私は大学を中退し、映画青年の真似事をしていた時もあった。
昭和44年(1969年)前後までは、小学生以来、よく映画を観たひとりである。
私は映画の基盤となる脚本家に於いては、橋本 忍・氏が最も好きな方である。
『羅生門』、『生きる』、『七人の侍』、『生きものの記録』、『真昼の暗黒』、『蜘蛛巣城』、『張込み』、
『隠し砦の三悪人』、『私は貝になりたい』、『黒い画集 あるサラリーマンの証言』、『悪い奴ほどよく眠る』、
『ゼロの焦点』、『切腹』、『白と黒』、『霧の旗』、『白い巨塔』、『拝領妻始末』、『日本でいちばん長い日』、
『砂の器』、『八甲田山』等の作品が浮かんでくる・・。
昨日の読売新聞に於いて、【時代の証言者】として、
この1週間、《喜劇監督 山田洋次》が連載されている。
私は山田洋次・氏の監督として作品は、余り観ていないので方である。
『下町の太陽』、『馬鹿まるだし』、『霧の旗』、『幸福の黄色いハンカチ』、『遥かなる山の呼び声』、
『キネマの天地』、『たそがれ清兵衛』等であり、
『男はつらいよ・・』のシリーズは苦手なの数本観たが、忘れてしまった。
このように山田監督の作品に関しては、評価は出来ない立場であるが、
脚本家としては優秀な作品を観ているので、
この連載は私の興味となっている。
それにしても、この読売新聞の担当記者、山田洋次の前に喜劇監督と称されているが、
不勉強も甚(はなは)だしい、と思っている。
昨日のこの連載に於いて、山田洋次・氏が『砂の器』の脚本、映画までの完成を語っていた。
私は何かしらで読んだり、観たりしているが、
山田洋次・氏の証言は創作の秘密を明言されているので、
この人の高潔さを感じたりした。
新聞記事を無断であるが、あえて転記させて頂きます。
『ゼロの焦点』に続いて、1962年(昭和37年)頃、
野村芳太郎さんが監督する『砂の器』の脚本作りに、
再び橋本 忍さんと取り組みました。
公開は1974年ですが、脚本は10年以上前に出来ていたんです。
松本清張の原作は、話が入り組み過ぎていて、とても映画になりそうもない。
『これは無理ですよ』と言うと、
橋本さんは、『その通りなんだ』とにやにや笑い、
『でも、ひとつだけ方法がある』と言って本を開きました。
それには、捜査会議で刑事がハンセン病の男と息子の足取りを語る場面に、
赤鉛筆で傍線が引いてありました。
『追われるように古里を出、島根県の亀嵩(かめだけ)に現れる。
その間どこに回ったかは、この親子にしか分からない。
この分からない、というところを絵にするんだ』。
物乞いをしてこの国のあちこちを回り、
どんな目にあったか。
どんなにつらかったか。
それをクライマックスにして物語を作っていくということです。
捜査会議が再開されたのが、犯人の新曲発表コンサートの晴れの日。
刑事が話し始めたところで音楽が始まる。その音楽に乗せて、親子の旅の回想がはさまれる。
『どうだ、良いだろう』
と橋本さんは自分の発想にとても興奮し、すぐに旅館を押えてくれ、
と言いました。
夜を日に継いで、仕事を進めたかったんですね。
その時は、横15センチ、縦10センチくらいのカードに、場面を書いていました。
いらないものは捨て、必要なら挿入する。
最近カードで整理する、というのははやりましたが、
橋本さんは40年以上前に実践していた。
ものすごい勢いで橋本さんがカードに書き込み、
それを僕が原稿用紙に写す。
10日か2週間くらいで、完成しました。
親子があちこち行く場面は、僕が考えました。
村の子供にいじめられるとか、
小学校の校庭をじっと見つめているとか、
橋の下で親子で楽しそうに食事しているとか。
でも、真冬の雪の中は書いていません。
あの場面は野村さんが加えたのです。
物乞いの人達は、寒い時に北には行きません。
でも野村さんはあえて、親子に酷寒の青森県・竜飛岬を歩かせた。
それが映像的な緊張感、過酷さを描き出し、
あの映画の象徴となっています。
それにしても、企画が中断しても10年以上あきらめず、
ついに実現させた野村さんの執念には頭が下がりますね。
以上、無断であるが記事を転記させて頂きました。
私は脚本が完成されてから、作品の完成までは、
色々と映画専門雑誌、新聞記事などで読んで折、
松竹が暗い映画だと短絡的に判断し、中々製作の許可がならなかった、と読んだりしていた。
監督の野村芳太郎・氏は、作家の松本清張の原作の映画化を数多くして折、
『霧プロダクション』を設立し、製作、監督を数々を行った人である。
この『砂の器』は、橋本 忍・氏が映画完成にやまれず、
ご自分のプロダクションを設立し、資金を投じて、製作も兼ねている。
私は改めて山田洋次・氏の証言を読んで、
原作の松本清張があるにしろ、
創作され、完成までの秘話を話された山田洋次には、
清々しさを受けている。
脚本の共同著作の場合、あるお方達は僕の発想みたいに語る人が、
余りに多いからである。
この映画が完成され、原作者の松本清張・氏は、
『小説より、この映画の方がはるかに優れている』
と私は読んだことがある。
この映画に関しては、橋本 忍、山田洋次、野村芳太郎、
そして撮影の川又 、作曲、演奏の菅野光亮・・等の結晶で、
私達に感銘を与えてくれた有数な名画と感じている。
私は創作に携わる人々に敬意しているが、
今回の『砂の器』の映画には、特にこの思いが強い。
昭和44年(1969年)前後までは、小学生以来、よく映画を観たひとりである。
私は映画の基盤となる脚本家に於いては、橋本 忍・氏が最も好きな方である。
『羅生門』、『生きる』、『七人の侍』、『生きものの記録』、『真昼の暗黒』、『蜘蛛巣城』、『張込み』、
『隠し砦の三悪人』、『私は貝になりたい』、『黒い画集 あるサラリーマンの証言』、『悪い奴ほどよく眠る』、
『ゼロの焦点』、『切腹』、『白と黒』、『霧の旗』、『白い巨塔』、『拝領妻始末』、『日本でいちばん長い日』、
『砂の器』、『八甲田山』等の作品が浮かんでくる・・。
昨日の読売新聞に於いて、【時代の証言者】として、
この1週間、《喜劇監督 山田洋次》が連載されている。
私は山田洋次・氏の監督として作品は、余り観ていないので方である。
『下町の太陽』、『馬鹿まるだし』、『霧の旗』、『幸福の黄色いハンカチ』、『遥かなる山の呼び声』、
『キネマの天地』、『たそがれ清兵衛』等であり、
『男はつらいよ・・』のシリーズは苦手なの数本観たが、忘れてしまった。
このように山田監督の作品に関しては、評価は出来ない立場であるが、
脚本家としては優秀な作品を観ているので、
この連載は私の興味となっている。
それにしても、この読売新聞の担当記者、山田洋次の前に喜劇監督と称されているが、
不勉強も甚(はなは)だしい、と思っている。
昨日のこの連載に於いて、山田洋次・氏が『砂の器』の脚本、映画までの完成を語っていた。
私は何かしらで読んだり、観たりしているが、
山田洋次・氏の証言は創作の秘密を明言されているので、
この人の高潔さを感じたりした。
新聞記事を無断であるが、あえて転記させて頂きます。
『ゼロの焦点』に続いて、1962年(昭和37年)頃、
野村芳太郎さんが監督する『砂の器』の脚本作りに、
再び橋本 忍さんと取り組みました。
公開は1974年ですが、脚本は10年以上前に出来ていたんです。
松本清張の原作は、話が入り組み過ぎていて、とても映画になりそうもない。
『これは無理ですよ』と言うと、
橋本さんは、『その通りなんだ』とにやにや笑い、
『でも、ひとつだけ方法がある』と言って本を開きました。
それには、捜査会議で刑事がハンセン病の男と息子の足取りを語る場面に、
赤鉛筆で傍線が引いてありました。
『追われるように古里を出、島根県の亀嵩(かめだけ)に現れる。
その間どこに回ったかは、この親子にしか分からない。
この分からない、というところを絵にするんだ』。
物乞いをしてこの国のあちこちを回り、
どんな目にあったか。
どんなにつらかったか。
それをクライマックスにして物語を作っていくということです。
捜査会議が再開されたのが、犯人の新曲発表コンサートの晴れの日。
刑事が話し始めたところで音楽が始まる。その音楽に乗せて、親子の旅の回想がはさまれる。
『どうだ、良いだろう』
と橋本さんは自分の発想にとても興奮し、すぐに旅館を押えてくれ、
と言いました。
夜を日に継いで、仕事を進めたかったんですね。
その時は、横15センチ、縦10センチくらいのカードに、場面を書いていました。
いらないものは捨て、必要なら挿入する。
最近カードで整理する、というのははやりましたが、
橋本さんは40年以上前に実践していた。
ものすごい勢いで橋本さんがカードに書き込み、
それを僕が原稿用紙に写す。
10日か2週間くらいで、完成しました。
親子があちこち行く場面は、僕が考えました。
村の子供にいじめられるとか、
小学校の校庭をじっと見つめているとか、
橋の下で親子で楽しそうに食事しているとか。
でも、真冬の雪の中は書いていません。
あの場面は野村さんが加えたのです。
物乞いの人達は、寒い時に北には行きません。
でも野村さんはあえて、親子に酷寒の青森県・竜飛岬を歩かせた。
それが映像的な緊張感、過酷さを描き出し、
あの映画の象徴となっています。
それにしても、企画が中断しても10年以上あきらめず、
ついに実現させた野村さんの執念には頭が下がりますね。
以上、無断であるが記事を転記させて頂きました。
私は脚本が完成されてから、作品の完成までは、
色々と映画専門雑誌、新聞記事などで読んで折、
松竹が暗い映画だと短絡的に判断し、中々製作の許可がならなかった、と読んだりしていた。
監督の野村芳太郎・氏は、作家の松本清張の原作の映画化を数多くして折、
『霧プロダクション』を設立し、製作、監督を数々を行った人である。
この『砂の器』は、橋本 忍・氏が映画完成にやまれず、
ご自分のプロダクションを設立し、資金を投じて、製作も兼ねている。
私は改めて山田洋次・氏の証言を読んで、
原作の松本清張があるにしろ、
創作され、完成までの秘話を話された山田洋次には、
清々しさを受けている。
脚本の共同著作の場合、あるお方達は僕の発想みたいに語る人が、
余りに多いからである。
この映画が完成され、原作者の松本清張・氏は、
『小説より、この映画の方がはるかに優れている』
と私は読んだことがある。
この映画に関しては、橋本 忍、山田洋次、野村芳太郎、
そして撮影の川又 、作曲、演奏の菅野光亮・・等の結晶で、
私達に感銘を与えてくれた有数な名画と感じている。
私は創作に携わる人々に敬意しているが、
今回の『砂の器』の映画には、特にこの思いが強い。