夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

バレンタイン・デー、恥ずかしながら老夫婦の我が家の実態は・・。

2024-02-14 14:08:41 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住んでいる年金生活の79歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけ家庭であり、
そして私より5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。




過ぎし年の2004年(平成16年)の秋、私はある民間会社に定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始めた・・。

そして家内は、料理、洗濯、掃除などは専業主婦の延長戦として、了解してくれたので、
せめて我が家の平素の買物ぐらいは・・と私は思い、家内から依頼された品を求めて、
スーバー、専門店に行っている買物メール老ボーイとなって、早や20年目となっている。

          

平素は、朝食後に家内は、いつものように新聞に添付されているスーパーのチラシを見た後、
赤のサインペンで丸印を付けたりした・・。

やがて私は手渡されて、赤丸が付いたのが本日の買物の対象品であり、
そして私が店内で魅せられた品を追加するのが、我が家の鉄則となっている。


こうした中、本日は最寄りのスーパーのチラシを手渡され、
やがて最寄りのスーパーに行く前に、郵便局に寄ったりした。

そして家内の国民健康保険の2月分の支払いを終えた後、
若き女性の局員の御方より、
『 ご主人様に、ささやかですが・・ 』、
と言いながら、私は手渡されたりした・・。



私は、何かしらチョコレートが添付されているのに気づいた時、
『バレンタイン・デーですので・・』と若き女性の局員の御方は微笑みながら、
私に言ったりした。

『ありがとうございます・・』と私は言いながら、
本日はバレンタイン・デーだったか・・と心の中で呟(つぶや)いたりした。

この後、スーパーに行き、スーパーのチラシと私が書いたメモを頼りに、
20数品を買い求めて、帰宅した。

やがて家内は、私が買い求めてきた中、ふたつの品をテーブルに於いて、
『いつもと同じ・・バレンタイン・デーの代わりね・・』、
と家内は微笑みながら私に言ったりした・・。



このチョコレートは、我が家が平素食べているもので、
家内が大半愛食しているので、私は微苦笑したりした・・。


 

過ぎし5年前の時は、家内は前日の昼過ぎに美容院に行き、
やがて帰宅後に『おみやげですょ・・』
と家内は私に微笑みながら、小さな紙袋を手渡した・・。

そして私は紙袋を開けると、何かしらチョコレートの親戚ような物が三つ入っていた。



『明日、バレンタイン・デーでしょう・・先程、スーパーで買ったのょ』
と家内は私に微笑みながら、言ったりした。

『そうだょだったよねぇ・・明日は全国的にバレンタイン・デーだ・・いち早く有難う・・』
ともすれば祭日さえ忘れることが多くなっている私は、明るい声で応(こた)えたりした。

『でもねぇ・・全部で千円を超えていませんから・・』
と家内は笑いながら言ったりした。

『そぉ・・それだったら・・気楽に食べられるょ・・』
と私は安堵しながら言ったりした。

やがて私は、こっそりと見ると、昨年と同じだ、と微苦笑をしたりした。

  

私はチョコレートに関して、家内から長年に頂いているが、
私は少しだけ食べて、殆ど家内が頂いているが、結婚以来の実態となっている。


私はバレンタイン・ディーに、女性がそれぞれの思いを男性に託してチョコレートを贈呈する風潮は、
確かに30年前の頃からあったと思われるが、もとより私の若き20歳の頃は記憶になかった。

昨今、デパートのチラシの中には、高価な15000円もあったりしていたので、苦笑したりした。

もしも私が25歳ぐらいの若き独身の男性であったならば、昨今の経済の諸情勢を配慮すれば、
愛しき女性からは300円ぐらいのバレンタイン・チョコレートを頂ければ充分だし、
こうした中で、ささやかに食事をしながら語り合いたいなぁ、と思ったりした。




そして私には、チョコレートの板チョコには、人生観を変えるぐらい深い思いでを秘めている・・。

私が1954年(昭和29年)の小学3年生になったばかりの時、

私を可愛がってくれた祖父が死去した。 

前年に祖父の長男だった私たちの父が亡くなり、跡継ぎを失くし、
その上に祖父自身も病状が悪化して、落胆した表情が少年の私さえ感じていた。

そして祖父、父が中心として、程ほどの広さの田畑を耕し、
多忙な時期は小作人だった人たちの助けも借りて農業をしていたが、
大黒柱の2人を失った生家では、長年の農業の技量の伝承が絶たれてしまったので、没落しはじめた・・。

こうした中で、母、父の末妹の叔母、長兄、次兄、私、そして妹のふたりが残された家族となり、
生活は困窮し始めた・・。

            
          
        
このような状況下の時、祖父の妹に当たる祖母のような心優しい御方が、
何かと不憫に思い心配されて、
とても私たちが日常生活で買い求めることのできない和洋菓子などを持参してくれた。 

その上、妹の2人には、何かと品を頂き、ときにはお揃いの洒落た下駄などを頂戴した。

この御方が帰路する時、小学3年生だった私は、
駅までの15分ぐらいの町道をこの御方と共に歩いて、駅で見送った。

この少し前、この御方は私に、
『チョコレートでも買ってねぇ・・』
と私に百円玉ひとつを手渡して下さった。

この後、私は小汚い身なりであったが、駅前の商店街の菓子屋に行き、
まばゆい包装紙に包まれた一枚の板チョコレートを買ったりした。

そして私は駅前から急いで帰宅し、妹のふたりと割って食べたりした。

しかし恥ずかしながら告白するが、正確には私は少し大き目の3分の1であった・・。 
 


あの家も貧乏になった、と少年の私さえ、近所の人たちの風の噂を聴こえたりしていたが、
この時ばかりは妹2人と食べあった板チョコは、この時は何かしら貧乏のことも忘れさせてくれた。

こうした体験を秘めた私は、たった一枚の板チョコレートであるが、
ここ10年前の頃からのベルギー産の高級品、宇治抹茶生チョコなどのチョコレートより、
遥かに美味しく感じられるのである。

そして私は少年心に、たった一枚の板チョコレートでも人生観を変えることがある、
と思ったりしている。


           
 

私が定年前の現役サラリーマン時代は、家内からは程々に高価なハート・マークのような品を頂いたが、
定年退職後の多々の理由で年金生活を始めると、私は家内と結婚してまもない頃に、
私の小学3年生のチョコレートの思い出を話した為か、板チョコは一枚となってしまった・・。

やがて12年前に高齢者入門の65歳となり、このお祝いの為か、
ミルクチョコレート、ブラックチョコレート、ホワイトチョコレートの板チョコ3枚に昇格し、
これ以来、板チョコ3枚が毎年の恒例となってきたが、
8年前より更に昇格して、今回のようなチョコレートとなっている。
 


余談であるが、日常の買物メール老ボーイの私は、最寄りのスーバーで買い物をしている時、
特売として一枚80円前後の懐かしい包装紙に包まれた板チョコを見かけると、
確かに私が小学3年生の時に食べた板チョコだよねぇ、と思いを馳せたりして、買い求めたりしている。


そして昨今は、若き女性は、板チョコをそれぞれ加工して、
手作りで贈りものにされていると、風の噂で知り、
私は良きことと微笑んだりしている。
コメント (2)
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