夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

70代は人生で最も幸福な時間、と坂東眞理子さんより教示され、つたない半生期を歩んだ私でも、共感させられて・・。

2019-08-18 14:49:15 | ささやかな古稀からの思い

先程、ときおり愛読している公式サイトの【 NEWポストセブン を見ていたら、
『 『女性の品格』坂東眞理子氏、70代は人生で最も幸福な時間 』
と題された見出している中を見たりした・・。

私は東京の調布市に住む年金生活の74歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で築後40年が過ぎた古ぼけた一軒屋に住んでいる。

こうした中、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフの私なりの健康体の三種の神器として思い、年金生活15年近く過ごしてきた。

そして私は9月下旬の誕生日を迎えると、後期高齢者入門の75歳となり、
家内も12月下旬の誕生日を迎えると、古希と称される70歳となる。

こうした中、つたない人生航路を歩んだ私でも、70代こそが最も安楽な人生を過ごしている、
と実感させられている・・。

こうした深情を秘めている私は、坂東眞理子さんが『70代は人生で最も幸福な時間』と論説され、
好奇心ばかり強い私は、精読してしまった・・。
           
この記事の原文は、『女性セブン』の2019年4月18日号に掲載された記事のひとつであり、
関連の公式サイトの【 NEWポストセブン に4月6日に配信され、無断であるが転載させて頂く。

《・・『女性の品格』坂東眞理子氏、70代は人生で最も幸福な時間                 

『女性の品格』から12年。『70歳のたしなみ』(小学館)を上梓した坂東眞理子氏

写真1枚

『女性の品格』(PHP新書)が330万部を超えるベストセラーとなってから12年・・・。
72歳になった坂東眞理子さんが、人生の後半期を生きる大人たちへ向けて、
『70歳のたしなみ』(小学館)を新たに書き下ろした。

世間一般の年齢観を覆す、前向きで熱いメッセージの数々が早くも話題になっている坂東さんに話を聞いた。

              

「一般的に70というと“終わった人”、“年寄り”といったネガティブなイメージが強く、
人々は晩年意識で、終活を意識し始めます。

かくいう私も、2年前に70になった当時は、記事などで“70歳”と年齢を紹介されるたびに
『私は、もう70なんだ・・』と自分自身で年寄りのレッテルを貼って、
そんな自分を省みて、さらにショックを受けてしまって(苦笑)。

周囲を見ても、60代は、まだ中年意識を持って、多方面で活躍をしている人が多かったのに、
70になると、第一線を退いてしまう人が多いように感じます。

ですが自分も含めて、人生100年時代を迎えた今の70代は、
一時代前よりも、活力に溢れて元気ですし、まだまだ家族や若い世代を支えて社会の役に立つことができる。

そこに気づいてからは、年寄り気分で自らしぼんでしまうことに、反発したいと思うようになりました。

この本は晩年意識へのアンチテーゼとして、
『“もう”歳だから“どうせ”、“いまさら”とあきらめずにポジティブに生きましょう』という、
後半生を生きる大人への応援メッセージです」

では70代は、どんな時代か。
坂東さんは、晩年という暗くしんどい「終活」の時間ではなく、「ゴールデンエイジ」、
人生で最も幸福な時間ではないかと考えている。

「70代は、30代や40代のように仕事や子育てに追われることもなく、
50代や60代のように人生の新しいステージに対する焦りや不安もなくなり、
心に余裕を持って人生を俯瞰することができる。

人のお世話にならずに、自分で行動できますし、
新しいことに挑戦して、明るく希望を持って過ごせる時間だと思っています。

歳を重ねるとあそこが痛い、ここが老いたと失ったものを数えがちですが、
『100点満点の健康ではなく、70点、80点でも、まだあれもこれもできる。
それって素晴らしいことよね』と、マインドセットを変えてみませんか」

黄金時代の70代を謳歌するには、50代、60代からの心構えが鍵になる、
と坂東さんはアドバイスを送る。

              

「30代の盛りと比べたら、50~60代は体力が落ちてきますし、
巷には、高齢化社会でやれ介護だ、病気だ、年金がもらえないと、悲観的な情報が氾濫して
中年期から早々に晩年意識を植え付けられてしまうけれど、あまり深刻に考えすぎないことです。

現代人は、周囲から反発されないように自分を守ろうと、
若い頃から、いいことや幸せなことは、なるべく隠して自虐するような風潮が広がっていて、
それも日本全体を暗くしていますね。

“気だけは、若い”というのは、私の口癖ですが、
多くの人は体は元気なのに、気だけが老いているんです。
年齢を重ねることに、希望や自信を持つことも大事だと思います。

私は29から30になる時に『これで私の青春は、おしまいだ』と落ち込んで、
40になる時には『40代なんて、もうおばさんだ』と絶望したけれど(笑い)、
嫌だった30代も、振り返ってみれば、女盛りで楽しかった。

20代では、見えなかった楽しさが30代にはあり、40代も別の充実の時期でした。
毎日が充実していた人ほど、次のステージへ上がることは怖いけれど、
いざ踏み出してみると、また違うステージに着きます。

幸福曲線があるとしたら、私たちはある年齢まで幸せ度が上がったら後は下がるだけ、
と人生を“放物線”で捉えがちですが、そうではありません。

世代ごとのステージは、別物なんです。
見えなかったものが見えたり、感じなかったことを感じたりすることが年齢を重ねる醍醐味。
70だって捨てたものじゃないと、毎日を楽しんでいますよ」・・》

注)記事の原文にあえて改行を多くした。

              

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退し、 芸能専門養成所のシナリオ科に通ったりした。

そして映画青年の真似事の生活を過ごし、 アルバイトや随時契約の単発仕事で何とか生計を立てていたが、
養成所の講師の知人の新劇の長老から、 映画は益々衰退して、まして脚本家で飯(めし)が喰えるのは、少ないので、
同じ創作するならば小説を書きなさい、とアドバイスを頂いたりした。

まもなく私は文学青年の真似事に転身して、警備員の契約社員をしながら習作をし、
こうした中で純文学の小説の新人募集に3回応募したが、最終予選の寸前で敗退したりした。

このような状況の時、 叔父からは、30過ぎた時、きちんと家庭を持てるだけの力があるの、と言われたりしたので、
根拠のない自信ばかり過ごしてきた私でも、敗北宣言をして、通常の社会人に戻る決心をした。

この時代は高度成長期であったが、大学を中退し、もとより企業の中途入社は容易ではなかったので、
やむなくコンピューターの専門学校でソフト科に1年間学び、
何とかこの当時は大手の音響・映像メーカーに中途入社できたのは、
25歳を過ぎた1970年(昭和45年)の春であった。


                                  

この音響・映像メーカー会社は、この中のひとつとして音楽事業本部があり、
レコードの有力な幾つかのレーベルを管轄していた。

私は入社試験の面接の最終時に、テレビ・ステレオなどのハード系より、
何かしらソフト系のレコード部門に心身相応しいと思っていたので、懇願して配属して貰った。

入社した直後、現場を学べ、と指示されて、 横浜の新子安にある工場の一角で、商品管理の部署に勤めていた時、
まもなく大手のレーベルが、外資系のレコード会社として独立した会社となり、私も転属された。

やがて私は、10ヵ月後に本社のコンピュータ専任として異動させられ、
勤務地は赤坂にある東急ホテルに隣接したビルであり、まもなく本社が『六本木』に移転したので、
この後の1992年(平成4年)までの20年ばかり、 私は六本木の界隈の空気と共に過ごした。

                                           
 
私は管理畑の商品、情報、経理をしている中、
やがて1992年(平成4年)の5月過ぎに、レコード会社の合併により、本社は渋谷の外れとなったりした。

この後、1998年(平成10年)の当時の私は、営業本部に勤めていたが、 
この数年前の頃から、音楽業界はリストラの烈風となり、
私は1999年(平成11年)の初春に、各レコード会社が音楽商品の物流を委託している会社に出向となった。

勤務した職場は、音楽のCD、DVDなどの商品を、
ソフトの販売店に出荷、返品など取り扱う物流会社の中のひとつの商品センターで、
私を含めた管理の正社員の5名の基で、契約・パート社員の男女120名前後で対応した。

こうした中、音楽のCD、DVDなどの商品棚が並ぶフロアは、
東京ドームより広い商品センターで、 連絡事項などはマイクを通して拡声器、もしくは電話などで通達し、
携帯電話も要求されない現場で奮闘し、 この出向先で5年半ばかり勤め、
2004年(平成16年)の秋に定年退職時を迎えた。
        

やがて定年退職時になると、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私は、
何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまった。

このような拙(つたな)いサラリーマン航路である上、 そして定年退職するまで半生期は、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、 ときおり敗残者のように感じることも多く、 悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めて、 早や15年生となっている・・。

                           

私が年金生活の2004年(平成16年)の秋の当初から、我が家の平素の買物は、 私は自主的に買物専任者として宣言し、
家内から依頼された品を求めて、 独りで殆ど毎日、スーパー、専門店など歩いて行き、
買物メール老ボーイとなっている。

この後は、やはり自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。

私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖におしゃべりが好きで、
結婚した当初からでも、 何かと家内と談笑したり、
やがて年金生活の中でも ご近所の奥様、ご主人などと明るく微笑みながら談笑したりしている。

そして私は、遊歩道、公園などを散策していると、 見知らぬ男性、 女性グループの御方たちと、
話しかけられたり、或いは話しかけたりして、 立ち止まって談笑したりしている。


このような午前中の過ごし方を定例事項のように過ごしてきた・・。

例外として、家内のボディガード、お供そして荷物持ちで、3週間に一度ぐらい駅前で買物、
或いは年に3回ぐらい都心の新宿にある伊勢丹、小田急、京王などのデパートに買物、
そして庭の手入れ、国内旅行、懇親会、冠婚葬祭などで小用がない限り、定年後の丸14年を過ごしてきた。

こうした散策することは、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。

                

そして
私は定年後に年金生活の始めた直後、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

そして午後から夜の大半は、私は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、 或いは音楽も聴いたりしている。  

そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受している。

このように定年後の60代は、年金生活に戸惑いながらも享受した10年となり、
70代は体力の衰えを実感しながらも、水平飛行した航空機のように年金生活を過ごし、
時折こうした甘味した私たち夫婦は、いつまで続くかしら、と思ったりして日々を過ごしている。

今回、総理府(現・内閣府)に入省し、栄進された後、昭和女子大学の学長などをされている坂東眞理子さんの真情、
《・・70代は人生で最も幸福な時間・・》、私は学びながら、
つたない半生期を歩んだ私でも、確かにそうですよねぇ・・共感させられたりしている。

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