夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

節分の日、鬼もいない我が家、節分の行事も消滅して、過ぎし年を思い馳せれば・・。

2024-02-03 11:37:32 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の79歳の身であるが、
年金生活を始めた2004年の当初より、
我が家の平素の買物は家内から依頼された品を求めて、
スーパー、専門店に行っている買物メール老ボーイとなっている。

今朝、朝食後に家内は、いつものように新聞に添付されているスーパーのチラシを見た後、
赤のサインペンで丸印を付けたりした・・。

やがて私は手渡されて、赤丸が付いたのが本日の買物の対象品であり、
そして私が店内で魅せられた品を追加するのが、我が家の鉄則となっている。

私はチラシを受け取ると、節分に関しての特集に於いて、
「節分豆」はもとより、「恵方巻」が五種類ぐらい、「節分 いわし」などがあったりした。

そして今年の恵方巻は、東北東に向かって、まるかぶり!!、
と明示されて、私は微苦笑をしてしまった。

過ぎし2004年(平成16年)の秋、私は定年退職後、多々の理由で年金生活を始めて、
私たち夫婦は子供に恵まれずたった二人だけの家庭であるが、
『節分の日』は、私たち夫婦は『恵方巻』を食べたりし、
そして私たちは、豆まきを省略しても『福豆』を食べたりしてきた。


          

私は年金生活の今でも、家内が専業主婦の延長戦として料理、洗濯、掃除などの家事をしてくれるので、
せめて家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、
私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしたりしている。


そして年金生活を重ねると、何かと私は家内に従順さを増してきたので、
我が家は鬼もいないなぁ、と微苦笑したりしてきた。

こうした中、私は年金生活をしていると、齢を重ねるたびに人出の多い神社・お寺で『豆まき』で人の多い所は苦手となり、
自宅で豆まきをする元気もなく、『節分の日』には、日中のひととき、スーパーで『福豆』を買い求めた福豆を、
夕暮れの時に、家内と煎茶を飲みながら食べたりして過ごしてきた。

          

私は幼年期の頃は、いじけて可愛いげのない児であったが、『節分の日』には、ささやかな想いを秘めている・・。

私は1944年(昭和19年)の秋、今住んでいる近くに生家があり、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、農家をして、戦前に小作人さんだった御方たちのご厚意で助力を得たりし、
程々の広さの田畑を耕し、雑木林、竹林などがある旧家であった。

そして長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、幼年の私でも感じたりしていた。

もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。

そして私の後にやがて妹がふたり生まれ、 祖父、父が初めての女の子に溺愛したしぐさを私は見たりすると、
私はますますいじけて、卑屈で可愛げのない言動をとることが多かった・・。

父からは、こうした私に対しては、ふたりの兄と同様に、激しく叱咤されたりした。

祖父は、幼児の私を不憫と思ったのが、私を可愛がってくれた数々を私は鮮明に記憶している。
そして、私の生を受けた時、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。

          

こうした中で、私が少学校に入学する1951年(昭和26年)の春の前、
『節分の日』の情景は、私なりに鮮烈に心の片隅に今でも残っている・・。


この当時、『節分の日』には最寄の神社の高台で、豆まきをしていた。
神社の鳥居に入ると、が聳えるようになり、小高い丘が聳えるようになり、
陵山(みささぎやま)といわれる小高い丘となり、高い所には老樹に囲まれた神社がある。

                                     

そして左辺には、それぞれの旧家が奉納した大稲荷神社があったりした。

          

神社といっても、歴史ばかりは由緒ある処であるが、
村の住民で維持管理されている程ほどの大きさの神社で、

この時節も殆ど人影のないところであった。

そして、『節分の日』になると、それぞれの家長が一升枡の中で半紙敷いて、
自宅にある大豆を軽く炒った豆を3割方ぐらい入れ、
夕暮れになると、神社の高台に赴(おもむ)きで、大声で、
『ふくわう~ち!!・・おにはそ~と!!・・』
と叫んでいた。

私の生家から、少なくとも300メートルは離れていたが、家の中で居ても充分に聴こえたのである。
『お父さん・・あの声・・XXさんの小父さんだね・・』
と私は父に確認したりした。

『だけど・・あの小父さん・・去年より・・豆まきをはじめる時間・・少し早いね・・』
と私は得意げで父に言ったりしていた。

生家でも、祖父が神社に行き、豆まきをして帰宅する頃は、戸締りが終わっていた。

           

やがて夜の7時ごろには、戸をすべて開け放ち、
『福はう~ち! 鬼はそ~と!』
と父は平素より遥かに大きい声で、外に向かって言ったりしていた。

そして、戸をすべて閉め終わった後、私は次兄と妹たちとで、
各部屋の畳の上、縁側の廊下にまかれた豆を拾い集めたりしていた。

そして、五合枡に入れた豆を、
『齢の数だけ・・食べてもいいわよ・・』
と父の妹の叔母が私たち兄妹に言った。

私は、6つだけかょ、と言いながら、
次兄の手には、もとより私より多くあったので、
私はおまけと言いながら、こっそりと三つばかり余計にとった。

そして私は、自分だけ取ったのが何かしら恥ずかしかったので、
2人の妹にそれぞれ1粒づつ手にのせたりたりした。

このような祖父、父たちに囲まれて、楽しげなひとときであったが、
私が小学2年の3学期の終る早春に父は病死され、そして1年後には祖父に死去され、
大黒柱となるふたりが亡くなったので、生家は没落をしはじめた・・。


           

やがて、私が現役のサラリーマン時代だった頃も、ささやかな想いを秘めている・・。

私はある民間会社に勤め、数多くのサラリーマンと同様に多忙な身であり、
特に40歳前後は、情報畑に在籍し、システム開発と運営業務が重なり、
睡眠時間を削りながら、奮闘していた時であった。

この『節分の日』には帰宅できたのは、夜の11時30分過ぎだった。
そして、今日は終電の少し前で良かったよ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

やがて私は疲れた表情で冬コート、スーツを脱いで、ネクタイをはずし、
ワイシャツ姿で、いつものように洗面所で顔を洗ったりした。
この後、私はパジャマに着替えて、冬のガウンをはおると、深夜の12時近かった。

家内が、『深夜ですので、年の数だけ豆を、頂きましょうね』と言ったりした。

私ももっともだ、と思ったが、仕事で遅くなったんだから、と素直に何かしら納得出来なかった。

『今からでも、遅くないよ・・』
と私は言って、私は雨戸を開けた。

『福はう~ち! 鬼はそ~と!』
と私は大きな声で、小庭に向って連呼した。

周りの一軒が台所の窓が開き、
そして、まもなくもう一軒のお宅では、ベランダの前のガラス戸が開いた。

XXさんの所、今頃何をやっているんだ、
いうようなしぐさが、私なりにぼんやりと解かった。

しかし、良きことの行事に対しては、ご近所の皆様からは、幸いにクレームがなかったと、
私は後日に、家内から聴いたりした。

           

このようなささやかな『豆まき』の想いでを私は秘めている。

そして叶わぬ夢であるが、もしも息子か娘がいて、そして孫がいたら、
私は『節分の日』には、積極果敢に孫を引き連れて、『福はう~ち! 鬼はそ~と!』
と盛大に豆まきをするだろう、と夢想を重ねたりしした。



余談であるが、「節分の日」に豆をまく理由を6年前に、私は学んだりした・・。

季節の変わり目は、それぞれ「立春」、「立夏」、「立秋」、「立冬」があり、
なかでも立春は、旧暦で1年の始まりにあたる。

そこで立春時の節分が重要視され、
今では「豆まき」などの行事が、厳寒の風物詩として親しまれている。

この豆まき神事、背景にあるのが「穀霊信仰」だという。

昔の人は、豆に霊力があると信じており、
災厄や冷気を鬼に見立て「豆の力」で追い払おうとした、と伝えられている。

コメント (6)
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