路の路面が滑りやすい状況でありますので、
残念ながら羽田空港に引き返します、と機内の客員に報じられたりした・・。
やがて機内の数多くのスクリーンには、本州の上部の下北半島から三陸海岸、そして関東地域の航路が映し出されて、
私たちが登場している航空機がユータンして、羽田空港を目指している白線が明示されたりした。
私たち夫婦はスクリーンを視(み)ながら、
『こうした出発地の羽田空港に引き返すこともあるんだぁ・・
スゴロクみたいだよねぇ・・』
と私は落胆を秘めながら、家内に小声で言ったりした。
その後、私たちが搭乗している航空機が、羽田空港に着陸した。
やがて到着ロビーの片隅に、クラブツーリズムの担当者が待機して下さり、
今回の温根湯温泉4泊5日のフリープランに参加した20数名の私たちに、
旅行の中止、そして旅費の全額を返金の連絡を受けたりした。
私たち夫婦は今回の参加されたメンバーを始めて知ったりしたが、
家内は、この中のひとりの60歳前後のご婦人と、
『飛行機が引き返して、旅行が中止になったは、初めてですわ・・』
このような意味合いの言葉を交わして、お互いに微苦笑したりしていた。
この後、私たち夫婦は食事処で、遅い昼食した。
『旅行の中止・・何かしら・・力が抜けてしまうよねぇ
今回は太平洋側の下北半島と羽田空港・・無料ご招待の往復の遊覧飛行のようになってしまったねぇ』
と私は家内に言ったりした。
やがて、今回の旅路も宿泊先に大きな旅行ケースを宅配便で送付したので、
宿泊先にお願いして、旅行ケースを到着払いで送付依頼をしょう、
と私たちは話し合ったりした。
このような苦い体験をしたりしたので、今回の『紋別空港』は何とか着陸して欲しい、と念願したりした。
幸いにも機長、客室乗務員の行いが良かったらしく、私たちが搭乗した全日空の飛行機は、
『紋別空港』に着陸体制し、やがて予定時に着陸した。
そして到着ロビーの混雑する中で、空港から紋別市内まで無料送迎バスを見つけて、
私たちは乗車した。
この無料送迎バスは、飛行機の到着に合わせて、『海洋交流館』にあるガリンコ乗場、有力な宿泊『プリンスホテル』、
私たちが宿泊する『セントラルホテル』などを利便性のある運行路と解ったりした。
やがて車窓からは海辺が視(み)えたりしたが、流氷はなく蒼い海上が広がっていた・・。
こうした中で、同乗していた女性グループのひとりが、バスのドライバーさんに、
『流氷・・全然視えませんが、明日ごろに見ることができますか?』
と訊(たず)ねられたりした。
『流氷は数週間前に観えましたが、沖に向い強い風で、20キロ先の海上に流れまして・・』
とバスのドライバーさんは、苦慮しながら大きな声で返答したりしていた。
私は流氷は気候の神々のきまぐれ采配に寄り、
時には沖合から陸地に向い、烈風が吹けば、見ることはできる、と思いながらも、
やはりオホーツク海上の流氷を視たく、この紋別に滞在する3日間で、4回ばかりガリンコ号の乗船予約をしたりしていた。
やがて市内にバスは入り、私たちは宿泊する『セントラルホテル』前で下車した。
そしてフロントでチェックインした後、4日前に自宅から宅配便で送付した大きな旅行ケースを受け取り、
私たち夫婦が指定された部屋は、最上階の客室だった為か、海上の視界に恵まれた・・。
過ぎし日に家内は、紋別の市内の『プリンスホテル』か『セントラルホテル』と懸案した結果、
海上の景観が良いと思えて選定してきた上、部屋も程ほど広く、私たちは思ったよりもよかったねぇ、と微笑んだりした。
この後、私たちは『海洋交流館』にあるガリンコ号の『サンセット・クルーズ』に乗船する為に、
ホテル前で乗車できる路線バスに乗り、向かった。
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私たち夫婦は国内旅行が共通趣味で、何かと北海道の旅は心身波長に合い、
幾たびか旅路を重ねてきた。
こうした中で、昨年の晩秋の時、オホーツク海に面した流氷に再会したいね、と話し合ったりした。
そして本年の2月中旬の頃に、オホーツク海に面した街の海岸に流氷が到達する時期に、
旅路の立案をし、旅行代理店に予約した。
私たちは道東地方のオホーツク海に面した地域の冬の旅路は、数えるばかり少ない。
確か14年前の2001(平成13)年の2月に、前年に勤続30年の特別休暇を頂いたので、
これを活用して、私はオーホックの流氷、家内は札幌の雪祭りを目的として、
私たち夫婦は4泊5日で周遊し、冬の北海道を初めて訪れた・・。
★掲載した写真は、この当時の私は、恥ずかしながらカメラがなく、
やむなく、この後に道内の冬の旅路で撮った写真を代用★
私たちは厚手のフィールド・コートと軽登山靴で、
私の登山靴はマイナス15度、家内のマイナス30度に耐えられる登山靴で、
そして私の帽子は山岳用を愛用し、家内はマフラーを被れば大丈夫という容姿で、出かけたりした。
この時の旅はJALストリーズの旅行会社を利用し、
空港から宿泊地の観光ホテルなどの利便性のある観光バスを活用した。
女満別空港に下り立った私たちは、この旅行会社の指定バスに乗り込み、
わかさぎ釣りなどされている網走湖の情景を車窓から観たりした。
そして予約していた網走港から氷海航行の『おーろら号』は、
風の為に欠航となり、私は落胆をしながら小高い山頂にある『オホーツク流氷館』に行き、
私たちは鑑賞したり、酷寒の寒さを少しばかり体験をしたりした。
この後、網走の郊外の能取岬の途中にある二ツ岩の海岸に接した観光ホテルに2泊した。
この海岸には数日前に流氷は接岸し、海辺には流氷の欠片が幾重にも見えたが、
流氷は遥か海上の沖に去っていた。
やむなく夜のひととき、空を眺めたりしていると、
夜空に満天の星、そして月が煌々と光りおびて、
マイナス15度前後であったが、寒さより確固たるまぎれもない美に見惚(みと)れた。
私は、月冴(さ)えて・・かょ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。
翌日、流氷の接岸を待ちわびたが、無念ながら海上の彼方に遠のき、
予約していたノロッコ号の列車で、網走駅より斜里駅まで乗車し、私は海辺を観たりしたが、
冬晴れの中、浪間は光り、蒼い海となり、
流氷はどこに行ったのょ、と苦笑を重ねたりした。
やがて終点の斜里駅で下車した後、私たちは路線バスを利用して、
知床半島の付け根のウトロまで、ひたすら流氷を求めて行った。
そしてウトロの数キロ前の峠道で、車窓からは海上を流氷の一面となり、圧倒的な流氷の荘厳な光景が観られ、
やがてウトロのバス停で下車した。
その後の私たちは、海岸付近は積雪50センチ前後の中を歩き、
海上の流氷を眺めたりした。
やがて突然に一角が平地となって、『知床ファンタジア』の会場と解ったが、
昼の一時過ぎは閑散としていた。
そして私の悪い癖のひとつであるが、会場の外れで記念として、
流氷を眺めながら、オシッコをしたりした。
その後、海岸付近と思われる雪の中を一時間ばかり歩き回り、一般道に出た時、
道路の補修をされている6人の方たちから、
なんて物好きの夫婦もいるなぁ、こような視線を私たち夫婦は受けたりした・・。
私たち夫婦は厚手の冬ズボンはもとより、厚手のフィールド・コートまで雪まみれとなり、
マイナス10度前後の中、更に微風の吹く寒さを増す中、
父親か母親の熊のように歩き廻っていたのだから、
地元の方たちから苦笑されても致しがたい、と私は納得したりした。
この後は、網走駅から札幌駅まで日中のひととき、念願の特急列車で移動した後、
小樽の市内を散策したりした後、シティホテルに宿泊した。
そして街並みを散策した後、小樽を昼過ぎに別れを告げ、雪祭りの前日の札幌に移動した。
そして網走の外れ、網走駅、斜里駅、小樽駅などの情景を観てきた為か、
札幌駅、周辺の広大さに、改めて実感させられた。
こうした思いも重なり、札幌の街並みを歩き、『さっぽろ雪まつり』の前夜祭を観たした旅路であった。
この後2002(平成14)年の12月になると、家内と年末年始の旅行のことで話し合ったりした。
私は前年の能登の輪島温泉滞在で、程ほど高価な費用を払ったのに、と苦い思いでがあり、
ためらったりしていた・・。
この当時の私は、定年退職は2004(平成16)年の秋であったので、
現役は残すところ1年10カ月前であった。
こうした時、通販の旅行会社のクラブツーリズムから送付されてくる小冊誌に於いて、
『ゆく年くる年 日本のてっぺんでお正月3日間』と題した、団体観光ツアーがあった。
何かしら大晦日の31日の早朝、羽田空港に集合して、午前10時過ぎに釧路空港に着陸した後、
バスで釧路湿原を通り過ぎ、屈斜路湖、摩周湖の雪の情景を鑑賞した後、紋別に宿泊する。
そして翌日の2003(平成15)年の元旦の朝、稚内を目指して、
オーホック海沿いの道をバスは長らく北上し、そして宗谷岬に午後の3時過ぎ到着した後、
日本の最北端の駅である稚内駅を観たりし、高台にある神社に初詣し、市内のシティホテルに宿泊。
そして翌日の2日、札幌を目指して、日本海を眺めながらバスは南下し、千歳空港から帰京するプランであった。
こうした風変わりな周遊観光コースであり、格安なプランであるので、
二度と企画されないかもしれない、と私は家内に言ったりし、参加したのであった。
大晦日の31日、羽田空港に早朝に集合時間であったので、
私はタクシーを予約して、暗い中、自宅を4時に出て羽田空港まで利用した。
そして、厳冬の屈斜路湖、摩周湖の雪の情景を鑑賞したが、私たちはそれなりの防寒服を着たりしているので、
マイナス10度ぐらいは心も身も順応できていたので、微笑んだりしていた。
少し驚いたのは、紋別に宿泊する前、蟹(カニ)食べ放題の夕食となり、
私は地酒を呑みながら、それなりに奮闘して頂いたが、
やはり蟹は毛蟹を一杯だけ頂き、ゆっくりと熱燗の地酒を呑むのが良い、と感じたりした。
そして、宿泊のホテルの部屋に戻ると、
テレビで紅白歌合戦の番組の中で、中島みゆきさんが『地上の星』を唄っていた・・。
後年、伝説となった黒部の極寒の坑道の中で、唄いあげたシーンであった。
私はファンのひとりであったので、この夜の夢は何故かしら、
みゆきさんが女神のように、私の方を見ながら微笑んでいた。
翌日の元旦の朝、稚内を目指して、オーホック海沿いの道をバスは長らく北上し、
私は冬の海の景観を眺めたりした。
そして宗谷岬に午後の3時過ぎ到着し、付近の海岸沿いを散策した。
この後、日本の最北端の駅である稚内駅を観たりした後は、高台にある神社に初詣をしたりした。
この後、付近の大きなクアハウスで湯船に入ったり休憩をした後、
市内のシティホテルに宿泊した後、
札幌を目指して、粉雪舞い降る中。日本海を眺めながらバスは南下し、新千歳空港から帰京した。
このように、道東地方のオホーツク海に面した地域の冬の旅路は、
わずか2回ばかりであるが、今でも心の片隅に残っている・・。
今回の旅路は、紋別の観光ホテルに3泊、そしてサロマ湖のリゾートホテル3泊、
その後は網走湖の観光ホテル1泊とし、7泊8日となった。
こうした中で、紋別港から流氷探検が出来る『カリンコ号』に乗船したりして、
荘厳な流氷を実感したり、念願のサロマ湖畔の情景、
そして旅の終わりとして網走港から氷海航行の『おーろら号』に乗船する予定とした、
☆========================================================☆
2月9日(月曜日)
私たち夫婦は羽田空港に行き、全日空の『紋別空港』行きに搭乗手続きを終え、待合所に移動しのは午前10時であった。
しかしながら私は不安を秘めたいた・・。
『羽田空港』と『紋別空港』の飛行機便は、日にたった全日空の一便の往復路だけで、
たとえば私たちが搭乗するは、『羽田空港』は10時30分発、『紋別空港』は12時20分着、
となっている。
もとより『紋別空港』は道内の空港としては、新千歳、旭川、函館、釧路、女満別、帯広よりコンパクトで、
稚内、中標津と同等の空港と私は感じたりしていたので、特に冬の天候異変多い季節に予定通り運航ができるかしら、
と危惧したりしていた。
私たち夫婦はⅠ月中旬に、クラブツーリズムの主催する北見市の郊外に温根湯温泉のある観光ホテルに4泊5日滞在する、
格安のフリープランに参加した・・。
そして私たちが搭乗する航空便は、羽田空港・12時35分・発===>女満別空港・14時20分・着、
日本航空1189便であった。
こうした中で、女満別空港は雪が降っていて着陸が不可能の場合は、羽田空港に引き返しすこともあります、
と付帯条件で、航空券を受け取ったりした。
こうした付帯条件を聞いたりした後、
私たち夫婦は昨年の湯の川温泉の旅路の出発日の時を思い重ねたりした・・。
航空券を受け取る時、何かしら前日の函館空港の風雪により、欠航便、遅延便の影響もあり、
羽田空港・発10時35分で函館空港・着11時55分の全日空853便は、
3つのフライトプランを提示されたりした。
①函館空港・着陸が不可能で、羽田空港に引き返し、改めて函館空港行きの航空便を検討します。
②やむなく新千歳空港に着陸して、その後は何らかの方法で函館市に行きます。
③予定通り、函館空港・着陸します。
この3つのフライトプランの説明を受けた私たち夫婦は、
このようなことは初めてだよねぇ、と私は戸惑いながら家内と話し合ったりした・・。
やがて予定時に航空機に搭乗できて、羽田空港を離陸できたが、
機内でも、3つのフライトプランが客室乗務員の方から報じられ、
この中のひとつの羽田空港に引き返した場合、
旅行気分の高揚感は吹き飛ばされ、余りにも惨(みじ)めだよなぁ、と私は不安が増したりした。
その後、函館空港に予定着陸時間の20分前頃に、
機長、そして客室乗務員の方から、
予定通り函館空港に着陸します・・お客さまには大変ご心配をお掛けしました、
と告知されて、私を含めて周囲の方たちも安堵の表情と言葉を重ねたりした。
やがて白い大地が観えて、函館空港に着陸態勢となった。
この後、食事処の窓辺から観える空港の滑走路、小雪降る中で風が伴い、小雪は横殴り舞っていた・・。
このような体験をしてきた私たち夫婦は、今回の場合でも多少し遅れても女満別空港に着陸できるょ、
と私たちは言葉を交わしたりした。
やがて予定時に航空機に搭乗できて、羽田空港を30分ぐらい遅れて(私は寝ていて正確には不明)離陸できた。
40分過ぎた頃、機長から、女満別空港は雪が降っていて着陸が不可能の場合は、羽田空港に引き返し場合もあります、
と機内の客員に報じられたりした・・。
そして下北半島と北海道の南端が視(み)えた頃、
機長から、女満別空港の除雪はしていますが、滑走路の路面が滑りやすい状況でありますので、
残念ながら羽田空港に引き返します、と機内の客員に報じられたりした・・。
やがて機内の数多くのスクリーンには、本州の上部の下北半島から三陸海岸、そして関東地域の航路が映し出されて、
私たちが登場している航空機がユータンして、羽田空港を目指している白線が明示されたりした。
私たち夫婦はスクリーンを視(み)ながら、
『こうした出発地の羽田空港に引き返すこともあるんだぁ・・
スゴロクみたいだよねぇ・・』
と私は落胆を秘めながら、家内に小声で言ったりした。
その後、私たちが搭乗している航空機が、羽田空港に着陸した。
やがて到着ロビーの片隅に、クラブツーリズムの担当者が待機して下さり、
今回の温根湯温泉4泊5日のフリープランに参加した20数名の私たちに、
旅行の中止、そして旅費の全額を返金の連絡を受けたりした。
私たち夫婦は今回の参加されたメンバーを始めて知ったりしたが、
家内は、この中のひとりの60歳前後のご婦人と、
『飛行機が引き返して、旅行が中止になったは、初めてですわ・・』
このような意味合いの言葉を交わして、お互いに微苦笑したりしていた。
この後、私たち夫婦は食事処で、遅い昼食した。
『旅行の中止・・何かしら・・力が抜けてしまうよねぇ
今回は太平洋側の下北半島と羽田空港・・無料ご招待の往復の遊覧飛行のようになってしまったねぇ』
と私は家内に言ったりした。
やがて、今回の旅路も宿泊先に大きな旅行ケースを宅配便で送付したので、
宿泊先にお願いして、旅行ケースを到着払いで送付依頼をしょう、
と私たちは話し合ったりした。
このような苦い体験をしたりしたので、今回の『紋別空港』は何とか着陸して欲しい、と念願したりした。
幸いにも機長、客室乗務員の行いが良かったらしく、私たちが搭乗した全日空の飛行機は、
『紋別空港』に着陸体制し、やがて予定時に着陸した。
そして到着ロビーの混雑する中で、空港から紋別市内まで無料送迎バスを見つけて、
私たちは乗車した。
この無料送迎バスは、飛行機の到着に合わせて、『海洋交流館』にあるガリンコ乗場、有力な宿泊『プリンスホテル』、
私たちが宿泊する『セントラルホテル』などを利便性のある運行路と解ったりした。
やがて車窓からは海辺が視(み)えたりしたが、流氷はなく蒼い海上が広がっていた・・。
こうした中で、同乗していた女性グループのひとりが、バスのドライバーさんに、
『流氷・・全然視えませんが、明日ごろに見ることができますか?』
と訊(たず)ねられたりした。
『流氷は数週間前に観えましたが、沖に向い強い風で、20キロ先の海上に流れまして・・』
とバスのドライバーさんは、苦慮しながら大きな声で返答したりしていた。
私は流氷は気候の神々のきまぐれ采配に寄り、
時には沖合から陸地に向い、烈風が吹けば、見ることはできる、と思いながらも、
やはりオホーツク海上の流氷を視たく、この紋別に滞在する3日間で、4回ばかりガリンコ号の乗船予約をしたりしていた。
やがて市内にバスは入り、私たちは宿泊する『セントラルホテル』前で下車した。
そしてフロントでチェックインした後、4日前に自宅から宅配便で送付した大きな旅行ケースを受け取り、
私たち夫婦が指定された部屋は、最上階の客室だった為か、海上の視界に恵まれた・・。
過ぎし日に家内は、紋別の市内の『プリンスホテル』か『セントラルホテル』と懸案した結果、
海上の景観が良いと思えて選定してきた上、部屋も程ほど広く、私たちは思ったよりもよかったねぇ、と微笑んだりした。
この後、私たちは『海洋交流館』にあるガリンコ号の『サンセット・クルーズ』に乗船する為に、
ホテル前で乗車できる路線バスに乗り、向かった。
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